第四章【29】



「は?」


 尊は、理解出来なかった。自分が何をしたのか、ティアが何をされたのか。思考が完全に停止し、精神が真っ白に塗りつぶされた。腕にまとわりつく、血と肉の感触だけが、尊の五感に働きかけていた。


「え? はっ? な、なん……」


 唇が震える。言葉が形にならない。意識すら手放しそうになるが、尊は、何とか踏みとどまる。


「あー、駄目だったわ」


 ティアの声が響く。尊は顔を合わせた。彼女の口から血があふれていて、下顎したあごが真っ赤に染まっていた。ティアが放った拳は、尊のほおをかすめただけだった。


「なっ……なん……なんっ!?」


「駄目だったわ。殺せなかった。ごめんな、タケル」


 申しわけなさそうに笑うティア。瞳から、涙が一筋流れ、小さな光を放った。そこに来てようやく、尊は、思考を手繰りよせることが出来た。


「どうして……どうしてだっ!! 君なら、こんなっ!!」


 尊は、急ぎ腕を抜きとって、ティアの身体を抱きしめた。心臓に空いた穴から流れる血が、気味の悪い温かさを保っていた。彼女の身体から、熱が、少しずつなくなっていく。


「……ごめんな、タケル」


「違う! 俺は! 俺はっ! 謝ってほしいんじゃ……」


「最後の最後、お前に、生きてほしいって、願っちまった」


 ティアが、震わせながら、尊の背中に腕を回す。


「そうしたら、さ……もう、駄目だった。気づいたら、お前の拳を受け入れちまってた……駄目だな、ほんと」


「ティア……ティアっ!!」


 尊が力をこめて、強く、強く、ティアを抱きしめる。ティアも腕に力をこめようとしてるのを感じる。だが、彼女に残った力ではそれすら叶わないのか。彼女の腕が震えているのが、尊の背中を通して伝わった。


「ああああああ!! ティア!!」


 混沌とした思考が、クリアにならない。尊はティアを殺した。その事実を、受け入れられない。


 死ぬのは、自分だと思っていた。


 ティアの手で、死ぬのだと、本気で信じていた。


「ほんとに……馬鹿な女だよ……何が……自分の命を……」


「ティア! よせ! ティア!」


 ティアの言葉をさえぎるように尊が叫ぶ。聞きたくなかった。自らを卑下するような言葉を。彼女の口から。


 自らの命を捨てるものを認めない。ティアの信条だ。それを曲げてでも、ティアは尊の望みを認め、殺そうとしてくれた。


 だが、現実として、生きているのは誰だ。死にそうになってるのは誰だ。


「そんな……俺は、俺は生きる価値なんか」


 悲嘆があふれそうな尊の嘆き。ティアは、俺に生きてほしいというのか。そんな価値などないと、尊は本気で思ってるのに。


「タケル……もっと、もっとよく、顔を見せてくれ」


 ティアが、くぐもった声で望みを伝える。尊は、腕を彼女の肩に回して、真正面から顔を見すえた。


「タケル……タケル……タケル」


「ティア……俺は」


 ティアの両手が、尊のほおに触れる。冷たい。命の火が、もう、彼女の身体から消えかけているのが分かった。分かってしまった。


「――タケル」


 ティアが、ゆっくりと唇を動かす。伝えたいことがあるのだと察して、尊は、彼女の言葉を待った。




△△△




 気づいた時には、ティアの心臓は尊の腕に貫かれていた。


 本当に、ティアは尊を殺すつもりだった。愚かな女神の呪いに苦しんでいたから、本気で解放してやるつもりだった。


 なのに、なのに、出来なかった。


 愛してると尊に言われた時、愛しいと思った。


 この島で過ごした尊との日々が、ティアの脳内に洪水となって流れた。


 愛してる。生きてほしいと。


 その願いが浮かんだ時、もう、ティアは尊を殺せなくなった。


(愚かな女)


 尊の腕に抱きしめられながら、ぼんやりと、ティアは思った。


 自分で死ぬなんて愚かだと、言った。どうしようもない状況に陥って、初めて、愛する男のためにそれを曲げた。


 最後の最後、また、曲げた。絶対に譲らないと、そう誓っていた信念を。尊のために、二度も。


 生きてほしいから。愛してるから。


 全く、愚かな女だと。だが、ティアに恥じる気概は一切起こらなかった。それどころか、清々とした気分がみなぎっていた。尊に対する想いに、恥ずべきことなど何も、ない。


(ああ、けど、このままじゃ駄目だな)


 そうだ。尊は苦しむのだ。アンシュリトなんて、下らない女神の思惑によって、これからも苦しむというのだ。


 それは認められない。


 絶対に認めない。


 愛することは苦しい。だが、その苦しみがあってなお、愛してよかった。ティアは心から叫びたい。


 尊は、これからも苦しむのだろう。なら、せめて、自分の愛をもって、その苦しみを上書きしよう。


 アンシュリトなる、有象無象の女の愛ではなく。


 ティア=トゥガという、尊という男を本気で愛した女の愛で、呪いを上書きしてやろう。


「タケル、愛してる。生きてくれ」


 尊が苦しむというのなら、苦しむ度に愛を思い出させよう。


「愛してる。生きてくれ」


 愛と苦しみが分かたれないのなら、両者を結びつけてやろう。


「愛してる。生きてくれ」


 尊が苦しむ度に、思い出させてやろう。


 ティア=トゥガは、尊のことを本気で愛していたのだと。


 だから生きてほしい。愛したことを、消さないでほしい。


 そう、これは、呪いの上書き。


 アンシュリトの愛と呪いを。


 ティアの愛と呪いで、上書きするのだ。


がたいほど、愚かな女)


 呪いから、愛する男を解き放つつもりだったのに、結局、自分が呪いをかけることになった。愚かと言わずして何とする。


 それでも、アンシュリトに渡すわけにはいかない。


 尊の愛はティアのもので、ティアの愛は尊のものだ。尊の苦しみはティアのものであり、ティアの苦しみは尊のもの。そうでなければならないのだ。


「愛してる。生きて――」


「分かった」


 尊が、ティアにキスをした。まるで、誓いのキスのようだ。生きるよ、誓うよと。このキスをもって、ティアに示したのだ。歓喜で心が満ちていく。


「あっ……ああ」


 もっと、最後に、伝えないと。ティアの意識がどんどんと薄れていく。口を動かそうとする。動かない。


 最後なのか。


 長い時間を生きた。その時間のほとんどが、激しい感情のままに突き動かされた人生だった。憎しみだったり、闘争心だったり、激情こそがティア=トゥガという女だった。


 だが、最後の最後に心を動かしたのは、愛。


 誰かを想う気持ちでもって、ティアは逝く。


「……ケ、ル」


 愛してる。


 もう、何度も何度も言ってるのに、やっぱり、一番伝えたい言葉はどうしてもそれだった。それしかなかった。


 ふっと、ティアの全身から力が消えた。


 今際いまわきわに、尊が、どんな顔をしているのかだけ、ティアは知りたかった。

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