第四章【26】


「数日ね」


 ティアが意外そうに言った。彼女としては、数日の猶予すら、想像してなかったのだろう。


「どうにか……ならないかな」


「なるかもしれねぇが、正直、望み薄だな」


 尊が唇を噛む。分かってはいる。たかだか数日だけの猶予で、何かを変えるなんて不可能だ。そんなこと、分かっている。


 けど、じゃあどうすればいいのだ。懊悩おうのうが尊の脳を殴る。


「ここから、逃げよう」


「どうやって?」


「俺と君なら、泳げばなんとかなる」


「出来たとして、どこに行くんだ?」


「静かに暮らせる、どこかを目指すんだ」


「いいな、それ。いいなぁ、静かに暮らして、今度は本格的に農家、目指してみっかぁ」


 かかか、とティアが楽しそうに笑う。ただ、その影に隠れているのは、諦念。尊は拳を握るしかなかった。


「タケル……この世界に、あたしの生きる場所はない。この島だけが、生きることを許していた。だが、それも、封印がほどけたことでご破算だ。この世界はあたしを許さない」


「どうしてだ……君が犯したのは罪かもしれない。けど、どうして、言われるがままに罰を受けなければならない。話しあうことすら、不可能なのか。ティアは……俺と一緒なら、静かに生きてくれるかもしれないのに」


 どうして。尊を支配する言葉はこれだ。


 どうして、ティアを放ってくれないのだ。どうして、静かにしてくれないのだ。どうして、話しすらさせてもらえないのだ。


 どうして、ティアはあきらめるんだ。


「ティア、生きよう。最後の最後まで、生きることをあきらめないで」


「そうなれば、あたしは世界と戦う」


「それ以外の方法を探そう」


「無理だ」


 きっぱりと、ティアが尊の言葉を切り捨てた。きもが座っている。彼女は、もう、戦い以外の道がないと思っているのだろうか。


「なぁ、タケル」


「……何だい?」


「あたしと一緒に戦うことは出来ないか?」


 ティアの声が、槍となって尊を刺した。痛くて、思わず、胸をつかんだ。その願いは一度断ったものだ。断られたことを理解してなお、彼女は再度願っている。


「あたしは生きた。お前と生きたい。けど、この状況から生き残るなら……2人の力で、世界に勝つしかないと思うんだ」


「そんな、ことは」


「タケルは、前に言ったよな? 『無謀な復讐に身をやつのは自らの命を捨てるのと何が違う』、ってな。そうだ、1人なら無謀だ。だが、2人なら、無謀じゃないかもしれない」


 ティアの口調は静謐ながら、芯の強さがあった。尊と2人でなら、という、ある種後ろ向きながらも確かな希望があるのだと、尊は感じた。


 世界と、戦う。


 ティアとともに。


 ティアと生きる。


 そのために。


 その時、尊の脳裏に流れたものは、一体、何か?


「ごめんよ」


 尊は泣いた。泣くことしか出来なかった。


「俺は……俺はどうしても、世界と戦えない。この世界には、俺の大事な人が確かに存在して……その人達は、皆、すべからく世界に生きている。戦いたくない、戦いたくないんだ」


 それを聞いても、ティアは、尊を責めなかった。むしろ、瞳が慈愛に満ちていた。


「知ってたよ」


「ティア……ごめんよ」


「謝るなよ。そんなタケルのことが、あたしは好きなんだよ。惚れてるんだ」


 ティアの指が、尊の涙を拭った。


「――ああ、そう言えば……あたし、お前に惚れたんだよなあ、うん」


「ティア?」


「タケル、お前、死にたいか?」


 さらっと、ティアは言った。あまりにも急に流れた言葉に、尊の時間が止まった。


「あたしなら、お前を殺せるなぁ、うん。お前の望みを叶えてやれるんだよなぁ」


「ティア、それは!」


「一緒に生きるのが駄目なら、一緒に死のう」


「は?」


「お前を殺して、あたしも死ぬ」


 尊の足が震えた。次に、手が震えた。そして、頭蓋ずがいが揺さぶられた。


「だって、だって君は、自らの命を……」


「そうだな、自分から死ぬなんて絶対駄目だって、今でも思ってるよ」


「だったら!」


「それを曲げてもいいって思うほど、タケルに惚れた」


 今度はティアが泣いていた。


「一緒に生きたいけどさ、難しいわ。それなら、惚れた男の願いを叶えてから死にてぇ」


 ああ、そうか、そうなのか。


 俺は、彼女の譲れないものを譲らせてしまうほど、愛されたのか。愛されてしまったのか。


 苦しい。


 ティアにその言葉を出させてしまったのが、これほど苦しいなんて。想像もしていなかった。


 でも、ティアも苦しい。


 そうに違いない。だって、彼女は泣いているから。


 尊は彼女の涙を指で拭った。


『駄目よ!! その女の誘いに乗っては駄目!!』


 アンシュリトの声が尊の脳に響く。やかましい。今、俺はティアと話をしているんだと。尊が口を開く。


「――やかましい」


 その前に、ティアがつぶやいた。低く、重く、声の圧力だけで、全てを滅するようであった。


「ああ、ようやくはっきりと感じることが出来たぞ。お前が、クソ阿婆擦あばずれ女神のアンシュリトだな。あたしの愛するタケルを、よくぞ今まで……」


『ひっ……』


「あたしとタケルの間に、入ってくるな」


 アンシュリトの声が聞こえなくなる。ティアの強さを、ひしひしと感じた。神の座なんていう不可侵領域にすら、その威容を叩きつける。それが可能なのがティア=トゥガ。尊の愛する女性。


「愛してるぜタケル。殺してもいい、死んでもいいって、思えるほどに」


 最高、最強、最凶の殺し文句だ。こんなもの、受け入れるしかない。尊は、もう、ティアの姿しか見えなかった。


「ティア、君を愛してる。殺されてもいい。いや、君に、殺されたい」


 だから、尊も自身の想いを最大限まで乗せて、殺し文句で返す。


 ティアは、ほおを赤らめて、瞳を潤ませた。

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