第三章【31】



 決着がついた段階で、尊は身体の自由を取り戻した。暗剣モグルスの使い手が亡くなったからだろうか。それとも、剣自体が機能不全に陥ったからだろうか。理屈はとにかく、身体が言うことを聞くようになったのは、まぁ、ありがたいことである。


「タケルさん……大丈夫ですか?」


 おずおずとホーリィが聞いてくる。尊はゆっくりと《“鬼神”》の姿を解いて、穏やかな笑顔を向けた。


「ええ、大丈夫ですよ。あとはこの身体が勝手に色々癒やしてくれるはずなので」


「良かったぁ……」


「すみません。色々とご心配おかけしたようで」


「いえ、謝るのは……私の方です」


「それは」


「私の軽率な行動がタケルさんを苦しめました……反省してもしきれません……」


「気にしてませんよ、だって、俺のためにしてくれたことなんでしょう?」


「でも……」


「ああ、そう言えば……呼び方、変わってますね。そっちの方が距離が近くなったようで嬉しいです」


 努めて丸く、やんわりと尊はホーリィに言った。ホーリィが、みるみるうちに表情を泣き顔へ変化させていく。尊としては場を和ませようとしたつもりだったが、逆効果だったのかと焦りが生まれた。


「すっ、すみません! こんな時にこんなことを!」


「タケルさんっ!」


 とにかく何か弁明をしようとした尊をさえぎり、ホーリィがその胸に飛び込んでいった。涙が濁流のように流れている。


「タケルさんっ! タケルさんっ!」


 強く、強く尊へと抱きついている。嬉しさも、悔しさも、寂しさも、全てが混ぜって感情の奔流となっているのだろうか。幼子おさなごのように泣きじゃくりながら、ひたすら尊へホーリィは抱きついている。


「タケルさんっ! 好きです! 大好きです!」


「ありがとう……俺も、ホーリィさんのことを」


「違うの! 私は、1人の男性として! タケルさん、あなたのことが大好きなんです!」


 確かに向けられた、恋慕の念。まだ泣き止む気配はないホーリィは、どんな想いでそれを伝えたのだろうか。自然と尊は彼女の頭を撫でていた。


(ああ、本当に)


 愛おしい。


 あまりにも、愛おしい。


 この少女はどこまでも純粋で、愛おしい。


 きっと、純粋に尊を尊敬し、純粋に尊を敬い、そして、純粋に尊を愛してくれているのだ。


 ホーリィという少女の美点であり、失くしてはいけないもの。これらは、きっと、神聖十字教という宗教が存在してくれたが故のものだ。神聖十字教が彼女を育ててくれた。


 そして、この子は、そんな素晴らしい宗教の未来を担う。尊は、それを確信している。


 その未来を絶やしてはならない。


「ホーリィさん、あなたの想いは嬉しい。本当に嬉しい。けど、ごめんなさい。俺はそれを受け取ることは出来ない」


「どうして……どうして、ですか?」


 抱きついた姿勢のまま、ホーリィは泣きはらした瞳を上目遣いで尊に向ける。その視線をしっかりと受けながら、尊はまた言葉を紡ぐ。優しい彼女を、少しでも傷つけないように。


「ホーリィさん、俺は、あなたに、誰よりもたっとき聖者となって欲しいんです」


「私、が?」


「あなたなら、きっと、多くの人を救える偉大な聖者となります」


「私がそこへ至る道に……タケルさんは隣にいてくれないのですか?」


「……本当は、ずっと隣で見ていたい」


「だったら!」


「でも、それは駄目だ」


 ホーリィの主張が飛び出す前に、尊は、彼女の右の手のひらを両手で包む。雪を思わせるかのような柔らかさだ。そんな彼女の手を、丁寧に包んでいく。尊の想いが、少しでも多く伝わるよう願いを込めて。


「やはり、駄目だ。俺の道にはどうしたって障害が多い」


「タケルさんのためなら、どんな障害が来ようと苦になりません!」


「ありがとう、でも、それでは、ホーリィさんが俺だけ・・・を救おうとしてしまう」


「そうなっても構わない!」


「それは、駄目だよ。駄目だよ、ホーリィさん」


「どうして!?」


「だって、俺が好きなのは……誰よりも純粋に救いの意味を求めている、そんなホーリィさんなんだ」


 はっとしたように、ホーリィが目を見開く。


 そうだ、ここでホーリィが尊に恋い焦がれ、彼の愛を求めてしまったら、きっと、彼だけを救う道を求めてしまうだろう。けど、尊は、どうしてもそれを認めたくなかった。


 この子には、偉大な聖者になって欲しいと、思ってしまったから。


「けど……けど……そうなったら、誰が、誰が、タケルさんを救うんですか?」


 空いた左手でローブの襟元を強く握って、ホーリィが訴える。


「私は、タケルさんを……救いたくて……でも、救えなくて……お父様も、失って……私は……」


 ああ、そうか、そうだったのか。


 ホーリィは、父を失い、これから、愛する人を失おうとしているのか。


 その上、優しいこの子は愛する人を未だ救えていないと思っている。


 なら、伝えなければならない。


「もう、充分、救われてますよ」


 尊は、ホーリィに、救われたのだということを。


「ホーリィさん、あなたと出会う前の俺は、心をすり減らしていた。自分で歩んだ道の中、不幸にしか目を向けなかった。忌むべき人間だと、生きている価値はないと思い続けた。いや、今でもそれは正直ぬぐえない」


「だったら!」


「けど、そうじゃなかった。ちゃんと幸せなことだってあったんだ」


 尊の生きてきた道は、不幸があった。それは事実だ。けど、幸せなことだって確かにあった。


 その幸せは確かに、尊の中で積み重なって、そこに根付いていた。やっと、尊はそこに目を向けることが出来たのだ。


 ホーリィが、ホーリィ達が、尊を必死に救おうとしてくれたから、やっと尊は目を向けることが出来た。


「どうしたって、この命は不幸を撒き散らす存在だ。消してしまった方が良い。その考えは変えられない。けど、今の心地なら、きっと俺は幸せな気持ちのまま、この命を終わらせることが出来る。だって、確かに俺は、幸せだったんだから」


「私は……タケルさんに、生きてて欲しい。生きてもっと、幸せになって欲しい……」


「ありがとう、本当に、ありがとう。そこまで、俺のことを大事にしてくれて。けど、これは、俺にとっての、救いの形なんだ」


「救いの……形……」


「生きるのではなく、死に向かう。そこに至るために、救われる。それだって立派な救いの形じゃないですか」


 これが、この救いの形が、ホーリィ達が目指した形でないことなんて、尊にだって分かっている。


 そして、ホーリィ達が目指した救いの形こそが、尊を何よりも幸せに導いてくれる。きっとそうなのだろう。


 だけど、尊にとっては、これで充分なのだ。


 尊は幸せだった。それが分かった。その切っ掛けをくれた。


 それだけでも、ホーリィや、アレクスや、神聖十字教の者達と出会えた価値があったのだ。


「俺は、もう充分です。充分救われた。だから、ここで大丈夫。これからは、多くの人に、あなたの優しさを与えて下さい。多くの人を救えるように、救いの形を作り上げて下さい――どうか、光り輝く聖者となって下さい」


 そこまで言ったところで、尊は、ホーリィの手をそっと離した。


 ホーリィはまだ泣き止まない。けど、悲しみをこらえていることが尊には分かった。その瞳に、強い意志と覚悟が見えたから。引き止めたくて、引き止めたくて仕方ないのだろう。それでも、愛する人であり、敬愛する師である尊の想いを、精一杯に尊重しようしている。


「タケルさん……大好きです。たとえ誰もが認めなくても、タケルさん自身が認めなくても、私にとって、あなたは、誰よりも尊敬する師であり……偉大な聖者です」


 聖者。その言葉はいつも尊を苦しめた。自分は聖者なんかじゃない、聖者に相応しくない。そんな風に自分に言い聞かせてきた。


 けど、今なら、その言葉を受け入れられる。


 そんな気がした。


「さよなら、今まで、ありがとう。俺と出会ってくれてありがとう」


 心よりの感謝を述べて、尊はホーリィに背を向ける。ホーリィはその背中を、見えなくなるまで、ずっと、ずっと、見守っていた。


 数分後、神聖十字騎士団のセントが彼女を保護した時、尊の姿はアマロ大聖堂から完全に消え去ってしまった。


 


△△△




 教皇アレクス=イリノケンチウスが亡くなった後、しばらくその座は空位のままであった。


 神に選ばれ、愛されるほどの神官が――聖者が現れなかったのだ。


 だが、最終的に1人の人物がその座に就くことになる。


 それこそが、ホーリィ=イリノケンチウス、アレクスの義理の娘であった。


 世界中を飛び回り、ありとあらゆる人々を様々な手段で救ってきたホーリィ=イリノケンチウス。そんな彼女が教皇となるに反対の声を上げる者は皆無であった。そうして、教皇ホーリィが誕生することに相成ったのである。


 なお、ホーリィが新しい教皇として即位したその日、長きに渡り神聖十字教会を支えてきたベネディクトゥス卿が息を引き取った。まるで、自分の仕事を終えたかのように。


 そんな彼は、自らの手記の最後にこう書き記している。


『あの人は、間違いなく聖者であった。その証拠が、ホーリィ=イリノケンチウスという偉大な聖者だ』


 この短い文章における“あの人”とは誰のことなのか……歴史家によって様々な研究がなされるも、確実な答えはついぞ出ることがなかった。

 

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