第三章【28】

 


 その日は、何とも綺麗な夜空だった。


 深い、深い、深海を思わせるかのような濃紺の夜空。そんな中をチラチラと魚群のような星達が輝いている。美しいけど、どこか怖い、そんな夜だった。


 男にとって、夜とは都合の良いものだ。


 人の営みが静かになる。少なくとも、男が潜んでいるアマロ大聖堂ではそうだ。色々と動きやすくなる。


 辺りが暗くなれば、姿を消せる。


 人が寝静まれば、気配を消せる。


 邪神・クシュニュの寵愛を受けた生粋の暗殺者たる男にとって、夜というのは大変好ましいものであるのだ。


 そんな夜に、男は暗殺を実行した。


 神聖十字教会教皇、アレクス=イリノケンチウスを殺したのだ。


「あなたのことを愛してました、本当です」


 物言わぬむくろとなったアレクスを見下ろしながら、男は唇を揺らした。涙がつーっと流れている。


 驚くほどにあっさり、殺せた。


 ありとあらゆる状況が男にとって有利に働いていたのだ。尊が教会に来てからというもの、教皇アレクスは多忙を極めていた。連日の会議に、秩序の神への儀式、邪神・アンシュリトの調査。それらが負担となり、アレクスから心身の余裕を削り取っていった。


 アレクスがそうなら下についている者達もそうだ。特に、枢軸卿達はアレクス並に忙しかった。忙しいから、周りが見えていなかった。


 だが、何より都合が良かったのが神聖十字騎士団だろう。本来教皇の護衛を務める騎士団のリソースが、恐ろしい力を持つ尊に割かれてしまった。普通に考えればあり得ないことだろう。自分達の護るべき存在を無視して他の者を護ろうなど言語道断だ。


 だが、この判断を下したのは他ならぬアレクスだ。


 理由は単純。本来ならば、アレクスは簡単に殺せないからだ。秩序の神々より与えられた数々の加護スキルが、彼等からの祝福が、アレクスの命を護っている。騎士団から護られなくても構わないと判断をしてしまったのだ。それが、アレクスの命へ繋がる道を決定的なものとしてしまったのだ。


 男は、アレクスを殺せる手段を、ずっと、ずっと、隠し持っていたのだ。


「猊下、今までありがとうございます」


 感謝の言葉を述べながら、男は、物言わぬアレクスの身体を刻んでいく。右腕から剣が伸びている。細く、鋭く、無骨な刀身。なのに、病的なまでに妖艶な輝きが刀身からきらめいている。


 少しでも惨たらしく見せた方が良い。圧倒的なまでの暴力で殺されたのだ。そう思わせた方が、尊が殺したのだと偽装出来る。


「あなたのことを本気で尊敬していました。ですが、私にはクシュニュ様がいました。だから殺しました」


 ぽつり、ぽつりと男は語りかける。右腕から伸びる刃は、未だアレクスの遺体を傷つけていた。


 凶行とは裏腹に、男の口調は穏やかで丸い。さながら師を慕う弟子を思わせた。尊敬の念があることに疑いはない。であるならば、この男は、敬意と殺意をその心に両立させているのだ。


 本気で尊敬していた。


 だけど殺す。


 だって、男にとって、それは、生まれた時から定められていた運命だからだ。


 やがて、刃が止まる。するりと、男の右腕に刀身が入っていった。この剣は、男の右腕そのものが鞘なのだ。


 アレクスの身体は、見るも無残なものとなっていた。男は、すでに泣き止んでいる。


「ああ、きっと私は、運が良い。そうとしか思えない。これほど運が向いているのなら、いっそ……」


 男の脳裏に、ささやきがもたらされる。悪魔的なささやきだ。一歩間違えれば破滅。だが、今の男にとって不可能はなかった。


「あと1人、クシュニュ様にとって障害となる者を殺そうか」


 そうだ、それが良い。


 誰にしようか。


「ああ、あの子にしよう」


 教皇の娘。


 血の繋がりはなくとも、彼にとって大事な娘。


 教皇の後釜になり得る者の1人。


 その考えが浮かんだ時、男――ステファネ卿は、うっすらと微笑みを浮かべていた。


 夜の闇に、その身を潜ませながら。




△△△




「残念ですが、もう逃げられませんよ」


 背中にホーリィの細い身体を隠しながら、尊はステファネ卿と対峙する。糸のように細い目から、ぬめりとした殺気が尊へ向けられた。《“鬼神”》のかんばせは無表情にそれを受けていた。


「私は、もうあなたを敵とみなしました。この先は死ぬか死なないかの違いです。じきに神聖十字騎士団の方々も包囲網を完成させるでしょう。あなたは、もう逃げられない」


 どこまでも淡々とした尊の通告。だが、そこには密やかな怒りが込められていた。目の前にいる人物は、ホーリィを殺そうとした。その事実が、尊に怒りの炎をくべたのだ。《“一切皆苦”》は、憎悪が果てるまで戦いを止めさせない。つまり、もう、戦いは避けられない。逃がすことも、逃げることも出来ない。


「失敗しました……欲を出した結果がこれでは……全く、最後の最後にこれか」


 諦観ていかんが混じった息を吐きながら、ステファネ卿が短くもらす。


「言いたいことはそれだけですか?」


「ここで泣いて土下座して足をなめて赦しを乞えば見逃してくれるとでも?」


「あなたは、人を殺しました。誰よりも素晴らしい人でした」


「知ってます。間近で見てましたから」


「何故、そんなことをしたのです?」


「生まれた時からそういう定めだったからとしか」


 あっさりと言ってのけるステファネ卿。尊の横ではホーリィがうつむき唇を噛んでいる。充ち充ちる無念が尊にも伝わった。あまりにも憤懣ふんまんやるかたない。尊にとっても、ホーリィにとっても。


「さて、逃げられないと言いましたね」


 そんなことは露知らずといった風情で、ステファネ卿が言い放つ。尊の言葉にも、ホーリィの姿にも一切の心を動かしていない。尊はその姿にどこか見覚えがあった。


 トビレヤ=アジュタ。かつて尊が戦い、殺した女性の姿だ。飄々ひょうひょうとしていながら、猛禽のような瞳をしている。ありとりあらゆる意味で、目の前の男は彼女と似ていた。


 いや、この男は、きっと。


「逃げるつもりもありませんよ。ですが、ここまで来たら、このままで終わらせない。その娘は、絶対に殺す」


 その言葉を吐いた途端、ステファネ卿の気配が消えた。目の前にいたはずなのに、その姿が見えなくなる。


「ホーリィさん」


「は、はい!」


「絶対に側から離れないで下さい」


 ホーリィが無言で尊に身体を寄せる。表情から不安を必死に押し殺していることが分かった。無理もない。命を狙うと、面と向かって宣言されたのだ。


 狭く、薄暗く、入り組んだ地下通路。これは、きっと、相手にとって絶好のロケーション。暗殺者にとっては、まさに好立地。


 間違いなく言えることがある。


 きっと、これから戦う男は。


 かつて尊を殺しかけた、トビレヤよりも、ずっと強い。


 

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