第三章【21】





 どれほどの時間が経過したのだろうか。


 おそらくは、2時間以上は話をした気がする。一区切りがついた段階で、尊はそんなことをぼんやり考えていた。


 本当に色んなことを話した。


 日本で生まれたこと。

 名前の由来のこと。

 家族がいたこと。

 アンシュリトとのこと。

 アルトス村でのこと。

 ユアのこと。

 スカーフとローブのこと。

 シャーフェのこと。

 トビレヤのこと。

 グラドヴァンゾンビのこと。

 ハーディとスカットのこと。

 エモディアのこと。


 死。転生。加護。呪縛。出会い。別れ。悲しみ。苦しみ。絶望。


 色んなことを、噛みしめながら、あふれ出ないように、ゆっくりと話した。沼地に沈む泥をスコップで少しずつ掘り出していくような心境であった。


 全てを話し終わった。腹の中にあるもの、全部を吐き出した。これ以上はもう何も出てこない。そんなところまで来て、尊は、1番言いたかった言葉を絞り出すことにした。


「猊下、どうか私を殺して下さい。この命を終わらせて下さい」


 殺して欲しい、尊が願って止まないことだ。心からの望みだ。何でか、尊の顔には自然と笑顔が浮んでいた。


 生きるべきではないじゃないか。こんなにも色んな人を不幸にして、傷つけ、苦しめて。これ以上生きてなにになる。


 終わらせたい。呪われたこの身を。


 それが、尊の望みだ。それを余すことなく伝えた。


「猊下は、私の力になりたいとおっしゃいました」


「……ああ」


「であるならば、私の命を、この忌まわしき旅を、ここで終わらせて下さい。それが私の望みです」


 円卓が静寂せいじゃくに包まれる。尊の願いに誰も言葉を出せなかった。それもそうだろう、こんな話を聞かされたって何を返して良いか分からなくなってしまう。そんなこと、尊が一番良く分かっていた。


 ふと、誰かのすすり泣く声が、尊の耳に聞こえてきた。声がした方を向くと、ホーリィが目を真っ赤にして泣いていた。きわまりそうになっている感情を、必死に抑えているようだ。


 いや、良く見たらホーリィだけではない。彼女以外にも涙を流す人物がちらほらいた。ホーリィの兄であるセントからも鼻をすする音が聞こえている。涙を流していない者達でさえ、尊をいやしめようとする者は誰もいなかった。


 そうか、あわれんでくれているのか。


 この俺を。


 尊には、この部屋にいる全員が輝かしく見えた。


「駄目です……」


 涙声の中、ホーリィがかすかに主張をあげる。


「駄目です……私達は……タケル様を、この素晴らしい人の命を、奪ってはなりません」


「ホーリィさん……」


「望みを叶えるべきなのかもしれません。けど、そんな悲しい望み、受け入れられません。私は、タケル様に生きていて欲しいんです……」


 そこまで言ったところで、ホーリィが声を上げて泣きじゃくった。留めていた激流を抑えきれなくなったのだろう。それにつられてか、周囲のすすり泣きがその音量を1段階上げた。


 もはや、この場にいる誰もが、尊の死を望んでいなかった。


「良い人達ですね」


「ああ、私の誇りだ」


 アレクスの言葉には、一点のくもりもない。青天がごとき爽やかさだ。まぶしい、どこまでもまぶしい人である。


「ホーリィよ、タケル殿に生きて欲しいと言ったな」


「……はい」


「私も同じだ」


 尊に、生きていて欲しい。


 それは、この教皇アレクスであっても、例外ではなかったらしい。


「タケル殿、私は神々から【タケル殿の望みを叶えろ】との導きを得た」


「存じ上げております」


「だが、その望みは聞けない」


「猊下は、私の力になりたいとおっしゃいました」


「言った。そしるなら、誹って欲しい」


「それは……」


「私は、あなたの力になりたいと思う。だが、あなたを死なせることはしたくない」


 堂々としたアレクスの物言い。尊の語気はどんどんと小さくなっていく。


 目の前にいる男は、どうしようもないくらいの善人だ。秩序の神々による導き、邪神による呪い、そんなことはどうでも良い。ただ、自らの善性に従い救うべき誰かを救う。そのために生きている男なのだ。それこそが、アレクス=イリノケンチウスという男なのだ。


 宗教とは何なのか? その根本の原理は何なのだ?


 それは、誰かを救いたいという強い意志。


 イエス=キリストも、ブッダも、苦しむ誰かを本気で救いたいと考えたから、宗教を創ったはずだ。あまりにも純なるその想いをもって、宗教という1つの幻想を創りあげたのだ。


 そして、それは、きっと、神聖十字教だってそうだ。


 もうニ度と、多くの人を苦しめてはならない。


 もうニ度と、世界に大乱をもたらしてはならない。


 苦しめるのではない。


 救うのだ。


 そんな願いから創られたのが、神聖十字教。


 教皇たるアレクス=イリノケンチウスは、紛れもなくそれを体現していた。


「タケル殿、私はあなたの力になりたい。そして、あなたの望みを叶えたい。ですが、死にたいなんて望み……どうして叶えることが出来ますか」


「生きるべきではないのです。私は、生きているだけで不幸を撒き散らす。秩序の神々もきっとそれを分かっていた」


「あなたの言いたいことは分かります。ですが1つ聞きたい。この世界を、信じることは出来ませんか?」


「世界を、信じる?」


「この世界は、オグト=レアクトゥスは、あなたに不幸しか与えませんでしたか? あなたの思い出には、不幸しかありませんか?」


 違う。そんなことはない。


 ユア、シャーフェ、エモディア。他にも、様々な人が尊のことを幸せにしてくれた。それを忘れたことなんて尊は一度もない。いつだって、彼女達の笑顔は鮮明に思い出せる。


 そう叫びたかった。そのはずなのに、尊の唇は、ピクリとも動いてくれなかった。


「もし、少しでも違うと思ってくれたのなら……あと少しだけで良い、どうか信じて欲しい。私には、今あなたが抱える望みが、本気のものでないことを信じている。のためではない、せいのための望みこそをあなたから聞きたい。そして、それこそを、私は、私達は、全力で叶えようと思う」


 信じて欲しい。その言葉が、尊の心の真ん中へ直接入り込んでいく。入って、入り込んで、優しく胸をしめつけてくる。心地良いけど、痛かった。


 尊は真黒のローブの襟元を握った。アレクスの視線をそこへ向けるために。


「見て下さい、このローブを……これは、元々綺麗な白色だったんです」


 訴えるように尊が絞り出す。


「ええ、見慣れたものですからね。神聖十字教私達のローブです」


「これが、今や血で染まりに染まり、赤色を飛び越して黒色です。どれだけの血を浴びて来たのでしょうか。けがれているではありませんか。こんな男が、生きているべきだと?」


「その黒染めのローブは、あなたが必死に生きた証です。どこに穢れがあると申すのか。私は、そのローブをあなたへのこしてくれた方に、教皇として、精一杯の賛辞を送ります」


 瞬間、フラッシュバックするユアとクアルンの顔。


 この世界で、初めて、尊に優しくしてくれた人々。


 俺は、もうニ度と、あの人達のような……。


「分かってはいるんです。こんな考えはあまりに後ろ暗過ぎる。けど、それでも、駄目なんです。私が生きているがために、誰かが苦しむ。それが許せない」


「タケル殿の考えは痛いほどに伝わりました。その上で、我等を信じて欲しい」


 そう言ったところで、アレクスは周囲の者達を睥睨へいげいする。即座に、彼等はこうべを垂れた。


「聞いた通りだ。ここにいる者の中で、私の考えに賛同出来ない者はいるか?」


 無言。誰も何も言わない。


「ここにいる者の中で、タケル殿は死ぬべきだと考える者はいるか?」


 またしても、無言。


「ここにいる者の中で、彼を救えないと思う者はいるか?」


 これもまた、無言。


 ここに、この場に、反対の意を述べる者は、1人としていなかった。


「タケル殿、再度お願いをさせて欲しい。どうか、我等を信じていただけないだろうか。私達は、あなたを救って、幸せにしたいのだ」


 これが、神聖十字教なのか。尊は思わず惜しみない拍手をしたくなった。あまりにも、あまりにも鮮やかに宗教の純なる姿を映している。


「分かりました。もう少し、もう少しだけ、信じます」


 こんなものを見せられては、尊もこんな風に言うしかない。それほどまでに、鮮烈なものだ。


 尊は、尊き人でありたいと願い、生きてきた。


 ここにいる人全てが、まさにそんな尊き人たる姿ではないだろうか。尊は、そう思わずにいられなかった。

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