第三章【18】



「言葉すら越えた境地というのがさとり、というものですか?」


「そうです。悟りをひらくことが人々の救いになるとした。それが仏教です」


「なるほど……宗教というよりは、どこか哲学のような感じがします」


「おお、さといですね。私が元々いた世界でも、同じような意見がありましたよ」


 教皇アレクスの邸宅、尊に貸し与えられた部屋の中、尊とホーリィは2人で会話を重ねていた。ドア付近にはセントも控えていたが、基本的に彼は干渉してこない。尊の話し相手はほとんどがホーリィだ。


「悟り……どのようにすれば、そこへ至ることが出来ますか?」


「こればっかりは確実な方法がないです。自分なりの方法で自身の心と向き合うしかないと思います」


 結局、尊とホーリィの関係は師弟という形に落ち着きつつある。良くない、良くないとは思っていても尊はズルズルとこの関係を維持していた。


 ここに来てから、もう1ヶ月は過ごした。自身を殺してくれないのなら留まる必要はない。そのはずなのだが尊の腰は重かった。出ようと意識してはいても、なかなか行動に移せないでいる。


 原因は言わずもがなホーリィである。


 この少女は純粋過ぎるほどに尊を慕ってくれている。狂信じみた部分がないわけでもないが、ここまでの好意を向けられて、それをむげに出来るほど尊は冷徹になれなかった。


 それと、ホーリィとの会話が楽しいのもある。彼女はかなり利発だ。尊から教えられる知識を片っ端から吸収してはそれを彼女自身の知識としていく。素直な性格からか、尊の言葉を全て真摯に受け入れており、決して真っ向から否定をしなかったのも大きい。弟子としては間違いなく優秀な人物だ。というか、尊は自分より優秀だと本気で思っている。


 何せ尊の知識は焼刃やきばでしかない。学者でもなければ僧侶でもない、元はただの高校生だ。ホーリィに教えている知識だって、元の世界で読んだ本からの受け売りがほとんどだ。自分自身の経験から血を通わせたものではない。そんな教えをホーリィは飲み込んで、咀嚼そしゃくし、血肉としていっている。本当に優秀だ。そんな相手との会話は楽しい。


(シャーフェやエモディアも聡明だったけど……彼女もそれに匹敵するな)


 かつて愛した女達のことを尊は思い出す。2人とも、とんでもなく優秀な人物だった。心を通わせるたびに敵わないなと思い知らされていたものだった。尊のほおに、自然と微笑みが浮かぶ。


「――タケル様? 何をお考えになられているのですか??」


 ぞわっと、心の臟を鷲掴みにするような低音が尊の耳に刺さる。ホーリィが笑顔で尊を見ている。しかして、満面の笑みは氷のように冷たい。


「いや、その、大したことではありませんよ」


「そうですか」


「というより、どうしました? 何か気分を害すことでもしてしまいましたか?」


「……いえ」


 ホーリィが目を伏せる。明らかに機嫌がよろしくなかった。尊としては、彼女がそうなった理由に皆目検討がつかない。


「ホーリィ」


 そんな時、ドアの近くにいたセントから声がかけられた。


「そろそろ時間だ」


「えっ?! もうそんな時間?!」


「ああ、この後は予定があるだろう?」


「……そう、ですが」


 ホーリィの歯切れが悪い。素直な性格の彼女にしては珍しい反応だった。


「ホーリィさん、私のことはお気になさらずに」


「タケル様……」


「あなたのやるべきことを優先して下さい」


 尊が優しく諭す。敬愛する尊に反抗は出来なかったのか、後ろ髪を引かれる様子を見せながらもホーリィがセントの側に寄る。


「タケル様」


「はい?」


「また、明日もお話しましょう。教わりたいことがたくさんあります」


「はい、分かりました」


 少しでもホーリィが安心するように、努めて優しく朗らかな口調で尊が答える。何か不安のようなものを彼女から感じた。尊としてもそのことが気にならないわけでもないが、あまり深入りするのもよろしくない。


「それでは、また」


「ええ、また明日」


 ホーリィがセントとともに部屋から出る。静寂が尊を包み込んだ。


「さて」


 誰に言われるまでもなく、尊は床に座って座禅を組む。この思索の時間だけは、いくら時を重ねようと捨てることが出来なかった。


 頭の中から余計なものをなくす。


 思考の海に沈み、沈んだ先で浮かぶ何かに耳を傾ける。そこに言葉はない。流れてきたものをそのまま受け止めるのだ。


 ふと、自分の手が首元に当てられていることを感じた。指先を綺麗にそろえ、尖らせ、まるで1つのナイフのようにして、押し当てている。


「――蘇婆訶そわか


 果たして、それは、何に対しての祈りだったのだろうか。尊には分からなかった。分からないまま、《“鬼神”》の姿を解放させる。


 これで、尊の手は正真正銘のナイフとなった。かつてミスリルゴーレムすら切り裂いた手だ。その切れ味を疑う余地はない。


「ああ、そうか」


 何となく、尊は気づいていた。いや、予感していたというべきか。


「ここなら、ここでなら」


 自分は、死ねるかもしれない。


 理由は分からない。


 アンシュリトの影響が少なくなるからだろうか?


 この邸宅自体に何か細工があるのだろうか?


 アマロ大聖堂に近いからだろうか?


 秩序の神の影響下にあるからだろうか?


 根本の理由は、原因は、分からない。


 だが、大事なのはそこではない。


 大事なのは、そうであるという予感。


「呪いの影響が弱まっている」


 今ならば、自死を許さない《“一切皆苦”》の呪いを乗り越えて、自らの命を絶つことが出来るのではないか。その予感があれば、尊には十分だった。



『また、明日もお話しましょう。教わりたいことがたくさんあります』



 尊の耳に流れ響くホーリィの声。心が痛む。だが、それを無理矢理振り切り、鋭利なる指先を首に押し当てる。


「――ふっ!」


 浅い呼吸とともに、尊は指に全力を込めた。案の定、《“一切皆苦”》が発動してその動きを停止させようとする。


「いける」


 尊の中で、予感が確信に変わった。今までならばピクリとも動かないはずの指先は、確かに尊の首を浅く突き刺していたのだ。つっ、とそこから一筋の血が流れて真黒のスカーフに赤い染みを落とした。


 これなら、これならば、俺の精神力で、呪いを超えることが出来る。


「ぐっ、ぐうううううう!!」


 歯をきしませ、ナイフとなった指先をさらに押し込めようとする。抵抗する《“一切皆苦”》。自身の中にある呪いと尊の一騎打ちだ。


「ぐ、があああああああ!!」


 押し込めろ。


 掻き斬れ。


 血を流せ。


 この命を。


 ここで終わらせろ!!


 尊の指がじわじわと首を貫いていく。流れる血がどんどん増えていく。


 まだだ。


 まだ。


「血を流せ!」


 一気に指を押し込める。大動脈を傷つけることが出来たのか、噴水のような血が流れ出た。


 やった!


 これで!


「何をしているのですかっ!!!!」


 突如響いた叫び声。尊の腕が引っ張られる。とんでもない力だった。


 尊が、視線を動かす。


 そこには、ホーリィがいた。だが、その姿は可憐な少女のものではなかった。


 その姿は、《竜人化》を発動させた姿だ。ドラゴンの力をその身に宿した、ドラゴニュートのみに許された姿である。

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