第9話

 窓から見える二つの月。それは、明らかにここは、あたしの知っている『世界』とは別のものである、と告げていた。お空に輝くお月様二つ、なんてーのは、さすがにそんな話は物語の中でしか聞かない。現代日本や地球のどこにいても、いくらなんでも月が二つになったなんて話は聞いたことがない。火星ならまあ、衛星が二つあった気はするが、あれはそもそも小さい上に円ではないし。

 つまりは、ここが異世界かどうかはひとまず置いておくとしても、自分が知らない世界で知らない場所である、という事実が浮き彫りになるばかりで。

 いたって普通の飾り気のないシンプルなシングルベッドへと腰かけて、サイドチェストの上に手にしていた水の入ったコップを置き、深くため息をつく。天井付近にこうこうと輝くのはまるで白のLEDライトのような輝きのクリスタル。部屋の入り口にあるスイッチ的なものに触れると光るという仕様まで完全に現代の電気と変わらないし、ベッドサイドに置いてある持ち歩きできそうなサンドランプも、ちょっと軽い電気で光るタイプのお洒落なランタンかな、と思ってしまう程度には、ちょっと変わった代物だなと受け入れてしまえそうなものなのに。

 お風呂というかシャワーを済ませ、バスタオルでわしわしと髪をひっかきまわしながらセミロングほどの髪を乾かしながら、ドライヤーもないんだなあ、なんて当たり前のことを考えていた。

 少し現状を整理しよう。

 あたしは結衣。星沢結衣。今年33歳になった、いたって普通の事務職のOLだ。いや、職場に連絡できない以上、だった、というべきか。少しばかりいい記憶力を持つ、平均的な日本人だ、と自分では思っている。友人と共に次の趣味イベントの相談がてらランチに向かい……友人ともども、現在に至る、というわけだ。

 ここはソアルトという魔道国家の首都、ソアルトシティの北ブロックにあるクオンさんのおうち。街はだいぶ広そうだった。……そういえばクオンさんのフルネーム聞いてないわ。こんだけ大きなおうちなら、何某家とか家名だけで人が知ってるような名家かもしれない。貴族階級の概念がありそうだったから、もしかしたら爵位持ちということもあり得る。食客にあたるあたしたちを三人もいきなり抱えても何ら不都合がなさそうな様子からして、お金持ちなのは間違いない。

 世界の技術は魔法が中心、だと思われる。今のところ科学や工業技術に当たるものはおそらく見かけていない。あるいは簡単な原理のものだったらあるのかもしれないが……あたしたちの基準でものを考えない方がいいだろう。中世ヨーロッパほどの生活様式だが、技術や生活環境、利便性などは魔道技術の方があたしたちの科学より上回っている可能性はあるから、純粋に科学がないからと中世ほどの技術力と思い込むのはよくなさそうだけど。

 常識の違いや言語の違い、そしておそらく生活も違うと思われるが、時間の概念は同じのようだった。一日は24時間分割だったし、数字は同じ10進法で日時は数字管理されている様子で、その辺りを今まで通りでいられるのは有難い。ただ、入国手続きをしていただいた時にクオンさんにちらりと聞いただけなので、細かいところが違う可能性はもちろんあるのだが。

 今は何とかクオンさんの興味の関係で、こうしてお世話になることができている。けれど、いつまでもここにいるわけにもいかないだろう。なるべく早くこの世界の常識を、叩きこむ必要があった。 小さく頭を振って思考を止める。聞いた話や見たもの等、情報量が多すぎて、把握するには徐々に慣れていくしかないだろうとはわかってはいる。急いだって、考えたって、本当はどうにかなるものなどではない。わかっているが、どうしても考えてしまうだけなのだ。

 深いため息を漏らしつつ、タオルドライの限界のため半渇き状態の髪を諦め後ろで一つに軽く髪ゴムで止めると、手持ちのバッグを漁りメガネケースとコンタクトケースを取り出した。

 これも、困るなあ。

 コンタクトケースを眺めて、諦め交じりに蓋を開ける。小さな精製水程度は一緒に入れてあったが、さすがに洗浄液は持ち歩いていない。ハードレンズのためソフトよりは手入れは楽だが、洗浄液もない状態では、だましだましでもそう使えるものでもない……ん?

 そこまで考え、あたしはふと、この世界の水は塩素が入っていないのではないか、ということに思い当る。そもそも、例えばあのシャワーから出てた水なんかは、クリスタルが生成していると言っていた。その場合の水はどういったものなのだろう。もし純水であるなら、ちょっと何とかなるかもしれない?

 一度開いたコンタクトケースをもう一度閉じた。どうせ何もしなければすぐ使えなくなってしまうし、ダメもとでやってみるのもありかもしれない。

 カイルさんに渡された、簡素な柔らかめの布のチュニックと、比較的しっかりした布のシンプルなズボンという恰好で、靴だけは元々はいていた靴を履き、ケースとメガネをもって部屋を出る。廊下は魔法の明かりでそれなりに薄明るかったが、少しだけ肌寒い。ジャケットを羽織ってくればよかったかもしれない。一応、ベッドサイドに置いてあったライトは手にしておいた。

 部屋では平気だったんだけど。部屋の中の方が少し暖かいのかな?

 そのまま炊事場へ向かい、水道のようなものがある水場へ。

 入口のところで明かりをつけて、流しっぽいところへむかい、手にしたランタンとコンタクトケースを横のスペースへ置く。

 流しにもクリスタルがついており、お茶を入れるときの水なんかはそのまま使ってもいいと言われていた。一応、外に井戸もあるらしいけれど。見るからに水道のような、蛇口のようなところから、綺麗な水が流れ出る。……うん、大丈夫かもしれない。

 落としたり流れたりしてしまっても困るので、何かないかなと軽く見渡せば、小さな桶のような……材質もよくわからない盥っぽいものを見つけた。プラスチック……ではなさそうだけど、限りなくそれに近い。ただ少し、プラスチックより重く硬い気がする。でも陶器やガラスのようなものでもなさそうだ。ひとまず、こちらをお借りしよう。

 それを水で丁寧に流し、流水の下に置いてからそっとコンタクトを外す。ケースの蓋も使いつつ、メガネをかけてからレンズを洗いケースの中へ。

 そういえばよく異世界転生とかの色々読んだけど、コンタクト族ってどうしてたんだろ。まさかみんな視力がいいかあるいはメガネのみ、なんて現代人があるわけないよね……うーんもっとちゃんと読んでおけばよかった。後の祭りである。

 そうしてレンズの手入れをして、精製水で満たしたケースの中へと収め、きっちり蓋をしてから考えこんだ。

 トイレの時に、洗浄と浄化の魔法を刻んだ容器を見せていただいた。トイレに使う位だから、たぶんコストはそこまで高くないだろう。あれ、コンタクトに使えないかな? 街に行ったらそれっぽい物、売ってるだろうか。それともそういうのを作る職人とかがいるのかなあ。だったらコンタクトケースっぽいものをそのまま作ってもらったりできないだろうか。

 そうしてケースを前に腕を組みながら、ソフトじゃなくてよかったなあ、なんてことを考えていたら。


「ユイお嬢様。お茶でもお入れしますか?」


 炊事場の入り口から優しい声がかかり、振り向けばそこには、紺色の長いワンピースを着て、少し長めのカーディガンを羽織ったノーラさんが、何枚かの布を片手に佇んでいた。明かりがついていたから覗きに来てしまったのかもしれない。

 さっきまでのメイド服より、だいぶ柔らかそうな布のワンピースは、これから就寝なのかな、なんてことを思わせる。だいぶ着心地よさそうだなあ。ああいう感じのものをパジャマにできたらいいかもしれない、明日探してみよう。


「ノーラさん。いえ、ちょっと……」

「あら? ユイお嬢様、グラスをお付けでしたかしら」


 お嬢様付けは変わらないんだなあ、なんて思いながら苦笑して、ちょっと視力が悪くて、と答えた。


「普段はコンタクトレンズ……ええと、目に小さなグラスのようなものを入れているんですけど」


 ケースを見せると、ノーラさんは目を丸くして、痛くないのですか、と首を傾げる。まあ、そう思うのが普通かなあ。現代でも使わない人からしたら、そう思われてしまうものだし。

 クオンさんが、あたし達をどう説明してくれたのかは不明だが、どうやらノーラさんとカイルさんはあたしたちがどこか遠い国から来た、という認識でいるらしい。こちらのお宅のメイドさんにも一人、遠いところからきている方がいるらしく、案内をしていただいた時にちらりとそんな話をしていただいた。国が違えば環境も生活も、もちろん技術もだいぶ違うらしく、あたしたちの持ち物や少しばかり常識に疎いところも、遠い国から、ということで受け入れてもらえており、有難いことこの上ない。


「慣れないと違和感ある方もいるみたいですけど。あたしは結構長いこと使ってるので大丈夫ですね。……ただ、ちょっと手入れが大変で」


 レンズケースを軽く振って見せながら、消毒で通るかなあ、と思いながらも、ノーラさんを伺いながら言ってみる。


「普段だったらこのケースの中で洗浄液みたいなものに漬けて、綺麗にするんですけど。今はその洗浄液がなくて、どうしようかなあって悩んでたところでして……」


 ついでに、例の浄化だか洗浄だかの話聞けないかなあ、なんて思ってみたりしているのだが。


「さっき、洗浄と浄化の魔法がかかってるって箱、あったじゃないですか。ああいうのって他の……例えばこのケースとかにもできるのかなーとか考えてまして。これが無理でも、水が漏れないすっごい小さい箱とかが在れば全然それでも良くて。そう言うのって売ってたりします?」


 あたしの言葉に、ノーラさんが近づいてきて、そちらを見せていただいても? とコンタクトケースを示す。あたしはケースを渡し、


「蓋あけると水漏れちゃうんで、閉じたままにしといてもらえると」


 一応そこだけ注意をした。

 ノーラさんはコンタクトケースをくるりと回して裏側も確認しながら、


「ずいぶん小さな容器ですね」


 感心したように言われた。そのままノーラさんはケースを眺め少し考えると、困ったような顔を見せる。


「これほど小さいものですと、あとから付与するのは難しいかもしれません。私もあまり詳しくはないのですが……」


 ケースをあたしに返しながらノーラさんは、カイルに聞いてみるといいかもしれませんね、と言った。


「カイルさん、ですか?」

「ええ。カイルは魔術師でもありますので」


 少しだけ複雑そうな笑みを浮かべると、ノーラさんはそういう。


「魔術師?」


 それは、魔道士とは違うんだろうか。クオンさんは、自分は魔道士だ、と言っていたような気がするんだけど。

 あたしの言葉に、ノーラさんはええ、と苦笑して頷く。


「魔術師さんっていうのは……ええと、魔道士さんとは違うんです? 確かクオンさんは魔道士だって言ってた気がしたんですけど」


 翻訳機の誤作動、というわけでもなさそうなので一応そう確認しておくことにする。するとノーラさんは少し驚いたような表情を見せ……すぐに納得がいったように、そういえば、と笑い。


「魔法をあまりご存じないのでしたね」


 そういうと、少しだけ考えた後、一度あたしを見てから、少しだけお時間はございますか? と聞かれた。


「もうおやすみという事でしたら、明日でもよろしいのですが」

「えっ。あ、いやええと、時間は大丈夫です。その……まだ、それほど眠くないので」


 多分時間はまだ21時か22時程度。就寝時間としてはおかしくはないが、夜更かししていた現代人としてはまだちょっと、眠るには早い時間帯だ。

 あたしの答えにノーラさんは小さく頷き、ではこちらでお待ちいただけますか、と炊事場の中にある簡素な木の椅子を示した。そしてそのまま手にしていた布を一枚差し出して、


「こちらをお渡しに回ろうとしていたところだったのです。まだ今の時期、夜は少し肌寒いかと思いまして」

「あ、ありがとうございます」


 それは薄いローブのようなもので、今羽織るのにちょうどよさそうなものだった。ジャケットを忘れて出てきてしまったので、有難くそれを着させていただくことにする。そのまま椅子の前の机に先ほどのコンタクトケースと、流しに置きっぱなしだったランプも移動させて、おとなしく示された椅子に座った。


「では、少々お待ちくださいませ」


 ノーラさんはそういうと足早に炊事場を出て行ってしまう。久美子と和也にもローブをわたしに行くのだろう。

 どうせ待つのだったらとお茶でも入れようかとも思ったが、考えてみたらこの世界のお茶の入れ方がわからない。というか、道具がどれだかわからない。かろうじて小さなポットはこれかな、というものは置いてあったので分かったが、これそのまま火にかけたらだめだよね……? つーか火はどうやっておこすんだ。コンロは……あの赤いクリスタルが下についてる台かなあ。

 お茶入れてもいいよって言われていたんだから、お茶の入れ方までちゃんと聞いておけばよかった。

 そうして周りを眺めつつ待つことしばし。


「お待たせいたしました」


 そう言って、ノーラさんが戻ってきて。


「やあお嬢さん、俺に何か話があるって?」


 その後ろから、とても軽い口調と軽い態度のカイルさんが、執事服を脱ぎ質のよさそうな白いシャツと麻色のズボンに身を包みグレーのローブを羽織った姿で、片手をあげながら入ってきたのだった。


「カイルさん?」


 あれ、と思いノーラさんを見れば、ノーラさんは穏やかに微笑みながら一つ頷き、本人に聞いた方が良いかと思いまして、と答えてくれる。そのままちらりと笑い皴の残る目元を優し気に細め、カイルさんを見て。


「ではカイル。よろしくお願いしますね」


 ノーラさんはそういうと、カイルさんを机を挟んだあたしの向かいに座らせると、自分は部屋の横にある大きな棚から、やかんのようなものを取り出した。

 なるほどあそこにやかんがあったのか。

 どうやらお茶を入れてくれるらしく、ちらりと横目であたしはそれを確認しながらも、カイルさんに向き直り。

 カイルさんはにこにこしたまま、とらえどころのない表情で、それで俺に用事って? と軽い口調で聞いてきた。

 どうでもいいんだけどさ。あたしのイメージする執事さんってこんなに軽い感じじゃないんだけど、いいんだろうかこれ。いや、別に執事さんを知ってるわけじゃないんだけど。別にあたしはいいんだけど。


「えっと……これなんですけど」


 あたしは机の上に置いてあったコンタクトケースを少しだけカイルさんの方へ押しやってから、先ほどノーラさんにしたように、これに浄化洗浄の魔法とかってかけられるのかを知りたいということを説明する。中のものを消毒したいのだという話をして、カイルさんが魔術師さんだからカイルさんに聞いた方がいいとノーラさんから教えてもらったことも話す。


「その、あたしは魔道士さんと魔術師さんの違いとかわからないんですけど。そもそも違うものなのかもわかんないんですけど。ノーラさんに教えてもらったら、カイルさんは魔術師だからカイルさんに聞いたらいいんじゃないか、ってことでして」


 そういうと、カイルさんは少しだけ伺うようにあたしの方を見て……すぐにふっと琥珀色の瞳を細め、優しく笑うと頷いた。整った顔立ちにそんな顔をされると、ちょっとばかり、眼福だな、なんてどうでもいいことまで考えてしまう。


「なるほど、それでか。……そうだね、これだけ小さいものだと、魔具師に新しいものを頼むよりは、魔術付与でこっちに直接付与した方が早いとは思う」


 カイルさんは執事服を着て対応していた時よりもかなり砕けた態度と口調で、あたしが押しやったコンタクトケースを手に取ると、くるりと回しながら全体を確認し、そもそもこれ材質は何? と聞かれた。


「プラスチック……えーと、あたしたちの世界の……合成樹脂、で分かりますかね」

「へーぇ、これも合成樹脂か。なるほど」


 カイルさんは面白そうにケースを眺めたあと、あたしを見ると、それで、と聞いてくる。


「必要だったら、付与くらいなら俺がするけど。ただそのためには一応材料の魔石は必要だし、コストだけで考えるなら多分作り直した方が、時間はかかるけど安く済む。どうする?」


 コンタクトケースを返されながらの言葉に、あたしは少しだけ首を傾げた。


「魔石? クリスタルとは違うんです?」


 コストをかけて早く済ませるか、ローコストで安く済ませるか、というのはまあ、理解はできる。えてして世の中はそういう物だ。けれど、そのコストの中の魔石という単語がわからない。クリスタル原石、とかクリスタルとかだったら、一応今日さんざん聞いたものではあるけど。


「あー、なるほど、そこからかー」


 カイルさんは軽く笑い、うーん、と少し顎に手を当て、視線を一度泳がせて考えこむと、少しだけ沈黙し。

 視線がこちらへ向く頃には、あたしたちの前にはノーラさんが入れてくれたお茶が置かれ、コップの中で湯気を立ていた。

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ifの世界 トナカイ @tonakai_03

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