ご近所さんの魔の手

午前8:30



 ミ=ゴが朝食を作っていると、誑伽が寝間着を整えながらベッドルームから出てきた。

 長い白髪は殆ど跳ねたり癖がついたりしておらず、ただ部屋の明るさに白さが強調されていた。


『おはよう。』


 ミ=ゴが顔の触手を向けて緑や青に光らせると、念話に近い形で誑伽の頭に声が響いた。

 昨日から死んだように眠っていた誑伽の顔は、目の下の隈が少し抑えられたこともあり血色を取り戻しているように見えた。


「えへへ……ミィ君ありがと。」


 上下が共に黒色の寝間着の袖をひっぱり、着せ替えてくれてありがとうと感謝する誑伽の姿。それを見ながらも、ミ=ゴの卵焼きをひっくり返す脚は止まらなかった。




「ご馳走様でした。」

『はい、どうもー。』


 キッチンの隣に置かれたテーブルで朝食を済ませた二人。

 朝の光が壁を照らし、その反射光が部屋全体を明るくしていた。ただ部屋の四隅の角は黒く汚れており、陰鬱な雰囲気を僅かにもたらしている。


 さて、とミ=ゴは立ち上がる。


『今日は買い出し行ってくるよ。』

「あ、私もついてく。」


 誑伽は2日も奇妙な事が立て続けに起きた為に心の支えであるミ=ゴへの依存度が上昇していた。仕事が予定通り進んでいることもあり、気分転換とデートの二つを兼ねる機会を彼女は逃さなかった。

 いいね、とミ=ゴも二つ返事。


 そうと決めた二人は、それぞれ準備を始めた。


 誑伽はベッドルームに戻り、服を着替える。

 冬の寒さはエアコンの暖気を容易く貫通し、必然的に厚着を手に取らせる。紺色のヒートテックに灰色のジーンズを履き、その上からベージュのトレンチコートを羽織る。


 そして大きなショルダーバッグを肩にかけながら、


「これが一番大事だから……」


 と呟いた誑伽は『ネクロノミコン・独章』という、常人には理解し難い、魔導書と言われる本をバッグにしまった。


 神々については原本より薄く、この世の呪文や生物に関しての取り扱いが深いその書物は非常に場所をとる。どれほどかというと、その一冊だけでショルダーバッグの大部分を占めてしまう程には分厚かった。


 しかし誑伽にとってその使いづらさ、そして重さは、そこに確かな愛があると安心が出来た。



 一方でミ=ゴはリビングで人間には理解できない音を、顔に浮かぶ渦を巻いた骨のような物質からたててある文言を唱えていた。


 それは人間が理解出来る声ではなくとも、確かにおぞましい何かに呼びかけていると気づかせ、恐怖と混乱に引き落としかねない音となって部屋を満たす。


 廊下を挟んでほんの少し離れているとはいえ、その文言が詳細に聞こえているにも関わらず平然と着替えている誑伽。

 既に普通の人間と比較して、精神構造が変容してしまっている事を示していた。


『いあ、いあ、ニャルラトホテプ……肉体歪曲……!』


 ミ=ゴは呪文を唱え続ける。するとミ=ゴの体を異常な現象が襲い始める。


 段々と頭の半球は崩壊し、首が千切れる。


 地に落ちるはずの頭から触手が抜けて舞い、背中から生えた一対の翼は濁った膿の様な色をして、胴体の方へ潜り込む。

 三対の脚は全て細くなって巻き付くような形で胴体に折られ、代わりに人間の腕が生えてくる。

 蟻の腹部の様な尻尾は、風船を内側から引っ張るような形で先端から小さくなっていく。


 5分かけてミ=ゴの姿がグズグズと崩れ、再構築されていく様は、まるでサナギの中の変態を早送りで眺めているようだった。



 そして誑伽が自身よりも大きい服を持ってくる頃には、ミ=ゴは少し歪な男性の形をとって床に座っていた。


「はい、服。」

「……あ、あー。テステス……ゔん、ありがとう。」


 男は浮き出た喉仏を叩いて発声を確かめながら、誑伽から服を受け取って立ち上がる。


 ミ=ゴの手のひらは誑伽の頭より大きく、もし居れば新生児を片手で持てそうな程の手であった。そして男性らしくない程に肌がきめ細やかであると同時に、色は黒ずんでいる。


「よし、僕がバッグとか持っていくから。」

「うん。」


 ミ=ゴが渡された服を着ている間に、誑伽は財布やマイバッグを準備。男物の上着も持ってくる。


 ミ=ゴが羽織ったオーバージャケットは最大サイズの品物だったものの、まるで紐がないちゃんちゃんこの様な形で前が開いていた。


 立ち上がったミ=ゴの人間体は、肩の時点で誑伽の頭を超えていて優に240cmは超えていた。ミ=ゴの元の姿の色に近い褪せた赤髪が跳ねて、部屋の天井にぶつかっている。


 誑伽の身長は180cmを超しており男性と身長比較できる程には高身長ではあるものの、ミ=ゴの横に立つとまるで年頃の少女にさえ見えてしまう。

 その上ミ=ゴの手の位置は膝まで届いており、不気味な様相を呈していた。


 中折帽を被って目元まで沈めてバッグを肩に掛けたミ=ゴは、誑伽の背中に手を回して玄関へ誘導した。


「どこ行くの?」

「まぁ、普通に商店街かな。」


 厚底ブーツを履いた誑伽が先に、弾かれるように扉から出て灰色の冷たい壁に囲まれた、扉が両方に並ぶ通路に足音を鳴らす。

 軽快なステップの勢いを殺し、白髪をゆるりと揺らしながら振り向いた視線の先ではミ=ゴが身を大きく屈めて出てきていた。


「寒いね。」

「今日は曇りだし、特にね。」


 昨日より肉を強ばらせる空気は、濡れ雑巾を体の隅々まで押し当てるような冷たさを蓄えていた。

 ふふ、と誑伽は微笑みミ=ゴの腕に抱きつく。


 二人は窮屈なエレベーターの中で、1階のボタンを点灯させる。それから少しの間、二人は互いに体重をかけて打ち消す。


 指定階につくなり誑伽は早足でエレベーターから出て、ミ=ゴが声をかけるまもなく自身のポストを見に行った。

 そして即座に帰ってきて頭を横に振ると、ミ=ゴは一言、「分かった」とこぼして誑伽より先に出入り口をくぐって行った。




 視界いっぱいに広がるのは、彩度が低い、全てが灰色がかった世界。マンションの隣を流れる木平川も、対岸の土手までモノクロの水面を映していた。


 こころなしか寒さに震えているように見える植物群の生えた土手の、その上に設けられたコンクリの道を二人は横に並んで歩いていく。

 誑伽は大口を開けて、僅かに白んだ空気を吐き出した。


「ふぁぁ……眠い。」

「僕は、もうちょっと寝ててもいいとおもったよ。」

「うーん……まぁ、ね。寝ててもほら、暇だし……」


 カリカリと右手の爪で首筋を引っ掻く誑伽の、左の腕はミ=ゴの腕にまわっている。

 欠伸の伝染により、ほぅ、と息を吐いたミ=ゴの歩幅は、時間を刻む様に小さかった。


「ミィ君の手は、あったかいね。」


 誑伽は軽く首を傾げながらミ=ゴの手を掴みながら見上げ、自身の顔までその手を引っ張る。


「うーん……恒温動物の体温が同じ個体の中でもどうして調節が変わるのか、細かく調べてないんだよね。」

「あー、違うの。私が落ち着く温かさだから……」

「そう?あはは、なら良かった。」


 二人は顔を見合わせる。

 笑いと諦観が混じった感情は、互いの口元を緩ませる。


「……」

「……」


 暫くの無言。

 彼女は、大きな手に両手を滑らすことで堪能する。


「……手袋、忘れてた。」

「……そういやそうだったね。僕のは無いから油断してた。」




 体温を奪う風が、川の水面を細々と掻き乱す。


 ダラダラと歩く二人が木平川を下る方へ20分前後歩くと、1つのコンビニを通り過ぎる。更に、跳ね返った土汚れが雑草を生やして彩る電話ボックスを通り過ぎた所で、二人は土手から住宅街の方へ続く道に足を向ける。


 色味のない一軒家が立ち並ぶ道を暫く行くと、正面には横方向に、そして三角形の建物の先には斜めに通る車道が伺える。


 横方向の道路に則って右に曲がった二人は道の幅から縦に並び、颯爽と歩き始める。そのまま5分と少し歩く。

 そして『木平駅:残り200m』という看板が誑伽に現在位置を伝える頃には、周囲の景観に商業施設の赤色交じりの色が一気に増殖した。



 波が引いていく時のようなくぐもった喧騒が、店と人を弱火で熱する。早朝の搬入トラックの排気ガスは消えており、純粋な人の活動による淀みが空気に混ざる。


 まるでスクランブル交差点のように奔放に歩き回る人混みを割いて進む、二つの影。


「またあの大きい人居るわ……」

「大変そう、ここに来なければいいのに。」


 ミ=ゴの超身長は、道行く人の目の端に映るだけでほぼ確実に視線を集める。

 続いてその隣を歩く、目線を下に向ける必要の無いほどの高さを誇る白い塊に目が止まる。


「あれ……あれ、髪の毛?カツラかしら?」

「凄い変な人……恥ずかしくないのかしら、だらしない。」


 極小数から始まる嫌味は、正しくない者への揶揄と視線の束となって遠慮なく刺す。


 だが、誑伽は何気ない悪意に対して歯牙にかけることはなく、代わりに視線を向けた人々の鼓膜には固いブーツの残響がこびりついた。


 先に道路と建物を区切る自動ドアをくぐって向かいから来る老人を越してバスケットを取ったミ=ゴ。

 同時に誑伽はカートを引っ張り出して、自動ドアをもう1つくぐってから人々が踏み鳴らす順路から少し外れた適当な空間を見つけ、誑伽はこちらへ視線を向けていた彼氏へその空間に向かって片手を投げるようなジェスチャーを送った。


 冷蔵の棚と巨大な籠の間に身を寄せた二人は、行動方針を決める。


「僕が生ものと飲料を選ぶから、飲料のタイミングで調味料はお願い。はい、メモ。」


 ミ=ゴが、生ものじゃないやつ、と言いながら誑伽の手元にメモを差し出す。

 誑伽はそれを手に取って、目を通した後にミ=ゴの方を見て頷いた。


「ミィ君、先行って。」

「わかった、ついてきて。」



 二人の動きは実に素早かった。

 バスケットに入れた品物の確認作業以外では一切話さず、どちらかがカートの近くに待機する形で品物を集める。


 最後に、誑伽がレジの前に置かれたむんずと掴んだ板ガムをバスケットに入れ、持ち上げてセルフレジの指定位置に置く。

 ミ=ゴが誑伽の方へ頭を少し捻り、手で沈殿した味噌を掻き回しているような合図を送る。


「僕が渡すね。」

「うん。」


 ミ=ゴよりも手が小さい誑伽の方が、マイバッグに品物を詰めやすい。その意図を汲んだ彼女は財布を取り出してスキャン装置の横に置いた。


 流れ作業は滞りなく終わり、誑伽がマイバッグの中身を肩に引っ掛けた時に崩れないよう調整している隣で、ミ=ゴは札束とカードを爪で取り出した。


「……」

「……」

『お買い上げ、ありがとうございました。』


 精算終了のアナウンスが流れる。

 財布は元の持ち主の前に差し出され、代わりにマイバッグにひょいと肩を通す。


「はい、交換。」

「重いよ?分けない?」


 誑伽は財布を受け取りながらマイバッグを外からつっつく。内側からペットボトルの凹む音が聞こえ、指を離すともう一度鳴る。


「任せて……僕の足、とても強いから。」

「分かった、ありがとう。」


 ミ=ゴの返答に対して誑伽はそう言い、ショルダーバッグのベルトを握った。




 曇天は酷く濃くなり、余りの暗さに勘違いした住宅の明かりが疎らに道を照らす。


 土手に落ちる雲の影はその輪郭をはっきりさせ、雨天の到来を予見させる天候となっていた。

 二人は迅速に歩き、マンションへの帰路を急ぐ。


「降るね……」

「そうだね、濡れちゃう前につくといいなぁ。」


 二人は喋りながら、息が荒れない程度の速度で歩いていく。ミ=ゴは時々帽子が吹き飛ばないよう、頭を抑えたところで少し風が吹いている事に気づいた。


 そして、心配は杞憂に終わる。道中に誰かと会うことなく土手を歩けたため二人は走ることなくマンションの中に戻ることが出来た。


「よし、ついた。」

「ポストだけ確認しとくね。」


 ミ=ゴがエレベーターのスイッチを押しに行き、誑伽はなんの気無しにダイヤルを回してポストを開けた。

 キィ、といつもの音を立てて開く。





 パサリ。




 それは、余りにも軽い音。


 けばけばしい色の一枚のチラシだった。




「…………………………」


「誑伽ー?エレベーター開くよー?」


 ミ=ゴの声に、夢遊病を発症している人間を思わせるにゆっくりした速度で歩き出す誑伽。

 先程までの和気あいあいとした雰囲気をそのままに、しかし殺意はその紙に穴を開ける勢いで向けられていた。


「なにそれ……あー。」

「……隣だね。」


『貴女を救う、神の御力!』


 下らない、そう一蹴した誑伽。

 しかし湧いて出てくる不安は、瞬く間に彼女の心を満たしていく。




 予感は的中する。


 彼女達が家に帰って10分も経たないうちに、チャイムは来客を告げた。


 冷蔵庫に一通り物品を入れてお茶を飲んでいた二人はその音に行動を止めて顔を見合わせる。どちらが対応するか思考を逡巡し、誑伽が先に口を開いた。


「……私が行く。」

「……分かった。」


 誑伽は、敵意の視線をインターホンに向ける。

 ミ=ゴは扉の向こうに対して、呆れたようなため息をついた。


 映像先に映る隣室の女子高生、典明。

 カメラの先ではサイドテールを揺らし、笑顔を浮かべている少女が今か今かと待っていた。


 誑伽はインターホンの通話を繋ぐ。


「はいー、ノアさんですか?」

「誑伽さん!実は今日も困ったことが​あって────」

「すみません……今日は仕事が逼迫してるので。」

「あ、分かった。邪魔しちゃってごめんねー。」

「はい、それではー。」


 通話が切れると同時に誑伽は大きく溜息をつき、区切りをつける為にも部屋着の置いてあるベッドルームへ向かった。ミ=ゴはその後ろ姿を見送ってから服を脱ぎ、床に座り込んで目を瞑った。


「いあ……いあ……ニャルラトホテプ……」


 誑伽の耳に、リビングからミ=ゴの唱える呪文が聞こえる。それは出かける前のソレと同じ雰囲気を醸し出していて、いつもの空気に自分の部屋である事を自覚して心が落ち着く。


「チッ、面倒な奴に目をつけられた……」


 それから怒りのままに奥歯を噛み合わせ、電気をつけていないベッドルームの中で隣人の部屋がある方へ視線を投げつける。勿論、そこには壁しかないがそのような事は気にしていなかった。


「まぁ、酷くなったら警察を呼ぶか……」


 緩い服を着てリビングへ戻る誑伽。中央に居る彼は、元の姿に戻りかかっているドロドロのミ=ゴがあった。誑伽は周囲を見渡して目的の物を見つける。


「服は回収していくね。」


 会話の出来ない状態にある彼の返事を待たずに洗濯機へ向かい、中に服を放ってから再びリビングに戻る頃には、彼の褪せた赤色の首と触手を誑伽に向ける半球の頭が彼女を迎えた。


『大変なことになったねー。殺す?』


 物騒な提案をするミ=ゴ。菌類的生態の側面が強い彼には、近所の同族とのトラブルという物を理解出来ていない。故にどう対応すれば良いのか分からず、一般人からすればとても物騒で極端な思考をしていた。


「ううん、そんな相手じゃないよ。ただのご近所トラブルだし、これ以上だとしても、殺すなんて……ほら、彼女の学校とか色々あるから。一応ね。」

『そっかー……』


 誑伽はミ=ゴの提案に首を振り、だがしかし暗に『場合によっては暴力的解決も辞さない』とミ=ゴに伝える。


『じゃあ、暫く大変な時間が続くね。』

「うん……」

『なら、コイツを使おう!』


 ミ=ゴは脚を踏み鳴らしてキッチンの下を開いて覗く。目的の物を見つけたミ=ゴは、その物の蓋を取りながら戻ってくる。


『出てきて。』


 ミ=ゴが銀色の水筒を逆さまにすると、ドロリと人の手より一回り大きい程度の黒いゲル状の物体が流れ出てくる。


 そして泡が弾けるように、ゲルの表面に口が現れて歯ぎしりを始める。瞼がいくつも出現し、魚のような形をした人間の目を二人に向ける。

 崩れていく口を押しのけ、青年男性の口が甲高い声をあげた。


「テケー!リー!」

『この子に対応するよう頼もう。』


 黒い無垢。万物の生命の欠片。

 その黒いゲルの生物、ショゴスと言われる生物は、海の波を想起させる動きをしながら命令を待っていた。


『僕の人間の時の声を真似して。』

「テケリ・リ!」

「あ、ミィ君の声を?」

『夜のホストって紹介したんでしょ?なら、昼は僕が追い返す方が違和感ないよ。』


 肉を擦り合わせるような奇怪な音と共に、これといった特徴の無い男性の頭が出来上がる。

 目も髪も無いが、口は動いていた。男の低い声が増える。


「テケ……テケ……ボク……ミィ……」

「充電終わっただろうし、今持ってくる。」


 しかしミ=ゴの人間時の声ではあるものの、知能が存在しているような流暢さは保持していなかった。それを見て何かを思い出した誑伽は、立ち上がってコンセントへ向かう。


 そこには、プラグを通して壁の隅に置かれていた台座があり9つのUSBメモリーの様なカードが差し込まれていた。

 それらは3つごとに色のついた線で区別されており、左から青と赤。そして誑伽が抜いたのは緑のカード、2つだった。


『ありがとう。』

「うん。」

『ほら、ショゴスー。』


 誑伽が2枚ともカードを手渡すとミ=ゴはショゴスの作った頭に向かって、1枚を脳の辺りに深々と突き刺した。ショゴスは自身の体を両断する物体を、まるで赤子が反射的に口に持っていったりして確かめるかの如く変形しながら飲み込む。


『知能補助トークン、ちゃんと呑んだかな。』

「テケ……ニホン……私は……ショゴスは命令を……」

「確かバッテリーが持つのは30時間だっけ。」

『そうそう。』


 ミ=ゴは顔をショゴスに向け、触手を次から次へ変色させて命令を送る。ショゴスから出てきている男の顔は、喉仏を上下させて発話を始めた。


「こんにちは、こんばんは、私は、貴方が、私が。こ、こ、こ、こばばば。」

「………」


 誑伽は立ち上がり、置きっぱなしのお茶を飲み干してキッチンへ向かった。

 それらを洗い棚へ入れてからショゴスの元へ行くと、既にミ=ゴと対話を出来るほどに進化していた。


「了解。私は怪しい人間が来た時に帰ってもらいます。」

『もう一度!』

「テケ……了解。私は、詐欺やセールスといった怪しいと判断できる会話をする人間が来た時に、会話は短くして帰ってもらいます。」

『やり方は?』

「テケ……了解。私はインターホンの目の前に頭を伸ばし、監視しています。よって​来客が押した時に────」


 ミ=ゴの命令を、ショゴスはどんどん理解していく。知能補助トークンは日本人の思考をそのまま叩き込み、ショゴスの顔も目の細い痩せこけた男性の顔に変形してきている。


 私が無駄な情報を与えて邪魔する訳にはいかないな、そう考えた誑伽はミ=ゴの視界の端で手を振るジェスチャーを行った。

 ミ=ゴの顔の縁から生えている四本の触覚が、部屋に足を向けた誑伽を見送るように揺れていた。



 誑伽は、作業部屋の机の上に置いていたあのチラシを手に取る。


 敵を知ることは敵の思想に同調する可能性があると事前に戒め、第三者視点を維持するためにもスケッチブックを開いてメモを取るようにした。


 LEDをつけた部屋の中で、とてもけばけばしい彩色のチラシをじっくりと眺める。




『貴女を救う、神の御力!』


『人に原罪を与えた神は既に死んでおり、既にそれは取り消す事の不可能な呪いとなっているのは皆様、薄々感じておられていると思います。』

『その呪いは時が経つにつれて人生そのものを毒のように侵し、人々を早死させ功徳の無いまま地獄へ誘う悪辣な物となってしまいました。』

『我々が生きていて悲しいことばかりが襲うのはその呪いが原因なのです。可能性を潰し、堕落へ誘う為に思考を曇らせてきます。』


『そこで、別の慈悲深き神が私達に微笑みを投げかけてくれたのです。』


『呪いが人の意識に侵攻するという事象に対抗するため、神を我々が心の底から信仰することで我々をお救いになってくれます。』

『しかし原罪を我々に叩きつけた神の一族は、慈悲深き神をなんと痛めつけたのです。そのため、呪いに対抗している神は全世界に自身の存在を広める力や姿を持つことは出来ない状況にされています。』

『だからこそ慈悲深き神を信仰する我々は皆に神の存在を広くお伝えし、皆のソウルライトによって神の助力をしなければなりません。』


『自身を助けることは、神を助けること。』

『神を助けることは、皆を助けること。』

『皆を助けることは、自身を助けること。』


『全ての宗教の大前提、死に関わる神。いくら生前にアセンションしようとも魂は死によって重りをつけられ、いずれ地獄へ引きずり込まれてしまいます。かの神を死神と呼称するならば、文字通り適切な死を与えてくださる聖書の神より貴ぶべき存在なのです。』

『ぜひ、ご興味のある方、悩みがあって占いを受けたい方、神に向かって死後の苦痛を感じたくないと願う方は下記の住所、もしくはホームページでお知らせしている座談会等にご参加下さい。』


『我々は愛も、憎しみも、お金の悩みも、あらゆる苦しみを互いに助け合って解決し、功徳を積み重ねます。貴女も私達と一緒に皆と助け合いませんか?』




「ほう……金?意外なアプローチだな……」


 誑伽は、内容を抽出した箇条書きのメモを一通り眺めてみる。

 独特な用語は少なく、配色はともかく何も知らない一般人であっても言いたいことが理解できそうな文章だった。

 特定の人物を現人神と讃える可能性がありそうなこの宗教は、一度浸かったらいつまでも粘り、どこまでもひっついてきそうな危険な香りがした。


「しかし、金か……プライドが高かったり、お金に悩んで助けてもらった人間も逃げられないな、これは。となると、社会で活躍してる人間にも手が伸びてる可能性もある?だが、プライドもへったくれも無い奴にはどう対処しているのか……」


 独り言を漏らしながらチラシに記載されている住所を調べると、木平駅の向こう、河口の近くにある事が確認出来た。


 誑伽の頭には一行の願いが浮かぶ。これ以上に関わることがないように。


「……ふっ。」


 適当な祈りを、姿がまだないらしい神へ唾を吐くような笑いと向けた誑伽は、机の下にあるパソコンの電源をつける。

 ミィ君に人間の仕事をさせたくない……そんな歪んだ独占欲の前にしている彼女には、しつこく話しかけてくる隣人の存在程度ならばこの部屋でいつまでもなり続ける古時計の音よりどうでも良いことだった。




 ピンポーン。


「こんばんは、典明ですー。」

「あ、こんばんはー、どうしましたか?」

「是非、食事をご一緒したいと​────」

「すみません、テレワークホスト中なので。」

「て、テレワークホスト……わ、分かりました。お邪魔してしまいすみません。」


 通話が終わる。


 その間、誑伽は口に含んだ肉じゃがが飛び出ないよう、そして床を踏み鳴らさないように体を激しく前のめりにする。

 床から首を伸ばしてインターホンを覗いていたショゴスは、ミ=ゴの方へ振り向いた。


「けほっ、テレ、テレワークホスト……」

『ショゴスってやっぱり凄い……僕には思いつかない単語が直ぐに出てくる……』

「テケェ、私も凄いでしょう?」


 ミ=ゴはハサミを振り上げてから、軽く横側で叩くようなジェスチャーを行うことでショゴスを褒めた。


「ふふふ、くふふ……ミィ君の声でテレワークホスト……くふふ……リモートホストクラブならあるだろうけど……けふっ、くふふ……テレワ、テレワーク……」


 誑伽はツボに入って箸が転んでもおかしい年頃にでもなったのかのように笑いがおさまらなくなっている。


『あー、確かに。テレワークホストクラブって聞かないね。言葉の感触が違ったりするのかな?』


 しかしミ=ゴはいつもの事のように、いや、いつもの事だからと受け流す判断を下した。


「……ふぅ、っふふ。テレワークだと仕事の一環みたいに感じるから。リモートだと手段の説明、みたいな……感じ?」

『なるほど。あぁ、あと僕がリモートホストしたら肩までしか映ってなさそう。』

「確かに……ふひゅう。」


 ひとしきり笑ったあと落ち着いた誑伽は、ため息をついてから肉じゃがを箸で掴み、もぐもぐと食べることを再開する。

 ミ=ゴは、ショゴスの行動がきちんと予定通り行われている事に満足していた。


 食事も終わりにさしかかる時、誑伽はチラシの話題を取り上げる。彼女が箇条書きにしたメモを思い出し、かいつまんだ内容を伝えるとミ=ゴは触覚を張らせる。


『へぇ、そんな宗教が市内に出来たんだ。』

「いつからあったんだろうね……私が小学生の頃には……うーん、分かんない。」

『まぁ、分かんないよね……怖いね。』





 ピンポーン




「……?」

『えー……もう?また?』


 二人は予想外のタイミングのチャイムに驚き、顔を向けてから見合わせる。


 ショゴスは命令通りに動き、会話を開始すると見ず知らずであろう壮年の女性の声がスピーカーから届く。


「すみません、こちらは涼井誑伽さんのお宅でしょうか?」

「はい、そうですが。」


 ショゴスは自身の体で作った人の顔を、好き勝手に動かしながら応対していた。

 女性の存在が気になった誑伽は椅子から立ち上がり、ショゴスの後頭部に浮かんだ目に向かって彼女自身に反応しないように唇に人差し指をたてながら近づく。


 横から覗きこんだカメラの先には、声相応の年齢の女性が異常な近さで映っていた。そして、マンションの玄関先と接続していることを示すオレンジのランプがついていた。


「今、貴方が困っていることがありませんか?」

「私には無いですー。」

「死後の世界に不安はありませんか?」

「死なないので大丈夫ですー。」

「えっ……と?あー……死後の恐怖は生きている間も侵食してきます。幸せを得たいと、思いませんか?」

「間に合ってます、お引き取り下さいー。」

「あー……はい、分かりました。それではまた今度。」


 カメラから離れていく一瞬、服装が見えた。

 質素な色味。印象に残りそうな、あらゆる服装に共通しそうな特徴は一見する限り存在していなかった。


 冬の寒さが床から這い登る。


「……」


 誑伽は髪の毛に手櫛を通しながら俯き、どっかりと元の椅子に座った。ミ=ゴは触手をざわめかせ、誑伽の表情を伺おうとする。


「…………」


 すると誑伽は立ち上がって髪の毛を揺らしながら作業部屋に入ると、扉が閉まる前にすぐ出てきてミ=ゴの前の椅子に戻って座る。どうやら大きい何かをとってきたようだった。


『どうしたの?』

「……やろう。」


 誑伽がそう言って机の上に置いたのは、分厚く大きい本だった。

 青い表紙は表面に書かれていないネクロノミコン・独章というタイトルを物語る。


「まぁ、やれるとしてもネットと図書館程度だけど。」

『分かった……気をつけて頑張ろう。』

「どうせ篭っていても何年も付き纏われるのがカルトのやり方だから……ねぇ。」


 誑伽は片手で何かを振り回すような行動を見せた。ミ=ゴはそれを見てから空になった食器を回収してキッチンへ向う。


 ミ=ゴの居なくなった机に青い表紙の魔導書、ネクロノミコンを広げる。そして後ろ側のページをグイッと天井からの光に晒した彼女は、そこからとあるページまでめくった。


 大きく六芒星の魔法陣が描かれたそのページに誑伽は手をかざし、目を閉じる。


 彼女がその体勢で鋭く息を吐くと、部屋の四隅の黒々とした汚れから煙があがる。


 誑伽は肩の力を抜いて声を上げた。


「管理ページ。」


 その声と共に、ホログラムの様な水色の線がシュレッダーに通している紙を逆送りのようにした形で浮かび上がった。

 線が作ったのは箱を3つ、その中にはゆらゆらと揺れる液体がそれぞれの高さで描写されていた。

 その下には『熱風・ON』や『血液回収・OFF』『余剰魔力回収・ON』といった文字の並んでいる項目が、便利機能であるスクロールバーを片隅に追いやっている。


「貯水量は半分……魔力量よし。バッテリーはまぁ、よし……水だけ入れとこうか。」


 誑伽はネクロノミコンを先程のページに指を挟んで閉じてから洗面台へ向かった。


 長い腕をのばして排水口に栓をし、プラスチックで冷水を指している蛇口を押し上げると十分な勢いで溜まっていく。

 しばらくすると水が溢れさせない目的で取り付けられた第二の排水口から水が流れ込み、足元から排水管を流れていく音がする。


 誑伽は指を挟んでいたページを開き、魔法陣に再び手をかざす。


「注水。」


 唱えると同時に水面へ突っ込まれるネクロノミコン。

 光ったり爆発をすることなく、普通の本の如くドボンと音を立てて沈む。


 激しく揺れる水面だったが、水が溢れて床を汚すことは無かった。


 それどころか瞬く間に洗面台の水位は下がり、本が蛇口から直接水を浴びる光景に様変わりする。

 しかし大きい本を伝う水は途中で消え、溜まっていくはずの洗面台は排水口周りに少しだけ青い背表紙を反射していた。




「管理ページ。」


 スマホを洗面台の縁において、魔導書の上に逆さまに乗せているワイヤレス充電器を持ち上げながらホログラムを表示させる。

 三本の箱は、共に表示内で見切れそうな程に高い所が波打っており最大容量に達した事を示していた。


 ネクロノミコンが小気味よい音をたてながら閉じられる。スマホをポケットに入れて、ワイヤレス充電器をリビングへ戻しに行く。


 仕事部屋の椅子に座り、ネクロノミコンを傍らに置いて表紙を撫でた。


「早々に今日分以上にとりかかって、明日に時間を回そう……」





午前1:00


 ベッドルームの扉が閉じられた。


 リビングを広く使ってストレッチをしていたミ=ゴは、音の方向へ首を向けて生活音の消失を確認して立ち上がる。


『うーん……』


 ノートパソコンを立ち上げたミ=ゴはチラシを手元に引き寄せて、検索エンジンを立ち上げてURL欄をクリックする。


『ホームページ……』


 チラシに記載されているURLを入力するときちんと現れた。『ロボットではないなら許可をクリック』や『ウイルス対策が出来ていません!』といった広告は無く、まず宇宙、敷かれた雲、何かを取り囲む人々を俯瞰したシルエット、何もいない台座が下側からフェードインしてくる。


 そして、抜けていた情報がでかでかと浮かび上がった。

 それは​────


「……ご主人様、外に気配があります。」


 ショゴスから自分の声、低い男性の声が突如放たれる。見ると日本人の頭頂部の辺りに、無秩序に様々な獣の耳が生やされていた。


『……分かった。一部分をとばして調べてきて。』

「テケリ・リ!」


 男性のかおをしていたショゴスは、頬の肉を溶けた鉄の様に床に垂らす。そして血の赤色をしていた残骸は一瞬で黒く変色し、すぐに黄土色の蜥蜴に変化し出入口へ走っていった。


 そしてすぐに戻ってきて半壊している男性の頭へ這って登り、渦を巻きながら男性の顔に戻った。

 渦を巻いた影響で、目が縦になったり鼻が頬まで伸びていたりと散々な形状になっているままにミ=ゴへ向く。


「ご主人様、誰もいらっしゃいませんでした。扉から出るまでは足音が。そして廊下も僅かですが、錆臭かったのですけど……」

『……分かった、ありがとうね。』

「ありがたきお言葉ですー。」


 粘土細工を変形させていくように頭を掻き回しながら、ショゴスはミ=ゴに一礼する。


 ミ=ゴはサイトをスクロールして、触手をうごめかせながら呟く。


『まずい……結構ヤバそうな宗教団体だ。明日、出かける前にちゃんと情報を共有しておこう……昨日は何も収穫が無かったけど、それで終わりにしなくて良かった良かった。』


 それからミ=ゴは玄関の方へ少し頭を向け、すぐノートパソコンの画面に顔を戻した。


『……それにしても、恐らくこの宗教の人間が部屋前に来たという事は誰かが入れたって事だよね……お隣さんかな。』




 ミ=ゴがノートパソコンを操作しているリビングの端にある、黒ずみ。


 部屋の四隅にある変色したかのような汚れ。


 誑伽がネクロノミコンのシステムを起動した時からずっと煙を立て続けていたソレは、今になって途絶えた。

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