死に至る集団
隣人の存在
長い白髪によってその半分を隠した、端正な顔の女性。
彼女は猫背気味な体勢で木の引き戸によりかかり、くぁ、と欠伸をした。
首を覆う茶色いハイネックをいじり、褪せた黒色のジーンズに片手を突っ込んだ女性は、今にも閉じてしまいそうな目の下に、暗い隈を貼り付けていた。
彼女は起きてから昼まで仕事をして、ずっと半覚醒状態へ没入し続けていたが、集中力の切れた今はまどろみの中。危うい足取りで動いていた。
そんな女性が、ぼんやりと眺めるのは洗濯物をバケツに入れる彼氏の姿。
心が落ち着く、幸せな光景だった。
ここはマンションのとある部屋。
白い壁に囲まれた狭い一室の中で、二人は同じ空気を吸っている。
彼女達は、九時間前に空き巣を殺した際に、隣の部屋の物品を拾ったので自身に降りかかった返り血や体液を洗うついでに隣人の靴下を洗っていた。
女性のピントのいまいち合わない視線の先、家事を行っている彼氏は、その長い脚でバケツを持ち上げ、同時にドライヤーを片付けながら靴下を蟹の鋏のような手で持って女性の目の前に差し出す。
しかし彼女の反応が薄い。
そこで彼氏は、人間の腕の長さはある首を伸ばして半球の形をした頭の平面部分を、意識が半分とんでいる女性の顔によせる。
そして半球の縁から伸びる4つの太い触覚が、女性の頭をクレーンゲームの様に掴む。顔の触手が波打ち、青と緑色として光り始めた。
『大丈夫?やっぱり
「ううん……ミィ君が持ってったら犯罪だから……」
『まぁうん、隣の男性が翌日持ってきたら、それはちょっとね……うん……』
彼氏の声が女性の頭の中に響く。
女性は首を横に振って白髪を揺らし、受け取った靴下をズボンのポケットに入れて、緩慢な動作で彼氏の頭に抱きついた。そして彼氏の頭を引き寄せて、自分の視界を覆うように近付けた。
彼氏の正体は、別の星の知的生命体であるミ=ゴと言われる種族。異種族恋愛である。
そしてミ=ゴという種族は優れた科学技術によって宇宙を航行することが可能な上に、まるで菌類の様な要素の強い、独特な生態を保持している為に宇宙に広く分布している。
そして地球においてミ=ゴという言葉が分かる人の共通認識は、ユゴスという惑星から来ている蝿の頭を触手に置換した様な姿が一般の認識となっている。
つまり、誑伽と共にいるミ=ゴはより遠い所から来ている存在である。
人間からしてみればどちらもミ=ゴではあるものの、ユゴスから来た者から見ればよくて赤の他人、下手すると侵略者扱いである。
『……そう、分かった。じゃあ少し目を覚ます?』
「うん、お願い。」
誑伽はミ=ゴの半球の平面部分、顔と定義している部分に顔を埋めた。
顔の中心部分にある渦巻き型の骨らしき物に額をくっつけると、周囲の赤黒い触手が誑伽を撫でて緑と水色を湛えて光る。
「うあ、あぁ……いい……」
彼女の表層意識から短期記憶まで、全ての意識が朧になっていく。
彼氏の全てを受け入れている誑伽は、自分の脳内を愛しているミ=ゴによる耳を介さない囁きで上塗りする。
極上のセラピーによって数秒のうちに全身の筋肉が弛緩し、誑伽は膝から崩れ落ちる。ただ、腕だけは彼氏の首を離すものかとふんばっていた。
『おっとと!』
咄嗟に、ミ=ゴは誑伽の腰に脚をまわして支える。しかし完全な脱力によって液体と大差ない振る舞いをする彼女は脚をすり抜けかけたので、ドライヤーとバケツを脇に置いて2本の脚で彼女の上半身を抱き、そして2本の脚であやす様に抱えた。
「ふぁ……」
『……普段より酷いよ。昨日、珍しく本気で気がたってたから疲れたでしょ?』
「うー……まぁ、そうね。」
ぐでんと首の力も抜けていた誑伽に、パッと眼光が宿る。
ミ=ゴの支えを退けた彼女の立ち姿は扉にもたれかかっていた時よりも凛としていて、彼女自身も頭がリビングで稼働しているエアコンの音が判別可能な程には思考力、注意力を取り戻したことを確認する。
短い昼寝程度に休まった彼女は、ミ=ゴの顔の触手を三本だけ口にいれて揉み、糸を引きながらハグを解いて離れた。
「それじゃ、行ってくる。」
『はいはい、お隣さんと仲良くねー。』
ミ=ゴが誑伽の頭を撫でようとすると、彼女はその脚を掴んで止めて愛しそうに目を細め、ゆっくりと頬に持っていく。そして外骨格の様にゴツゴツした脚先の手に柔らかな頬を擦りつけて、キスをしてから名残惜しそうに廊下に出た。
玄関の照明はオレンジ色の光を放ち、だが扉の硬い冷たさがその視覚効果を打ち消してしまっている。
灰色のタイルの上に置かれた、くるぶし程度の高さしかないプラスチック製の靴に足を入れる。茶色のかかとを踏まないよう、爪先を地に打ちつけながら下駄箱の上、腰程の高さに置かれたお菓子の箱を手に取る。
赤い箱の中敷きをずらし、そここらカードキーを取り出して腕に巻きつける。
右手で所持している靴下を確認しながら左腕で扉を押し開けると、廊下に滞留している冷気が足元を撫でていく。
「そういや、今日の曜日はなんだったか。外で待つのは億劫だ……」
頭に指を突き立てて髪に指を這わせながら、隣の部屋のインターホンの前へ向かう。
腕の最長射程に届くやいなや、拳を握って小指側の底を叩きつける。
チャイムが鳴り響くのを聞いた誑伽は半歩退き、僅かに腰を折って顔が向こうの画面に映るよう調整した。
このマンションはある程度防音を意識しており、内側でチャイムが鳴ってるかどうかの確認は耳を扉に近づけなければ困難である。
「もし中に人が居なかったらどうしよう。前後の経緯を含めてポストにでも入れておくか?」
現状から予想して思案する誑伽。
程なくしてノイズ音が自己主張を行い、中からの返答が始まる事を伝えた。
狙い通りであれば、向こうの映像には右目を隠した白髪の女性が映っているはずと誑伽は考え、無言でカメラを眺め続ける。
しばらく会話の無い状態が続き誑伽が訝しげに眉を歪め始めたところで、パタパタと扉越しに体重の軽い人物の足音が響いてくる。
誑伽は更に半歩退いて僅かに開いた扉の中から、まずは実物が何かを確かめる女性に対して先に会釈をする。
「こんにちは、お昼時前にすみません。隣の部屋の涼井です。」
僅かに視線をあげないと目が合わない、そんな高さから放たれる低めの声の挨拶。
そして女子高生は扉を開く際に足元から確認しており、腰下まで届いている前髪、最後には見上げる体勢での視界には右目隠れ女性の姿が映る。
口元が緩み、警戒を解いた様だった。
「あ、涼井さんおはようございます〜。どうしましたか?」
「昨日の事件絡みで、こちらを。」
そう言って誑伽が黒い靴下を差し出すと、女子高生は驚きに目を見開きながら扉を完全に開いて受け取った。
女子高生は黒いタンクトップにピンクのパーカー、メッシュのズボンを履いている。事情を知りたい少女は、サイドテールを揺らして誑伽の目を覗く。
「え、どうしてこれを!?」
「昨日、空き巣が入りまして……そちらの部屋から出た所は見えてたのですが、私の部屋から侵入していたようで……私も盗られましたから、ツテと協力して追い、とっ捕まえたところ靴下がありましたので。」
事実とは違う経過を口走りながら反応を伺い、誑伽は無理なく話し終えた。
女子高生は、昨日の不審者によって他者に対する警戒心が過剰に強くなり、それは同時に知人の話に対して疑う余裕の消失を招いている自身の感情に気づいていなかった。
「えー本当ですか!ありがとうございます!」
満面の笑みで感謝する女子高生の笑顔に対して、誑伽は普通の笑顔を返す。
「えぇ、はい。えぇ……それでは、私はこれで────」
「あ、待ってください!ちょっと解決して欲しいことがありまして!」
誑伽が目線を自室の方へ向けた瞬間、女子高生はその長い腕を掴んで引き留める。
少女は掴んだ際に変な感覚が走って咄嗟に手元を見ると、誑伽の腕にはカードキーが、紐の長さが許す限り巻き付けてあった。
「えと、力添え出来ることでしたら……」
誑伽の顔には一瞬だけ表情に陰が射すものの、カードキーに気を取られていた女子高生が表情を確認した時には、酷い隈と笑顔に置き換わっていた。
「実はその……」
女子高生は誑伽の腕を軽く引き、中へ入るよう促す。その申し訳なさそうな力に抗うことなく、腕に巻いたカードキーをほどいてポケットに入れながら部屋の中へ誘導される。
「お邪魔します。」
「実は昨日の男性、私の部屋を堂々と通過してきて、それで一日中ずっと気が動転しちゃいまして……」
「はい。」
「それで、それでですね?あの、もし食事をなされていないのでしたら……」
そこで誑伽の嗅覚に濃い料理の匂いが届く。
しつこくまとわりつき、血肉をも越える濃厚な匂いの正体は誑伽が余り食べない料理だった。
女子高生には似つかわしくないラーメン屋の厨房を思わせる本格的な寸銅は今まさに火をかけ始めていたのか、濃いカレーの匂いを強くしていく過程でありその表面を煮えたたせ始めていた。
「作りすぎちゃって……どうです?」
「ええ、構いませんよ。」
誑伽は何気なく女子高生を見る。
瞬間、世界は光を失った。
彼女の顔から彩度は消え、ひたすら白い。
開いた口はまるで乾いている様に黒い。
眼孔からは蛆が這い出てきて、
胸を切り裂いて中身の飛び出たクワガタが出てきて、
掴む手から誑伽の腕にをゆっくり蝿が歩いてきて。
そして瞳孔が白目を覆っている。そんな目を女子高生は、誑伽に顔を向ける。しかし暫くすると、突如発生した凄惨な光景は段々と薄くなっていく。
誑伽の瞳には少女の、消えていく蟲と透いた嘘の笑顔の下にとても良い笑顔が見えた。
「どうか一緒に食べませんか?」
誑伽は奇妙な光景に動じておらず、それどころか楽しげに目を細める。
「いいですよ!」
「!?……は、はい、ありがとうございます?」
想像と違う明るい返事が部屋にこだまし、女子高生を驚かせる。
そして女子高生が初めて見る誑伽の笑みは、大きいカカシの頭をマネキンに取り替えているような不気味さを醸し出していた。
ゴボッ、とカレーの泡が弾ける。
また泡が吹き出し、それは加速し、グツグツと蒸気が吹き出す頃には、肉も野菜もその姿を沈めて消化されていた。
大きな皿に乗せた白米へ、贅沢に、混ぜることなくとも隅々まで浸透する勢いでルーをかけて昼食の完成とした。
既に座っている誑伽は、右前髪を後ろの髪に大きなヘアクリップで留める。
それでも反対側に座った女子高生の視界に彼女の右目が現れることは無いが、食事中に自身の髪をはんでいる光景を見ずに済むことに安堵。そして同時に、そうやって食べるのかと納得したことによりこびりついた疑問が解消され、溜飲が下がった。
「いただきます。」
「はい、どうぞ〜……では私も……って、飲み物、用意をしてませんでした!」
立ち上がる女子高生を見ながら、誑伽はミ=ゴの事を考えていた。
「ミィ君がご飯作る前で良かった……」
その事実が彼女の心に余裕と暇をもたらす。
それは同時に、鋭い観察眼を女子高生に向けさせた。
冷蔵庫の扉を開いた女子高生は誑伽の視線に気づき、微笑みを返した。その行動を受けて誑伽は会話をふる。
「もし良ければ、名前を教えて貰えませんか?私の名前は『涼井 誑伽(スズイ キョウカ)』と言います。」
「わかりま……たよ、誑伽さん。私は『金原 典晶(カネハラ ノアキ)』。ノアって呼んでくれると嬉しいな。」
「ノアさん……分かりました。」
「あ、お酒飲みたい?」
「いいえ、私は夜だけと決めているので。」
「分かった〜。」
相互に名前を把握して
誑伽はスプーンに手をつけずにじっと待っていた。それが典明にとってはとても嬉しい事だった。
「ごめんね、最初から用意しておけば待たなくてすんだのに……」
「ええ、大丈夫です。」
「ありがとう誑伽さん。それでは、この世の全ての存在に感謝をして────」
「「いただきます。」」
「ふむ……周囲の味と共に成り立っている良い辛さですね。高校生なのは知ってますが、料理は慣れているのですか?お好きだったり?」
「えへへ、私の両親は朝早くから夜遅くまでお仕事してるから……」
「もしよければ、何をやっているのか聞いても宜しいですか?」
「IT企業でエンジニアやってるんです。」
誑伽は肉をスプーンで崩してから掬ってすする。とても柔らかい食感で、数回で飲み込める程に食べやすい肉だった。
「へぇ、そうなんですか。あ、私はイラストレーターやってます。」
「イラスト……ふーん、誑伽さんならもっといい職業につけそうなのに……そういえば誑伽さんって凄い身長の彼氏さんいますよね。何をやってるの?」
「はは、私の性格からしてどうにも……と、彼氏ですか?あぁ〜……」
典明はコップを手に取り、舌に残留したカレーを流して味覚のリセットを図る。そしてコップから口を離す1秒前に誑伽を見た。
「言いたくないなら答えなくてもいいよ?」
「いえ、私も両親の事を聞きましたし。うん……口外しないでくださいね?実は夜、ホストとして働いてるんです。」
「…………」
「あぁすみません。私との馴れ初めもその過程でして、人生何があるか分からないものです。」
「…………」
数泊の間、スプーンが皿に当たる音だけになって重苦しい空気が場を占める。
誑伽は嚥下してから少し動きを止めて、切り口を見つけてから再びカレーを掬う。
「ノアさんに彼氏さんはいらっしゃらないのですか?」
「えー、居ると思います?」
「えぇ、思いますよ。」
「正解です!私の彼氏はスポーツ万能で、しかもクラスのリーダー的存在なんだよ。」
「いいですね……とても青い。」
自慢の彼氏ですと満面の笑みを浮かべる典明に対して、誑伽も笑顔を返す。彼女の目尻は僅かに哀れんでいた。
典明は気づくことなくカレーを咀嚼して飲み込む。
「でも、私の彼氏には色が無くて……あ、それも良いんだけどね!誑伽さんの彼氏、ホストでしたっけ?どうか、どうか心得を頂きたい……」
「色……色?」
ミ=ゴの顔の触手は色とりどりに光る性質がある。
勿論、誑伽もその事ではないことは承知しているが、頭の中に一度出てきてしまったミ=ゴから離れきる事が出来ない。
「首が長……違う、あしが長い……でもない……あぁ、あれです。ベタベタいちゃつくのを繰り返していると、自然と色はついていきますよ。」
────いっそ『夜が楽しめる体躯である』という返答で、ノアが抱いていそうなイメージを演じようか。
誑伽は素っ頓狂な事も考えていたが、会話の座礁を寸前で感じ取った彼女は無難な返答の方へ舵を切る。
典明は少し顔を赤くし、力なく笑った。
まるっきりそれをする理由が分からないと言うように。
「いいなぁ……私もそういう事をしたい。」
しみじみと呟きながら皿の上の物をよせて掬い、最後から数えて三口目にあたるカレーを口に入れる。
「きっとそうなりますよ。愛は何にも勝りますから。」
「凄い……断言出来るんだ!?なんか誑伽さん、私の抱いていたイメージと違う……」
「ふふ、よく言われます……っと。」
先にスプーンを置き、口に入れる行為をしなくなったのは誑伽の方だった。
ヘアクリップを外し、肩にかけていた髪を前方に戻す。
少し遅れて麦茶を飲む典明はコップから口を離すと同時に手を合わせた。
「「ご馳走様でした。」」
「あと、お粗末さまでした。本当に助かります……」
「いえ、一食ぐらいどうという事はありません。」
「あ、片付けはわたしの方でしておきますので……そうだ、もう少しお話をしない?」
「どうもありがとうございます、あと、私はあと二時間ぐらいは大丈夫ですよ。」
「いえ、私が一時間後に出かけるから、少しだけって感じで。」
早歩きでキッチンへ向かい、軽く洗ってから食洗機に入れる音がする。
その僅かな時間で、誑伽は周囲に目を走らせた。
今いるのは、キッチンの見える机と椅子。
振り向くと、紺色の皮のソファーが電化製品売り場で見る巨大な薄型テレビに照らされている。薄型テレビの下に、再生機器のみが置いてある。
その下のマットレスはそこそこ値段が高そうで、ルンバが走っていた。
必要最低限の物を、金が許す限りの物で……
いや、違う。
簡素すぎる。
誑伽は視界の周囲に違和感を覚え、見えないものを見ようとする。
壁、窓、壁。視点の高さにある物はテレビと二つの植木鉢程度しかない。
汚れも傷もなく、新築物件として売り出せそうな景観。
この生活感の薄い部屋の娯楽は時代遅れのビデオ1つしかないと気づいた彼女は、その異様さに対して大きく反応しとても分かりやすく不機嫌になった。
だが、彼女の様子を把握していない典明はタオルで手を拭きながら嬉しそうに口を開き、喋りながら机に戻ってくる。
「で、カレーの味はどうだった?」
そう言ってにこやかな笑みを誑伽に向けると、やはり彼女は左目と口だけを見せて笑顔を返す。
「とても美味しかったです。」
「それなら、彼氏さんが帰ってきた時の為にカレーをあげるけど……」
「うーん……いや、残りはそちらでお召し上がりくださいな。」
「うぅ……あのカレー、料理教室で習ったんだよ。」
典明は一度顔を伏せ、そして再び笑顔を向ける。
「今日は西洋風料理を習うんだけど……」
「お断りします。」
全てを聞かずに断る誑伽。
「体験は無料だし、授業時間も夜だから一緒に─────」
それでも会話を続けようとする典明。
「お断りします。それでは失礼します。」
「えっ、ちょっと待って!」
典明が食い下がろうとした瞬間に、誑伽は会話を無慈悲に切り上げて立ち上がる。そして少女は先んじて掴みかかり、誑伽の腕に指の腹を突き立てる。
典明が見上げた誑伽の顔は、鉄のように冷たい。
「つまらなさそうなので。」
白髪から覗く目が少女を捉える。
吐き捨てると同時に引き止めている腕をひねりあげ、突き飛ばす。
「きゃぁ!?」
彼女はこれまで行ってきたボランティア活動によって培われた腕力や握力と共に投げ捨てられる。
「もう少し相手は選んだ方が良いですよ。それでは、これからもご近所さんとしてよろしくお願いいたします。」
「待って、貴女にもきっと友達が……」
「ふん─────」
典明は説得しようとして彼女の目を見てしまい、口をつぐんでしまう。誑伽は一縷の躊躇さえなく這いつくばった人間に蔑む視線を叩きつけている。
白髪に囲まれてよく目立っている深淵のように黒く、暗い目。
彼女が何を考えているのか、女子高生には読み取れなかった。
「─────そうですか。」
「あ……」
バタン。
足音は倒れている少女を無視して廊下を進み、扉を開けて行ってしまった。
扉の外から入った冷たい空気がリビングまで届き、喪失感に思考が飛んでいた彼女を起こす。
「……はぁぁ……失敗しちゃった……コミュニケーションが出来ないじゃなくて、本当に人が嫌いな人なのかな……」
一人だけになった典明はため息をつきながら立ち上がり、パン、と膝を叩いて気を取り直してから一時間後の予定の準備を始めた。
「まぁ私の居場所はここじゃないし……よし、あの人に何度もトライしていこう。何日かかってこれは必要なことだから……と、リストは何処に置いたかな……」
突き飛ばされた後だというのに、典明の表情は笑顔に満ちていた。
振り子時計は揺れ続ける。
勤勉な長針が何度も周回し、短針は追い越されるのみ。
鬱憤の溜まった短針は、音叉を七回鳴らした。
背後から鳴り響くその音は、誑伽のペンの動きを止める。
顔を上げて向き合っていた液晶タブレットから視線を動かし、パソコンモニターの右下で時間を見る。19:00の表示を確認した彼女は腕と背中を伸ばす。
「あぁ、もうこんな時間……」
色をつけていたのは桜と雪の舞う宿舎という背景。キャラクターはまだ線ラフであり、シナリオ変更に耐えうる状態を維持していた。
現在の進捗を保存し、それとは別に背景カラーラフと名づけてもう一つ保存する。更にカラーラフに注釈を入れてJPEG保存し、取引先に予定通りに進んでいるラフ画像を送る。
パソコンの電源を落とし、横に置いた青い本を手に取ってリビングへ向かう。
「ミィ君、料理は〜?」
ミ=ゴはキッチンから首をのばし、アルミホイルを巻いた手羽先を見せた。
「分かった、待ってる。」
誑伽は既にご飯と箸が置かれている所の椅子に向かう。木製の椅子に座って本を読み始め、足を組みかけるものの健康を意識して足裏を床にくっつけた。
机の上にあるシール型メモ用紙を一枚、そしてボールペンを手に取ってから開いたページを光に晒す。
「あぁ……なるほど。ネクロノミコンの時代だと防犯意識の概念がぼやけているのか……」
そう呟き、余り期待しない面持ちで読み進める誑伽だった。
香ばしい匂いが触手を撫でて、色々と疲れていそうな彼女を癒せるであろう料理の出来に満足する。
アルミホイルをくるくる巻きながら、彼氏であるミ=ゴは誑伽の読んでいる本の出来を悩んでいた。
ネクロノミコン・独章
それは彼女の読んでいる本の題名である。
『付き合って二周年記念』として渡したその本は、襲撃を繰り返すクトゥルフ狂信者から原本を一度奪い取り、即座にコピーしたものを元にしている。
故に、欠損や保存環境が酷い本を元にしてる以上、内容はミ=ゴが大半を担っていた。
神話級の存在は全然分かんなかったんだよなぁ、と悔いるミ=ゴ。
その視線の先では誑伽がメモを丸めている姿があった。野球のように腕を回転させ、直線で投げ入れる。
「外ならともかく、家なら防犯カメラの方が良いか、消費が悪すぎるし……いや、それだとミィ君が映らないし、プライバシー漏れるし……施錠しかないか……」
ミ=ゴとは外宇宙を起源とする種であり誑伽にとっては残念ながら、スマホ等で彼の映る写真を撮ることは出来ない。
家の中で突如フライパンがチャーハンを作り始める映像が漏れ出て、物好きが集ってくる事を考える。
……誑伽はため息をつきながら、施錠を心がけるよう自分に言い聞かせた。
それから少しして、ミ=ゴは右前脚に持った手羽先が8個乗った皿と、左前脚で運ぶレタスとえんどう豆をメインにしたサラダを誑伽の前に置いた。
追加で中足にあたるハサミで持ったお湯呑みを誑伽の前にトンと置いて、ミ=ゴは背もたれの無い丸椅子に座った。虫なら腹部に当たる巨大な尻尾が、リズミカルに跳ねている。
「いただきます。」
誑伽は両手をちょいと合わせて即座に箸を取る。しかし、真っ先に手羽先を食べたいと思っていたので箸を元の位置に戻し、すると仕事中に飲料を飲んでいなかったことに気づいて日本茶を喉に流そうとした。
勿論日本茶淹れたてのお茶が冷たいことはなく、舌を火傷する。
「あぁっ、つ!」
『大丈夫!?』
ミ=ゴの顔の触手が一斉に誑伽の方へ向く。
お茶を零さないよう置き、手を振りながらへへへと笑みを零した。
「ごめん、大丈夫。いや大丈夫じゃないかも、いや、落ち着く。」
『ほら誑伽は今日は寝不足だから!ね、気を落とさないで?氷いる?』
「お願いす、う、けっほけっほ!」
『はいはーい。』
「ゔー、けっほごほ!」
むせながらも、どたどた急いで冷蔵庫へ向かう彼氏の姿に、何よりも満腹感を得る誑伽だった。
前脚の手のひらに氷を置いてハサミで粉砕しながら戻ってきたミ=ゴは、表面積を多くした氷を流し込んで効率的に茶を冷やし、誑伽の前に置いた。
口の端で温度を確かめた次には、ごう、と飲み込む。ようやく一息つけた誑伽は、ミ=ゴに向けて困った様な笑顔を向けた。
「ほんと、ありがと。」
『はは、寝不足って怖いね。』
「うん……ふぅ。以後、気をつけます。」
『はい、よろしくお願いします。』
アルミホイル部分を持って、誑伽は手羽先にかぶりつく。肉は骨から簡単に外れやすく、歯ごたえを確かめながら噛む。
「うんー!美味しい!」
『ありがとう。』
「んん……どうやって調理────」
会話を続けようとした誑伽の頭に浮かぶのは、『料理教室でならったんだ』と笑うお隣の姿。面倒くさい姿を頭から払い除けながら、言葉を続ける。
「……をしたのかな?」
『いま、何か考えてたんじゃない?』
「えっ……あはは、態度に出てた?」
『誑伽の癖は、一度分かると意識しなくても分かるよ。』
ミ=ゴの触覚がうねうねと揺れ、触手も方々に向けてざわざわと波だった。そんな様子につられて、誑伽も少し笑い出す。
「ふふ、私のことは何でもお見通しなのかな?」
『ははは、まさか。考えている行為は分かっても、考えている内容まではわかんないよ。』
ミ=ゴは脚を伸ばして白髪の頭を撫でた。
まるでボタンを押し込むように、誑伽は目を閉じて笑顔を浮かべる。そして昼に何があったのかと説明を始めた。
「……ん、ふふ。お昼、隣で食べたでしょ?お隣の人がね────」
誑伽は全てを話す。
人当たりは良さそうだけど、途中から何かしらの考えに従っていそうだった。大学生活中は絡まれなかった、新興宗教絡みの家庭かもしれない。
ミィ君をホストとして説明したら、頭やばい人みたいな目で見られた。
と、説明する。
聞いていた方はただ頷き、彼女が喋りたいことを全て吐き出すまで聞きに徹した。
「まぁ、あからさまだったし勧誘経験は少ないのかもね。」
そう言ってから誑伽は最後の手羽先を噛み始めてミ=ゴの返答を待っていると、彼は『ふーん』と言いながら長い首に脚を当てる。
『そっか……』
「……はぁ。」
二人は僅かに項垂れ、温くなったお茶をコクコクと飲む喉の音が必死に場を繋ぐ。お湯呑みが机と硬い衝突音をたてると、誑伽は両手を合わせた。
「ご馳走様でした。」
『どういたしまして、今日はもう寝なー。』
「あ、ミィ君待って。」
ミ=ゴが食器を持ってキッチンへ向かおうとすると、誑伽が勢いをつけて立ち上がって呼び止める。椅子を弾くように立ち上がった彼女は、明らかに恥ずかしがっていた。
意味もなくネクロミコンを右手に、左手に行き来させている。
「……部屋で待ってる。」
『あー、分かった。じゃあ僕は皿洗いしたら行くねー。』
誑伽は彼のその言葉を咀嚼し、夕飯より耽美な味かのように口元を緩めながら洗面台へ向かう。何時になく大股で歩く姿は髪の長さもあいまって、まるで幽霊が滑っていくように移動していった。
ミ=ゴはスポンジで皿を洗う。
すると廊下の方から歯磨き、うがいの音が聞こえてきた。それに加えて、めったに使わないスプレー状の何かを使っているような音もしており、ミ=ゴは彼女が普段よりふっきれているなと感じながらタオルで食器と手を拭く。
誑伽が部屋に入った音が聞こえる。
ミ=ゴは食器を棚に戻して、机の彼女が居たところを拭く。それを終えれば、彼女が横になっているベッドルームに向かうだけだった。
扉を鳴らし、入室するミ=ゴ。
暗闇の中、ダブルベッドの上に置かれた布団は畳まれたままだった。黒色のジーンズが机によりかかっている。
ミ=ゴが首を伸ばして上から覗き込むと、誑伽が顔面から死んだように突っ伏しているのが見えた。
ミ=ゴは触手を少しだけざわめかせて笑い、誑伽を持ち上げてベッドに横たわせる。クローゼットから上下共に黒の寝間着を取り出したミ=ゴは座り、寝ている誑伽を四本の腕で器用にささえて着せ替える。
ほんの僅かに意識が残っていた誑伽は、自身から漂う匂いによって衝動的にミ=ゴに抱きつこうと腕をあげるものの、光を放ち出した触手に安らいでしまう。
『隣にいるから。』
「ん、ん……」
だらりと落ちた腕。
安らかな寝息。
それから人間では苦痛に感じるほどの長時間、同じ体勢を維持して誑伽を眺め続ける。
彼女が眠りについた事を確認したミ=ゴは、立ち上がってリビングへ戻った。それから時間を確認し、まだ九時であると知ったミ=ゴは手に銀色の物体を持ち、ソファの背もたれを倒して座る。
テレビをつけてからノートパソコンを開く。
メールが届いている事を示す数字がアイコンの上に乗っていて、なんの気もなしに開く。
『○○セール!』
2件のソレを潰す。
それからブラウザを立ち上げ、住んでいる市の宗教団体をネットで調べ始めるのだった。
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