砕ける音

ほいこうろう

命を大切に

それは無くなる物

霞がかった寒空の下、友達と別れて1人だけとなった地元の女子高生。そしてその後を追う不審者が居た。


瞼が開き切ってない小さな目に、大きな顔と二重アゴ。

不揃いで黄ばんだ歯と、その位置まで降りている髪の毛は灰色のホコリを巻き込んでいる。

小太りな体格を横断するショルダーバッグの大きさは、何故か不釣り合いに小さく感じさせるものだった。


道行く人々が視界に入れるだけで足早になる容姿の男は、周囲の有象無象に一切物怖じすることなく白昼堂々とストーカーをしていた。


不幸にも女子高生は後ろを確認しておらず、そして風上に居た為にストーカーの汚臭を浴びることが無かった故に悪意に気づく事が出来ていない。

反対に自分の体臭を嗅がれているという事実を知らずにいる事は彼女にとって、せめてもの救いかもしれなかった。


とても薄い曇天でさえ向こうの岸が白む程度には幅の広い木平きだいら川、その川の流れゆく先を見て左側の土手を歩いていく二人。そして土手の更に左側には一軒家やアパート等の住宅街が連なり縁を形成していた。

しばらく二人がその縁をなぞっていると、女子高生は遂に赤いレンガに囲まれて、極めて白に近い黄色の壁を太陽の下に晒しているマンションの方へ続く道を選び、そして振り返ることなく土手から外れて進んでいく。


静かに白い息を吐き出したストーカーは女子高生の歩いたその場所を踏みしめて自身もマンションの方へ歩いていくのだった。



暗証番号かカードキー必須の自動扉が閉じかける。そこに男のシルエットが映ると開いてしまい、本来の機能を果たせずに通してしまう。

ストーカーが周囲を警戒すると、玄関にマンションコンシェルジュの待機するカウンターは存在せず、管理人室の小さな小窓にカーテンがかかっているような比較的安価なマンションであることが見てとれた。


「きひ……」


あぁ、なんて無防備なのだろうかとストーカーはほくそ笑み、横目に見えた郵便受けに近づいてはみ出たチラシを引っ張った。

女子高生はエレベーターに乗る時に振り返って遂に男の姿を見るものの、チラシを持つその様子からチラシ配りの人間と勘違いし、特に思うところなくエレベーターの扉を閉じてしまう。


2……3……4……


「ぐふっ、ふふ。」


郵便受け前から離れてエレベーター昇降スイッチの上部に光る階層表示を食い入るように見つめ、7で停止したのを確認して吹き出した。

そして口角をあげ、歯をむき出しにしながら周囲を見渡して自動扉の電源を探す。

程なくして電源を切る事に成功し、自動扉は己のセキュリティの責務を果たす事が不可能となった。


悠々と、しかし早足で管理人が動くより先に行動をする。外に出たストーカーは双眼鏡を取り出し、そして目標を探すために七階の窓を覗きながらぐるりと一周する。

その行動を誰かが止めることも無く、それどころかストーカーには足を止めて干されていた若年女性の服をじっくりと観察する余裕さえあった。


「あったぁ……」


土手の方から先程の入口を正面にして、7階の右端に制服を見つけたストーカーは邪悪な笑みを浮かべて浮き足立つ。無邪気に喜び小走りになったストーカーは、腐った息としゃっくりのような笑い方と共に玄関へ向かった。



7階にエレベーター到着音が鳴り響く。


白いLEDが照らす灰色の壁と黒い石畳の空間に、堂々とストーカーは降り立つ。あの女子高生の住むフロアだと考えると、胸が高鳴る。

そこへ、ゴミ袋を持った人間が少し遠くからエレベーターに乗ろうと走ってきた。その過程でストーカーと壁の間をすり抜けようした為に、ストーカーの足に対して缶が入っているゴミ袋がぶつかる。


「すみません。」

「うっ、あ……」


そして流れるように階数ボタンを押して降りていった。


とても長くて白い髪の毛を翻しながらエレベーターに滑り込んだ女性はゴミ袋をぶつけた相手であるストーカーの少しだけ汚らしい風貌に対して思う事は無かったようで、ストーカーは逮捕される様なトラブルを回避出来たという安堵からほっと胸を撫で下ろす。


そして、彼の心には同時に怒りがこみ上げてくる。

何故あの女性は少し謝っただけなのだろうか。あの謝りに誠意は一切感じられなかった。せめて俺の返答を聞くまで待つべきではないか。常識はないのか。


ストーカーは自身の行いを棚に上げながら憤慨し、足音を大きく鳴らしながら女子高生の部屋へ向かう。

それぞれの扉に鍵とカードとインターホンがあり、それらを見てストーカーはとりあえず女子高生に玄関を開けさせる方法を考え始めた。目的の部屋はもうすぐ。


「無難に漏電とか……」


そう小さく呟きながら歩いていく。



その時、彼の頬を風が撫でた。


「おっと!?」


反射的に取っ手を掴んでからその半開きの扉の位置を確認すると、そこは目標の隣の部屋だった。

換気でもしているのか廊下にかけて風が吹いていたことにより、この扉の閉まる速度が非常に遅くなっていた様でストーカーは突然の幸運にとても喜びを覚えながら部屋に飛び行った。


「そうか、ここはさっきのクソ野郎の巣か……まずは慰謝料でも探すか。」


玄関に漂う微かな匂いから、先程ゴミ袋をぶつけてきた女性の部屋だと確信するストーカー。

クソ女に容赦はいらない、と傲慢な思考に下卑た笑みを浮かべて靴をショルダーバッグに入れて、鼻息荒く侵入した。


暖かなオレンジ色の光が、住民の靴が置いてある赤みがかった灰色のタイルを照らす。


マンション入口の安価な感じに比べて部屋は広く設けられており、玄関から真っ直ぐ伸びる紙製クロスの貼られた壁、木の床から出来ている廊下を行くと、ソファや机の他に寝て手足を伸ばせる程には余裕のあるリビングがストーカーを迎えた。

かなりの良物件と思われるこのマンション、そして整頓されたこの部屋にある貴重品は、思ったよりとても高く売れるに違いないとストーカーはほくそ笑んだ。


だが、振り返って確認しても廊下の左右にはトイレ、バス、ベッド、その他小物があるのみで、そこには多少のアニメグッズや本といったものしかない。

そこでもう一度リビングに戻り、じっくりと歩き回りながら机の下、冷蔵庫の中、ソファの後ろを見渡してみる。


するとリビングの横の壁に扉があることに気づく。しかもストーカーが視線を上に向けると、その扉にはわざわざ『誑伽の部屋』と彫った木の名札が貼り付けられていた。

ストーカーには居住者の名前が読めなかったが。


しかしそこでストーカーは、先程出会ったこの部屋の住人だと考えられる彼女のゴミ捨てにかかる時間、それを自身のエレベーターに乗ってた時間から予想した場合。

既に時間の猶予がそこまで無いことに思い至る。ならばなんでもいいから少し部屋の中を見てさっさと貰おうと考えながら入室した。



「……へぇ。」


その部屋は、青色に薄暗く、そしてうすら寒い。


ストーカーがまず部屋に抱いた感想はそれだった。規則正しい物音が絶え間なく響いていて、気になって周囲を見渡すと大きな振り子時計が窓の反対側に置かれているのを確認した。

窓はくもりガラスに見えるシートを貼っており、その上白く薄いカーテンがかかっている。


窓の手前には、色々な物が乗っている木製の机と、座り心地の良さそうなレーシングシートに近い形のした肘掛けのある椅子が目に入った。


机に置かれた大きいタブレットには灰色の線で何処かの街を描いている途中で放棄されている。

何かの絵でも描いているのだろう……と部屋を見渡していたストーカーの思考は、ある物を視界の中心に入れた事で止まる。


机の上にある、まるで新品のように綺麗な紙の本。

開いたままの本を覗くと、一目でグロテスクだと分かるなイラスト画像、写真が記載されていた。見開きで一番大きく目立っている物は、まるで皮を剥がれた人間を箱に詰めて圧縮して、形を成した後にところてんにおろし雑に編み込んだような、端的に評して最悪な写真。


「本か……なんだ、これ?」


生々しく血に塗れた肉の顔の、醜く歪んだ表情の一つ一つに目が奪われ、ふとすれば絶叫が聞こえてきそうなソレを心に刻んでしまったストーカーは自身の精神を鋸の様な狂気に削られていっている事を自覚してしまう。


「ここに、凄い悪い人間が住んでいる……」


しかしそこで浅はかにも、怖い物見たさを勇気と履き違えたストーカーはその本を手に取ってしまった。誰にも聞かれない小さな声で、自分の行いを正義と騙りながら。

そして手に取ると思っていたより本は大きく、子供の時に買い与えられた図鑑のような重さ、懐かしさを思わせる。


ただそれ以上にこの肉塊写真を見ていたくはないと考え、急いでページをめくると奇妙な形の四足歩行生物の写真が待ち構えていた。


「てぃ、ティンダロス……?の猟犬……新種?」


見慣れない、いや聞いたことも無い単語に首を捻りながら大量の文字を斜め読みし、一際目を引く赤く太いフォントの文字だけをまともに読む。


『つまり、上記の理論によれば能動的に出現と撤退を行いやすいのは三本の線、三本の面から成り立っている鋭角である。これは屋内の四隅は必然的に条件に当てはまるだろう。』


しかしこの文字列を見てストーカーは眉をひそめる。


「のううごてき……?読めない……」


解説ならばもっと簡単な文字を使ってくれと彼は不満を覚えながらもう一度赤文字を読む。

前後の文を噛み砕いた結果、どうやら部屋の角からティンダロスの猟犬という生物が現れるという事は理解する。

しかし、現実的に考えてそんな生物が居るだろうか?


ストーカーは腐った息を肺から大きく吐く。


「これ、ただの中二病ノート?使えないし、売れねぇ。」


ストーカーはそうぼやきながら本のページと位置を戻し、呆れながら眼を机に向けた。液タブの脇にスマホがあり、そして机の引き出しを見ると財布がそこにあった。


「やった。……何だ!?」


それらを懐に入れたストーカーは、強い視線を感じて振り返った。


何処からだろう?


ストーカーは四方を見た。


そして見てしまった。


ソレを。



部屋の四方を区切る線。




天井と床をそれぞれ区切る小さな角。




光の加減ではない。




黒い煤のような汚れ。




この世の穢れ、深淵を。




本や書類の多い部屋にしては綺麗な壁であったというのに、そこは違っていた。

まるで穴の様に黒ずんでいる角。じっ、と見ていると誰かがそこからストーカーの行為を睨んでいるのではと錯覚さえしてしまうほどに黒かった。


いや、誰かがいる。


そこまで思慮してしまったストーカーは、思わず、つい、この恐怖を引き起こした情報源である中二病ノートと断じた筈の分厚い本を手に取ってしまう。

そしてスマホ、財布、本を全てショルダーバッグに突っ込んだ。


鼻息を荒くし、リビングの開いた窓からベランダに出たストーカーは、隣の部屋のベランダへ移動する。

それから女子高生の洗濯物を竿から外し、窓から見える位置に引っ掛けて息を潜めた。

ついでに靴下を懐に入れている。


「……ぅもう、落ちてるなんて……」


女子高生は洗濯物が落下しかけていると誤認し、窓を開ける。

ストーカーはすっと立ち上がり、全力で頭を下げながら歩き始めた。


「すみません、すみません!」

「っ!?……っ!?」

「すみません!すみませんすみません!すみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませんすみませ」


ストーカーは必死に謝り倒しながら全速力で走り、女子高生が突拍子もないことに驚いて言葉が詰まっている間に部屋を通り抜ける。

僅かに震える声と、取り憑かれたかのように謝るストーカー。その鬼気迫る謝罪は女子高生を圧倒し、最後まで呼び止められることはなかった。


一見部屋の角に黒ずみは無い。

しかし、本当に僅かにも汚れていないのかを確認する時間はない。


「失礼しました!」


ストーカーは最後まで謝り続けながら廊下に飛び出し、扉を閉めた後にエレベーターへ向かう。

得たくないし、得ると考えさえしなかった恐怖という感情に項垂れながら早足で移動していると、誰かが正面からやってくる足音がする。


「すみません、失礼します。」

「……あ、はい。」

「っ!?」


白髪の女性の声、まるでそれは数時間前に聞いた物と感じたストーカーはつい顔をあげてしまう。

女性の顔の位置が意外と高く、そしてあまり住人と顔を合わせたくないストーカーは顔をあげきることなくそのまま脇を通り過ぎた。


「お疲れ様です。」


後ろから追ってきた女性の声は、ストーカーの脂汗を増やす。

喉を鳴らし、動揺を見せないようにしてエレベーターの扉の前に立つ。


白髪の女性が使った直後であり、エレベーターは下降ボタンを押した途端に開いた。

恐怖に背中を押されるような形で飛び乗ったストーカーは、一階のボタンを押す。

そして安堵しながら壁によりかかる。


「ひうぃっ!?」


エレベーターは少し汚く、自然に見てしまったボタンの下の角は少し黒ずんでいた。

しかし落ち着いて見てみると、何の変哲もない土の汚れの様だった。天井を見上げてもあの部屋の様な汚れ方はしていない。


あの部屋は意図的に汚れていたのだ。

至ってはいけない考えに到達し、ストーカーの口はわなわな震え始めた。




「えー、値段は○○○○○円ぐらいになると思いますけど、失礼ながら聞きますけどお金足ります?」

「えぁ、身なりが……すみません、でもちゃんとお金はあります。こちらに。」

「……結構高い財布を持ってるんですね。革ですか?」

「あ、これは、その……宝物でして……」

「あぁすみません。お金は確認しましたので、どうぞご乗車下さい。」



独特なシートの匂い、そして消臭剤の匂いのするタクシーにストーカーは乗車した。


「窓、開けてもらえますか?」

「分かりました。」


走り出したタクシーの窓を運転手が開こうとスイッチを押す。開きすぎたり、締め切ったりを何度か繰り返してそよ風程度にして調整を終える。


冬の冷たい風が汗を消す。

恐怖に火照った顔を、気休め程度には冷やしてくれる。


「……」


ストーカーは車窓から見える流れる景色に目もくれずにショルダーバッグの中に手を入れてまさぐり、一番大きな戦利品を手に取って目を細める。

そして本を取り出して太陽光の下で観察する。

まず人の顔より広い。紙は非常に薄いにも関わらず、とても丈夫で、なにより本は凄く分厚くなっていた。


その本は青く手触りの良い紙表紙で包まれており、表紙に当たる面を上に向けると、題名の代わりに黒く盛り上がっている線が奇妙な模様を作っていた。四角形の枠の、それぞれの辺の中点にあたる部分から線が伸びて中央にある大きな目の、瞳孔が2つ並んでいる奇妙な目の輪郭を形作る線に繋がっている。


ストーカーはこれを一人で読むのかと目を泳がせ、一瞬だけ運転手の後頭部を見てから謎の本を開く。


すると早速、中表紙がストーカーの前に広がる。

個人的に作っているだろう本のタイトルに判読困難な難しい漢字が使われていないことを祈りながらタイトルを確認する。


少し洒落た枠の中にメルヘンチックな文字の形で、

『ネクロノミコン・独章』

と銘打たれていた。


「どく……しょう……?」


ストーカーには何を持って章と名乗っているのかは一切分からないものの、何作か関連する物があるのだなぁ程度に留めておいて、それについては深く考えることなく流すことにした。


『原著・ネクロノミコン』

『本書著作者・ミ=ゴ』


下の方に小さめに書かれていた単語であるネクロノミコンという言葉にやはり聞き覚えはなく、そしてミ=ゴというペンネームを持つ者も知っている訳がなかった。


タクシーがウィンカーを出す音、右折によって体が傾く感覚によって少し現実に戻される。


「運転手さん、ネクロノミコンって知ってますかい?」


たかが文字にひよってバカな事を聞いた、そんな自身に対してストーカーは苛つく。


「あー、お客さんそういうの好き?」

「一応は。」

「ネクロノミコン、ネクロノミコンねぇ……なんかどっかの学校で保存されてる魔導書って聞いてるよ。都市伝説だけどね。」

「へー、そうなんですか。ちなみにミ=ゴっていう作者が魔導書を作ってたりはします?」

「ミ=ゴ?うーん、聞いたこと無いなぁ……ネクロノミコンの話もネット上だし……」


ストーカーは手元にあるネクロノミコンのページをめくる。


『世界の道筋は一つじゃない!なら解決法も沢山あるかも!』


それっぽそうな文字列で出来た大きな見出しが左ページ上部にあり、次の行から右ページの下半分までぞろぞろと小さい文字が続いている。

ただ前書きには実用性や白髪の女の考えをなぞる何かは存在しないだろう……と、無理やりにでも面倒くさい口上を見たくないストーカーは、こじつけた理由に則ってページを飛ばして次を覗く。

すると迎えてくれたのはあの脳裏に焼きついた悍ましい肉塊の写真と、それに付随する文章に酷似したページ。次へ、次へとめくってもずっとソレが続いている。


心構えの出来ていないストーカーは一度目を閉じてため息をつき、覚悟を決めてから前書きに目を落とした。


『本書では数多の魔術師が求める呪文の数々、数多の魔術師が研究しているアイテムや神々を纏めています。発刊に至った経緯は私的な理由となりますので割愛致しますが、本書では魔術の手順や効能を始めとして、陣の簡単な引き方、それぞれの呪文に必要な生贄の量を調べました。ただし、紙の重さから神についてのあやふやな情報はバッサリ切っている場所もあります。

とはいえ本書は、あくまでも『ネクロノミコン』を制作されています。

化学も魔術も日進月歩。

新たな魔法が今読んでいるあなたの前に現れるでしょう、しかし未知だからといって慌てることはなく、ひたすら落ち着いていきましょう。


……なら、リメイクの範囲でしかないこの本は過去の遺物?時代に追い越されたオーパーツ?


さてそれを決めるのは、今この本を手に取って読んでいるあなたです。この世界が金色の泡に浮かんだ時、あるいは夢が終わる時。はたまた著者の世界が拡散した時……いつか会えるかもしれませんね。その時は顔を合わせて、この本を一緒に作り直しませんか?


さて、少し感情が先行してしまいました。』


前提知識がいくつか不足しているのか、ストーカーは頭をひねるのみだった。体の何処かが汗ばんだ気もするが小太りな事もあり違和感は無かった。


ストーカーは何気なく次の文章に目を滑らして、思考と背中が凍りつく。

続いて呼吸困難になりながら本を遠ざけた。


『ちなみに、いくつかの変形した生物の生活映像はネットワーク上において以下のURLにおけるサイトでご覧頂けます。』


本当にURLが刻まれている。


「写真のアレはCGではなく実在しているのか……」


ストーカーは本能的に信じていなかったというのに、文章を読める程度の理性によって飲み込んでしまう。


視線を向けた車の角は黒ずんでいない。


「いや、いや……」


何をバカな事を、ストーカーは視線を頭を左右に振って思考を追い出す。


「お客さん、体調が悪くなりましたか?」

「あーうー、ちょっと目的地をずらしてもらっていっすか?」

「分かりました。何処へ?」




福島県○○市


PM11:00


ストーカーは交流の続いている前のバイト先の先輩の元へ行き、そこである人を紹介してもらって連絡してもらってから向かうことにした。



「すんませんなぁ先輩。こんな時間で、わざわざここまで来てもらって。」

「はっはっは。その本、なんかおもしれぇからなぁ……まぁ興味のままに来ただけよ。」


夜の風は非常に冷たく、おでんに熱された体温をみるみる奪っていく。

左手には街頭に青白く照らされたコンクリートブロック塀が何処までも続き、右手には生気のない黒々とした家がずっと並んでいる。


人の声が無機質に跳ね返る夜道の圧迫感に耐えられず、ストーカーは次から次へと言葉を吐き出す。


「やっぱり霊能者?って精神がおかしかったりします?」

「あぁ、まぁ……でもバイトが出来るぐらいには大丈夫だ。」

「やっぱりそうですよね、生きていくにはそういうのが出来ないと駄目っすよね、それなら安心ですね、本当にそうですよね。」

「まぁ、でもその本を見せるとおかしくなるかもなぁ……それぐらいにはソレから読み取ってくれるのだろうけど。」

「先輩もこれヤバいって思います?」

「…………まぁ、適当にその本を開いて写真をとったけど、そうしても怖いって思うぐらいには怖いなぁ……」

「写真越しでも怖いっすよね、そうですよね、やっぱりこれヤバいっすよね。」


「あそこが入口だよ。」


審判の時がきてしまったと、ストーカーの顔は自分の足が絞首台に向いているかのような絶望に染まり、今から首を通すのかと震えながら先輩の言う入口を見た。


2人をオレンジ色で照らす、崩れかけた木造の一軒家。電気が通っているのが不思議なくらいに人が住むには適していないようなその家は、今、内側から開かれた。


「分かってます……どうぞ……」


震えていて細く、高い声。

まさかの女性だった。しかもとんでもなく幼い。

先輩はストーカーに声をかけた。


「お前が当事者だろ。話せ。」

「せ、先輩、なんで俺に……あ、お嬢ちゃん派手で可愛い帽子だねぇ〜……中の大人を呼んでくれるかな?」

「……一人暮らしです。お話は、私が聞きます。」

「なっ……ん、だって?」


唾を飲み込みながら驚くストーカー。

幼女に向かって視線を向けて服装を軽く見ると、弱々しい態度とは真反対に、都心でクラブのDJやっていそうな格好をしていた。

銀の光を放つネックレスをお腹の位置で揺らし、ダボダボなウィンドブレーカーから少しだけ覗く小さな手が、来客である二人をオンボロな家屋の中へ招く。

オレンジの光に照らされた黒髪を時間を忘れて見つめていると、先輩に横腹をつつかれる。


「驚いた?」

「ゔぇ……ビックリしました……って、バイト出来ない年齢じゃないですか。」

「まぁ……俺の親戚ってことにして、ちょっとアングラな所でやってもらってる。」

「……」


ストーカーは先輩を睨む。

無言ではあるものの、その目は強く非難していた。


「あぁ、売春じゃねぇよ。倫理的な観点は勿論、あの性格じゃ拒めねぇだろうし。」

「と、すると……」

「バ先で求められるのはあの格好、そのままだよ。」


「あの、お外でお話にしましょうか……?持ってきますよ、お茶とか……沸かしてるので……」

「あ、ああっと、ごめんねお嬢ちゃん?先輩、この子の為にも入りましょうよ!」

「すまないすまない、ドッキリに動揺するお前の姿が面白くてな。先に入れ、ここの扉は建付け悪いから俺が閉める。」


部屋の角は黒ずんでいる。

だが家自体がボロボロな事もあり、気にする気は起きなかった。それに今にも崩れそうな家の中にいるというのにも関わらず、小学生の頃に行った叔母の家以上の安心さえ覚える。


「こちらです……yo……」


ガタガタと曇りガラス張りの障子をずらして居間に入るよう二人を促した少女。

そして流れるような動きで小さく、親指、人差し指、中指を立てて手の甲を向けた。



「…………っ!」

(あ……あざといっ!可愛いかよ……はぁ、ヤバい、この子の家に入っていいのか俺は……くそっ、ストーカーしたところで満たされなかった感情はこれだったのか……尊い……しゅき……この子を見て俺は─────)


「ほらほら、体を細めて入れよ後輩。」

「おっとと、いやいや結構ギリギリなんっすよ!」


尊みに撃たれていたストーカーはつんのめるようにして畳を踏む。少女は生活範囲だけでも綺麗にしているのだろう、死体処理バイトの時に嗅いだような悪臭は一切無かった。


部屋の隅で自分の座るところが決まるまで立っていると、緑の畳や赤い箪笥が置かれた和室の中央で、ちゃぶ台前に正座で座るストリートファッション全開の気弱幼女の構図はストーカーの頭をこんがらせる。


気弱幼女はおずおずと手のひらで座るよう促す。お茶は並べてあり、子供でも飲めるくらいには温くなっていた。


ストーカーはショルダーバッグからネクロノミコンを取り出して机の上に置く。


「これです……」

「これで……くうっ……」


幼女は手を伸ばし、本の重さに耐えれず机に突っ伏した。

ストーカーは慌てて本の位置を幼女の手前にまで移動させる。


「ごめんごめん、お願いね。」

「分かりました。拝見します……」


ストーカーは幼女が本に目を落としたところで天井を見た。


これが一般家庭ならば、両手いっぱいに電車の図鑑を抱えて読んでいる微笑ましい光景だっただろう。

しかし幼女が眺めるネクロノミコンは、例えるならば血飛沫を映した人の写真の様な物であり刺激が強すぎるのではないかと危惧する。そして、そんなことをしなくてはいけない幼女の家庭環境を心配した。


「あの、一つ伺いたいことが……」

「……なんだい?」


天井から視線を落とすと、幼女はストーカーに向かって、眉を曲げて蔑むような鋭い視線を向けている。

幼女にそんな視線を向けられると思っていなかったストーカーは、何かを見抜かれたのかと冷や汗を流す。


「お客さん……この本、盗んだんじゃない……?」

「いやー、落ちてただけだよぉ〜……」


静寂。

幼女の輝いている目には、汚い大人が反射している。


「この本、怒ってる。ううん、この本の持ち主が物凄く怒ってる。」

「あぁ……拾ったから……」


「……うん、分かりました。」


幼女はネクロノミコンを机に乗せ、よいしょと呟きながら閉じる。


「いいですか、お客さん。」

「……」

「お客さんは今、何かから睨まれています。」

「っ!?」


幼女の背後、古びた家屋の黒ずみ。

一つの大きな眼がその向こうを通っていった感覚を覚える。


「そしてお客さんは……すごく、恨まれています。」

「そんなわけが無い……」


ストーカーは、足元の汚れから黒い手が出現して掴みかかってくる幻を見た。


「やめろ、拾っただけだ!」

「お客さん、持ち主に謝ってください……ちゃんと謝れば、きっと助かります……」

「……うぅ、うるさい、うるさいうるさいうるさい!!!」


幼女の黒髪にさえ数多の視線を覚えたストーカーは、幼女を突き飛ばしながらネクロノミコンを奪い取る。


「ひゃぁ!?」

「お前は俺の味方じゃないんだな!みんなそうだ、やっぱりみんな敵なんだ!死んでしまえ、このチビ!」

「後輩!?」

「先輩すみません、こんな奴とはソリが合いません!帰ります!」

「駄目、一人で行っちゃ​─────」

「黙ってろ!」


ちゃぶ台を蹴りあげ、先輩の怒声を背中に浴びながら家から飛び出したストーカー。

そのまま住宅街とコンクリートブロック塀の間を走り、大通りへ向かっていく。


無機質に響くのは靴の音。そして男性の激しい呼吸。


大通りまで直進し、タクシーに乗って帰ろう……そう思いながら揺れる体に耐えて前を見た。




ストーカーの世界が凍る。



無酸素運動による呼吸は、精神的圧迫による過呼吸に変化した。




視線の向こうから、二人の人間が歩いてきている。

片方は異常に背が高く、更に手が膝の位置まで届いている。どうやら男性のようで、僧帽筋はガッチリしていた。



そしてもう片方は​─────白!



白髪が膝に届くまで長く、更に背中と右半身を覆っている。ただ昼会った女性がどんな白髪だったかは、女性を正面から見てないので覚えていなかった。


とにかくあの二人が何故ここにいるのか分からないし、とにかく関わるのは危険。


そう考えたストーカーは、何も知らないフリをして隣を抜ける算段で駆けていく。

二人は並んではいるものの左側通行を守っており、通り過ぎるのは簡単そうだ。しかもガタイの良い男性ではなく、細身の白髪の女性が車道の内側を歩いている。


残り20m。

相手に動きは無い。


残り10m。

走っているストーカーに気づいたのか、帽子を被った男性が不自然な身じろぎをする。

しかし肝心の女性はただ歩いているだけだった。


残り3m。

特筆することはない。


残り0m。

女性の頭半分は髪に覆われており、表情を伺うことは出来なかった。そしてストーカーは足の回転を速めて通り過ぎる。




「はぁっ、はぁっ……」


怪しまれないよう一瞬だけ振り返ると、二人は方向を変えることなくそのまま歩いていた。

逃げ切った安堵から段々と疲労が体の動きを鈍らせ、走りから歩きに変えていく。


ショルダーバッグの中で一番重い物の造形を思い浮かべる。


「ネクロノミコン……これは悪の秘密結社の書類だ。俺が正義をなさないと……」


身体疲労によって混濁した思考を口から垂れ流すストーカー。

自身もそれはバカバカしいとは思いつつも、否定に対して否定出来る程度には本の内容は危険だと判断する。


「はぁっ、ぜぇっ……あぁっ……」


しかし俺は何故走らされたのだろうか……?

それはあの幼女が恐怖を刺激してきたからだと、ストーカーは思い出して激怒する。


「いつか犯してやる……生意気な口を聞けないようにしてやる……」


厚顔無恥なストーカーは、復讐心によって性犯罪者へと進化しようとしていた。





残り-200m。


閑静な住宅街に、鈍く、同時に乾いた高い音が響いた。



頭の肉と骨が混ざって飛び散った。

消失した首、そして肩の高さから腰までの背骨が潰される。余りの衝撃に上半身の変形した体は膝を折ってアスファルトに座り込む。


人体で自らの鞘を作った大きな鎚はもう一度大きく振り上げられ、腰まで破壊される。

心臓は破裂し、おでん混じりの胃液が飛び散り、腎臓から血尿が出て2本の足を濡らす。



血塗れの両手鎚を死体から離して金属部分をアスファルトに置く。それから左手で柄の先端を握り、右手を重ねてから自身の顔を置いた。

男性は大股で歩き、血溜まりの中からネクロノミコンを拾う。そしてショルダーバッグを開いてスマホと財布を出した。スマホは傷一つ入っていないものの、財布は半分近くが消し飛んでいた。


「あーもう、なんでこうなった……」

「しょうがないよ誑伽キョウカ。珍しく僕が窓から出たのが一因だし……」

「大体、なんでコイツは私の部屋に入ったの?」

「それが全然分からない……って、あ。」


男性はしゃがみこみ、上着の懐から靴下を取り出す。

それはストーカーがベランダで盗った物だった。


「これは……」

「……くだらない、下着泥棒か。」

「なるほどねぇ……洗って返しておこうか。」


男性がネクロノミコンを大きく振ると、血も酸も飛び散っていく。そして最後のページを開き、『洗浄』と呟くとネクロノミコンから水が溢れ出し、一度閉じたかと思うと乾燥機の様な音と共に1ページから扇風機の様に自動でページが開かれた。


すっかり乾燥して元に戻ったネクロノミコンを、不機嫌に鎚と共に揺れている誑伽に手渡してから男性は死体の近くでしゃがむ。


「ショゴス〜、おーい、起きろショゴス〜?」

「テケ……?テケ!リーリー!」


男性が水筒の様な物を取り出して蓋を回して開けると、街頭に照らされて反射する瑞々しいゼル状の黒い物体が這い出てくる。

出てきたゼルから乱雑に目と口が出現し、男性の方を見ていた。


「しーっ、静かに……この死体と服、あと液体食べちゃってね。あとこの地面は食べちゃ駄目だよ。」

「テケリ・リ〜」


瞼のある目が嬉しそうに反応し、それからいくつかの個体に別れて死体を侵食し始める。


「ミィ君、どれくらい時間かかる?」

「不味くて汚いからなぁ……10分はかかりそう。」

「分かった、じゃあ向こうで見張りしてる。」


誑伽がネクロノミコンを開きながら歩き始めると、男性はすぐさま呼び止めた。


「いや、待って待って。ここは僕が飛ぶから誑伽は下でショゴスに暖めてもらってて。」

「でも上空は寒いよ?」

「僕はミ=ゴだからね、宇宙空間に生身で放り出されても耐えれる体だから大丈夫だよ。」


そう言うと男性の肩は縮み、背中から一対の羽が飛び出した。

誑伽は慌てて周囲を確認し、人目が無いことにほっとする。


男性の首は長く伸び、顔は円形に変化した後に、中央から白く渦巻き状の物体が出てくる。渦巻きから触手が現れて顔の縁まで覆い、うねうねとした触角が各象限の45°にあたる部分から生えてくる。

胸板は亀の内側のような形の硬い物質に変化し、その両側から六本の脚が出現する。人間の足は縮んで無くなり、腰からはマダニのように膨らんだ赤い腹が出てくる。


「ふぅ……ありがと。」

男性の形に変化していたミ=ゴは、透けて向こうの夜空が映るオーロラ色の翼を振る。そして誑伽の頭に頭を擦り付けた。

『行ってくるよー、あったかくしててね。』

「うん。」


ミ=ゴは一番上の脚で誑伽の頭を撫でて、中央の脚の先である鋭利で巨大なハサミを打ち鳴らしながら飛び立った。


残された誑伽は電柱の近くでブロック塀に背中を預けてあぐらをかき、そして脇に鎚とネクロノミコンを置いた。


「はぁ……」

「テケ〜?」


座った事に気づいたショゴスが、ストーカーの口から飛び出す格好のまま誑伽の元へやってくる。

少し肥大化、そして細長くなって誑伽の足に這い登る。


「両手を温めてくれる?」

「テケリ・リ!」


ショゴスはストーカーの頭を喰いながら変形し、もふもふなカピバラと表現が出来る生物になってから、誑伽の両手を入れる用の穴を腹に作った。

その穴に両手をズボッと遠慮なく入れると少し収縮し、体感型ASMRのように360°から心臓の脈が感じられた。


「……よく出来てる。合格している。」

「テケ!?リー!」

「鳴き声はそのままなのか……まぁ、判別しやすくて助かるが。」

「リリ?」


誑伽はショゴスカピバラで温まりながら空を見上げる。


……セキュリティ意識が甘い私のせいでミィ君に迷惑をかけてしまった。


自責の念に囚われた誑伽は、とりあえずショゴスカピバラの内側でわしゃわしゃ揉みしだくことでうやむやにし、ショゴスが死体を消すまで時間が経つのを待った。





次の日



洗濯機が清掃終了を告げた。


ミ=ゴは蓋を開いてすぐハサミでストーカーから取り返した靴下を抜き取り、ドライヤーをかける。

それから他の洗濯物を、残った二本の脚でカゴに入れる。

洗濯機の音に気づいた誑伽が顔を見せ、頷きながら質問をした。


「ねぇミィ君、隣の人のは……」

ミ=ゴはドライヤーと靴下を振る。

「うん、分かった。じゃあすぐ持ってく訳だし、ここで待ってる。」



片方だけの靴下のドライヤーが終わる。


それが今、誑伽の手に渡った。



これから彼女は自室を出て、隣の部屋のインターホンを鳴らすだろう。


まさか。


ただの善意が。


それだけが始まりだったなんて、誰も予想がつかなかったに違いない。




「あーだめだめ、誑伽ぁ……隣の部屋の人は駄目だよぉ……ってのが分かんないの、すっごく可愛い……深窓お嬢様的誑伽様いいねぇ……」

「……うー、久しぶりに殺したいぞ、この世界を殺したい……」

「ちょっと待って……あ、飲み物飲んでる。待って待って……今日はこの人を殺しに行こう!」

「今からか?」

「後で。この人はカツアゲとかオヤジ狩りとかしてるから、きっと沢山お金を持ってるだろうから。」

「よっしゃ、この餓えは今は我慢してやる。」

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