1-15 述懐

あの黒き塊が潜むことを知ってしまった今、両の足には恐怖という名の醜女が縋り付 き、前へ進まんとする余の決意を、根元から容易く手折られてしまいそうだ。 ああ、エレッ トの薔薇園が恋しい。


ニョグタ、師から賜った過去の文献にも殆ど残されておらぬ未知なる存在。その黒き体表は玉虫色に波打つ、個体とも液体ともつかぬ数奇な身体を持つ。 普段であれば、水滴のご とく丸みを帯びたままでいるが、その身体が一度危機に晒されると、 突如としてその肌を 瞬時に伸ばし、 仇なすものを串刺し鞭打ち、その息の根が止まるまで無体を働く。

知られているところでは、仄暗く狭い穴を好み棲み家とするが、如何なる知性を持つのかも、 その本質すらも定かではなく、如何にして生まれ、 如何にして死ぬのかについても、満足のゆく記録は残されていない。


語るもののおらぬ理由は、これを敬うものが言葉を持たぬか、そもそも存ぜぬかである。 知るものの悉くを虚無へと至らしめるこの塊を思うと、 今すぐにでも領地へと馬を駆り、 妻と幼き息子をこの腕で抱き締めたい。


死したるのちに残されるものの揺らめきは、あまりにも無力である。 己の伏したる様をまざまざと見せつけられ、生まれて初めて干渉という力の偉大さに気付かされるも、再びその偉大さを享受することはなく、あまりの名残惜しさにその身が朽ち果てるまで、只々傍に寄り添い続ける。


如何なる偉業を成したとしても、死すれば全てが灰となる。 燻りも残らず打ち捨てられ て、やがては全て忘れ去られる。余は死が恐ろしい。 途方もなく恐ろしい。あの黒きに近づくは、 間違いなく死に近づくと同義である。



思い出すのだ。路傍に打ち捨てられた姉上の無残な姿を。 全身を彼奴等のうす汚い鉤爪でずたずたに引き裂かれ、 左手の中指と薬指を奪わせてしまったのは、あの時余が暗闇から飛び出すことを躊躇ったからに違いない。 あの時余にほんの僅かの勇気さえあれば、もしかすれば姉上は、今でもエレットの咲き誇る薔薇園を見やって、 微笑んでいたかもしれぬ。


あの時余が姉上と共にいれば、あの時余が姉上と早く合流していれば、あの時余が


否、余は本当は恐れてしまったのだ。 わずかな月明かりに照らされた、 姉上に近づく人ならざるものの異形を目にして、心の底からすくんでしまったのだ。若かりし余には、己の鼓動の音を抑え込もうと、抑え込まねば見つかるという浅はかな考えしか浮かんでこなかった。余はなんと卑小な存在であるか。姉上は指を奪われたことで、もうすぐ受け取るはずであった指輪を、最後につけることも叶わなかった。夢にまでみたその日を、迎えることすら叶わず送り出されたのだ。余が飛び出すのが遅れたが故に。余が声を上げるのが遅れたばかりに。


師を見つけ従事したのちの苦行は大変なものであった。狼の巣食う森に一月放置されたこともあった。師の語られる星々の理を理解することも、はじめは無理であると疑わなかった。しかしこれに耐えられたのも、全てはこの卑小な余を二度と振り返りたくないがため。もう二度と大事な人を奪われぬよう、強くならねば、強くあらねば。


姉上よ、お許しください。余は強くなりました。貴女の恨みは必ずや晴らしてみせましょう。

許すまじ六本傷よ。あの脛に刻まれた棘跡を必ず見つけ出し、必ずや貴様に煉獄の業火すらも生温いほどの苦痛を与えてやる。

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