1-3 人の世の外にありしもの

常識を捨てると口で言うのは簡単だが、いざ本当に捨てねばならぬ局面きょくめんに立つもので、心の底にへばりつく常識を打ち捨てられるものは如何いかばかりか。

常識という概念は、それが己の身を守ると信じる集団にのみ効果を及ぼす魔術のごときものである。社会という名の強力なカルトは、日々の繰り返しがそれもって儀式の役割を果たし、この常識とやらを生かし続けている。

しかしこの儀式を続けるがゆえに、輪に招かれざるものや、人との交わりを嫌うものなど、居場所を得られぬものにとっての常識を、さも害あるかのごとく排斥はいせきする。


この儀式を自ら望んで辞めた集団は、余の知るところそのことごとくが打ち滅んでおり、この魔術が解かれることのないよう、子へ孫へと引き継いでゆくが、魔術師たるもの社会にその身をひたしつつ、越えるべき点を見極める胆力と知力を養わねばならない。


常識とは、捨てるべきものでなく超越すべきものなのだ。


身体の外に溢れ出した血液は、その扱いを心得ぬ者にとって汚物に等しき嫌厭けんえんされるものだが、貴殿のような深遠しんえんなる魔術に通じるべしと常識をかえりみぬものにとっては、真の宝に違いない。その血を持って、御身おんみを守るべし。


道端に無数に転がる石くれより、絹織りの如く白く滑らかなものを五つ集め、貴殿きでんの親指の腹をナイフで少々切り、流れ出す血の一滴を拇印ぼいんの如く全ての石に押し付ける。この石を、地面に五芒星ごぼうせいを描くごとくその頂点に配す。

石を線で結ぶ必要はなく、血に宿る濃厚な魔力が引き合い、その力でもってこれを結び、目に見えぬ五芒を成す。


五芒の中央に立てば、血の魔力が貴殿の魂魄こんぱくから立ち昇る揺らめきを隠し、加えて茂みに身を忍ばせれば、さも存在が搔き消えたかのごとくその場を維持することができる。

この印に守られるものは、石に血を分けたものに限られるため、複数の魂魄を隠す際は、その数と等しき石くれ五つを要する。

しかし、隠される範囲はせいぜい三pied《ピエ》程度であり、それ以上の間隔に石を配したところでなんら役に立たぬことを心得よ。


このわざをもって洞穴を見張れば、一週のうちに成果が得られることだろう。

洞の深奥から顔を覗かせるものどもは、決して一飲みには受け入れられぬおぞましい魔物のごときものである。


身の丈五pied程度、その容貌はまるで鼻の低い鬣犬ハイエナか羽のない蝙蝠こうもりにも見え、老婆のごとく折れ曲がった背筋には、背骨が皮膚を貫かんばかりに出張でばる。耳は天を突くとがりようであり、足には牛とよく似た二股ふたまたのひずめがある。近場でみればおよそ人とは一線を画す醜悪しゅうあくさを漂わせているが、闇夜に遠目で見れば人と見まがうこともあるだろう。


しかしその疑いようもなく5本の指に配された、長く鋭い汚れた鉤爪かぎづめは、土を掘るにも人を切り裂くにも役に立つであろうことが見て取れる。この鉤爪で、これまで幾人いくにんもの犠牲を生んできたのであろう。まことがたい。


しかし、以前に瞥見べっけんした屍食鬼グールほど痩せこけてはおらず、思いのほか肉付きが良く見えるため、それぞれの環境が生む個体差が如実にょじつに表れている。人が営む村落に近く、餌が豊富に得られるということだろう。以前のものよりも遥かに膂力りょりょくがあるように見える。


総じて四匹、村の方へ向かう姿を見たが、二本の足で器用に歩いていたかと思うと、半ばよりその手を前足のごとく扱い、地に這いつくばる様にして走り出し、恐るべき速さで村の方へと消えていったため、とてもではないが追い付くことも叶わなかった。


万が一貴殿が遭遇することがあれば、即座に剣を構えることを進言する。


余はしばらく、何故このものどもが光指す地へ赴かず、あのような闇に身をやつしているのかについて、思案に暮れることになった。


群れの数はまだわからぬが、あのような獰猛どうもうさを如実に表した姿、一介の街人など少々束になったところで容易くほうむれるであろうに。夜闇に隠され捉えることは叶わなかったが、その眼は目覚めの際に朝日をまぶしく感じるかのごとき刺激を覚えるのやもしれない。はたまたその身に、ごてのごとき苦痛を与えるのだろうか。または人の世は闇をうやうやしくおそれるがゆえの事かもしれぬ。真夜中の行動から察するにこんなところであろうか。


より奴らに対する知見ちけんが必要である。

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