第十五章 暁を手繰れば
「―――で、結局あれからそんなに変わってないんだろ?」
10月半ばの今はもう、だいぶ秋の気配も強くなって、何とかの秋、とメディアでは、食に芸術スポーツ等、ここぞとばかりに華やいでいる。それぞれの生活もまた落ち着き、いつも通りの日常、という、平穏な日々を過ごしてしばらく。
そんな普通のよくある日に、そっ気も飾り気もない病院の一角の、院内のコンビニ近くの自販機のそばで。
俺はアキに問い詰められていた。
「……まあな」
お互い、缶コーヒーを片手にしながら、顔も見ずに話をする。アキは今日はオフらしい。
廊下にもたれ、コーヒーに視線を落として――一口、飲み込むが。
味がしないわけではない。だが、どうにも、美味くない。
薄いような、味気のないような。
前はよく、この缶コーヒーを飲んでいた気がするのに。
「悪化してんのか?」
アキも一口、缶コーヒーを流し込むと、こちらを見ないままでそう聞いてきた。
あれからとは、3週間ほど前に、夏樹さん達がきていた時からだろう。
その時と比較するのであれば……悪化はしていない、と思いたい。
ただし、改善もされていない。睡眠はともかく、とにかく食事が問題だった。
食欲の秋とはどこ吹く風で、食べたいとも美味いとも相変わらず思えず……結果食事量が遅々として増えないままで、元の体力を取り戻せないでいる。
「悪化はしてない。けど……戻んねぇなぁ」
人ごとのようにぼやいてしまう。
だいぶ何かと戻ってきたなと思っていたのに、誰が見てもあからさまに回復していない部分が残るなど、我ながらなかなかどうして、弱いメンタルをしているよなあと自嘲する。
今は丁度聖が、瑠璃さんから火傷痕の治療を受けている。毎日の日課だった。意識のない彼女の背に、女性の看護師の手を借りて、薬を塗ってる最中だと思う。
できるならその辺も手伝いたい……俺主動でやりたいところだが、意識のない女性の裸を見るのかという……こう、何とも言えぬ居心地の悪い視線を受け、毎度しかたなく、そっと部屋から抜け出していた。
おかしいなあ、俺医者でもあるはずなんだけどなあ。医療行為なんだから仕方ないと思うんだけどなあ。
言っても仕方ない不平を、心の中に押し込んだ。
外聞やイメージというものは、そういった認識とは関係なく生まれるものなのである。
いやまあ、昏睡状態とはいえ、聖相手に何も感じるな、というのも、なかなか酷な話ではあるのだが。もちろん何かすることはない。そこは人として、理解している。しかしこう、多少は体調がマシになってきているのと、さすがに三か月もおとなしくしていたのもあり、少し、思うところも出てしまう。
体調が芳しくないとは言ってもこうなんだから、若さって面倒くさいものだよなあ、なんて。
それを考えると体調がいまいちなくらいの方が、抑えが効いていいのかもしれない。
そんなとてもくだらないことを考えて、はー、とため息をつき、頭を振って思考を追いやる。なんでも若さのせいにするのは、よくない傾向だ。
レツが勉強のためにアメリカに戻り、最近はもっぱら叔母さんと瑠璃さんが、あれこれ世話を焼いてくれている。もう本当に、頭が上がらない。
「そうか……ま、悪化してないだけマシなのかもしんねーけどよ」
アキが軽い口調でそう言って、けどよー、と少し複雑そうな顔をして。
「お前んちの親父さん、来年の俺たちの成人式の時、すげえ張り切ってパーティーする気だぞ。お前それ大丈夫か?」
「………は?」
持ってた缶コーヒーを取り落としそうになった。
「ほら、お前んとことうちの両親仲いいじゃん。なんか一緒んなってパーティーの計画練ってる。うちのお袋派手好きだから、結構盛大になりそうな感じするんだよな……」
げんなりした顔でそういうと、アキはグイっとコーヒーを飲み干す。
いやちょっとまて。そんな話はきいてない。
「もしやあの親父……まだ諦めてなかったのか……」
こちらもだいぶげんなりと呟いてしまう。どうせそのパーティーとやら、俺が後に引けないように根回しするためのものだろう。放っておくと冗談抜きで、家や仕事を継がされかねない。
「知らせてくれて助かった。あとで親父ぶっ飛ばしてくるわ」
「ほどほどにしとけよ」
苦笑しながらアキはそういうと、空の缶をゴミ箱へ投げ捨てる。それはきれいな弧を描き、カランと軽い音を立てた。
俺も同じく一気に飲み干し、缶をゴミ箱へシュートして、アキと二人病室へ戻る道すがら……ついでとばかりに、気になっていたことを聞いてみる。
「そういやお前、結構頻繁にこっち顔出すけど……引っ越し準備進んでんのか?」
うっ、と一瞬硬直し、アキはすいっとよそを向く。
……つまり、現実逃避でこちらに顔を出しているらしい。
「お前……仕事もそこそこ入ってんだろ。いいのか?」
「いうなよ……あまりに終わらなくてどうしようかと思ってんだマジで」
少し疲れた様子で言うと、まあやるけどよ、とぼやく。
今まではほとんど家にいない父親と二人……ほぼ一人暮らし状態だったらしいが、そろそろ望と同棲を始めるらしい。母親は確かドイツにおり、姉と妹を連れて暮らしていたはずだ。こいつの両親の仲はかなり良く、仕事や家庭の事情でそれぞれ別れて暮らしていたが、アキが独り立ちする今回を期に、父親もドイツに行くといっていた。少なくてもうちとは違い、俺からみたら割と仲の良い、いい家族なのではないかと思っている。
準備が進まない理由としては、長いこと同じところに住み着いていたため、何かと物が多くなってしまっているらしい。家電もどのくらい買い替えるか等、望との話し合いもなかなかスムーズではないとのことで、その辺もどうするかなあとぼやく。
「まあ、今は手伝いにも行けねえからなあ。がんばれよ」
にやりと笑ってアキを見、病室のドアをノックして。
部屋の向こうから、どうぞと声がかかる。聖の処置は無事終わっていたようだ。
そんないつもの、何でもない日。
いつも通りの日常。
それはそんな、当たり前の日だった。
「ん……?」
それは小さな、予感のような何か。
胸がざわり、と騒めくような、落ち着かない感覚。
アキも愚痴るだけ愚痴って家へと帰り、俺も親父と軽く舌戦を繰り広げたあと。
病室に戻り聖のそばで、本を少し読み進め。
まぶしい夕日が差し込むからと、カーテンを引いた時だった。
俺と聖しかいない病室で、小さく……それは、とても小さく。
「っ………」
ピクリ、と。
彼女が……聖が、動いたような気がして。
「っ、聖?」
彼女のもとに駆け寄り、声をかける。
小さく。
本当に小さく、瞼が震え。
くっ……と、一瞬。
―――彼女の息が止まった。
「!? 聖、おい!」
強く声をかけ、顔を近づけ、吐息を確認する。焦って脈すらはかれずに、彼女のほほに手を添えて、気道の確保か、人工呼吸かと逡巡し。
ほんの一瞬のことだ。
その一瞬が過ぎると……は、と彼女は、小さく息を吐いて。
とても。
とても、ゆっくりと。
彼女が……聖が。
震える瞼を、開いたのだった。
それは、本当に、何でもない日で。
三か月少しの時を経て、彼女がようやく、目を覚まし。
―――それはまるで、夢のような。
俺の世界に――――鮮やかに。
色が戻った日だった。
「………」
焦点の合わぬ瞳でうつろに、聖が俺を見て。
何度かゆっくりと、瞬きをし。
そんな彼女に向かって、小さく、優しく、何度も名を呼びかける。
自分の、震えだしそうな手を叱咤して、頬に触れ……優しく、包むように。
彼女が、壊れてしまわぬように。
そうして少し、彼女の唇が震え、名を呼ばれかけ――小さくせき込んだ。慌ててサイドの水差しを取り、彼女の体を抱き起して、少しだけ、水を含ませる。
こくり、と小さく、聖の喉が鳴って。
ああ、生きてる、とそれを実感したら……色々なものが、こみ上げてきてしまった。
ぐっと必死にそれをこらえ、大丈夫か、と声をかけ、彼女の少し乾いた唇に、少しずつ、水を飲ませていく。
「しょお、くん……? あたし……」
小さな、少しだけかすれた声で、聖が言って。
苦しさに少し潤んだ瞳で、俺を見た。
きつく、強く抱きしめてしまいたい思いを押さえつけてこらえ、何とか微笑みを向けて。
「―――おかえり、聖」
なんとか彼女にそう、呟いたのだった。
疲れ果て、意識を保てぬ泥のような眠り。それを途中で無理やりにたたき起こされたような、混濁した意識の覚醒だった。
眠いのかどうかもよくわからない。重く深い意識を何とか浮上させようともがき、目を開いた。
遠いような、近いようなどこかで、柔らかな声が聞こえる。声の方へ瞳を向けるが、目がなかなか、ものを見るという本来の働きを成してはくれず、何度か瞬きをくりかえし、ゆっくりと焦点を合わせていく。
頬にあたたかなものが触れたことがわかるくらいになったころ、ようやく、まぶしい光の中で、愛しい彼の顔が見えた。
それは、とても優しく。そして少しだけ、泣きそうな笑顔で。
―――ショウ君?
そう、言おうとして。
喉が息に負け、せき込んでしまった。
苦しさに必死に息をつくと、強い腕で抱き起され、口内にゆっくりと、水が流れ込んでくる。
なんとかそれを飲み込むと、大丈夫か、と心配そうな声できかれ、乾いた唇やのどを潤すように、ゆっくり少しずつ、水を飲ませてくれる。
「しょお、くん……? あたし……」
纏まらない思考を必死に手繰り、最後の記憶を思い起こそうとするが、どうにもなかなか、思い出せない。
ここはどこだろう。あたしは、確か。
今更彼の腕の中になど、いられなかったはずなのに。
訳が分からず、彼を見つめると。
とても優しい声で。とても優しい顔で。
「―――おかえり、聖」
そう言われて。
―――ゆっくりと、思い出したのだ。
あの時。
ウォルフの銃口がショウ君を狙い、あたしのことも狙おうとしてきたところで、ショウ君に庇われた。
強く手を引かれ、体勢を崩し……そう、あの時だ。
あの時。
起動スイッチにしていた簪がはずれて―――床に落ちた。
運が悪かった、というか。
起動スイッチは二重構造にしていた。
簪とネックレスとの距離が一定以上離れること。
簪の飾りに隠してあったスイッチが押されること。
二つの条件がそろってのみ、発動するようにしていた。
―――まさかうまいこと、落ちた簪のスイッチが、そのまま入ってしまうなど。
詰めが甘かったとしか言いようがない。あの時は、まさかショウ君がくるなんて欠片も思っていなくて……多少誤差があって起動してしまっても、かまわないと。
それで巻き込まれたほうが、偶然を装え……仮に命を落としてしまったとしても。
別に、かまわない、と。
あの時は本気でそう思っていたから、あまりたいした仕掛けにしなかったのだ。
そうして、あたしにとっては最悪のタイミングで、爆弾が起動して……そのあとが、記憶にない。
少しでも彼の生存を祈り、手を伸ばしたような気がしなくもないが、定かではなかった。
たぶんあの時の爆破に巻き込まれ……今なのだろう。
それにしては、体が痛くない気もする。ちょっと簡単に動かせない程度には、すごくだるいけれど。
少し辺りを見渡せば……あたしは視力があまりよろしくないので、ぼんやりとしかわからないが……おそらく、知らない部屋ではあるらしい。少なくとも、記憶にある場所ではないと思う。
白い間仕切りと、飾り気のないベッド。部屋は広いが、もしかしたら、病院かもしれない。まああの爆発で無傷ということはなかっただろうから、生きている今なら、それもあるだろう。
「どこか痛む? 感覚はあるか?」
ショウ君が、まるで壊れ物でも扱うかのような優しい手つきで、片腕で抱き起してくれたまま、手を握って聞いてくる。
少しだけショウ君の胸にもたれて、その手を握り返した。
あまり力は入らないけど、動かない、というわけではなさそう。
「大丈夫みたい。……あたし、どのくらい寝てたの?」
とてもじゃないが、一日二日で痛みが消えるような状況だったとは思えない。体がだるいのは―――これは、筋力低下かなにかだろう。そう考えると、一、二週間というレベルでもなさそうだ。
「三か月ちょっとかな……今日は10月14日」
「三か月……そっかあ……」
最後の記憶が7月だから、季節一つ分は眠って過ごしてしまったらしい。
「ショウ君は、大丈夫だった……? 怪我とか、残ったりしてない?」
何より守りたいと思っていた人を、傷つけてしまったのではないかと。
そう聞いたら、ショウ君がふっと、泣きそうな顔になって。
「……俺より、お前だろ。―――ばかやろう」
ぎゅっ、と、強く抱きしめられて。
肩口にショウ君が俯き、顔が見えなくなってしまった。
「……ごめんなさい」
ぽつりと。
小さく、口からこぼれた言葉は、とても小さく。
そっと彼の背中に手を回すと、さらにきつく、抱きしめられて。
ショウ君は、小さく一度頷いた。
大丈夫だったかと聞かれ。
彼女の記憶は、あの時で止まっているのだから、当たり前なのかもしれないけれど。
そんな、当たり前の彼女の優しさに触れたら……もう、堪えられなかった。
「……俺より、お前だろ。―――ばかやろう」
強く抱きしめ、彼女の肩口に顔を埋める。
高ぶった感情で流れ落ちる涙を堪えられず、それ以上は何も言えなくて。
ただ強く、抱きしめた。
「……ごめんなさい」
小さな声で、囁くように。強く後悔が滲むそれを彼女が零し、背中に小さな手が触れる。
答えられなくて、一度だけ頷き、少しだけそのまま、彼女の温もりを感じていた。
どれほどそうしていたかはわからない。そんなに長い時間ではなかったとは思うけど。
ようやく落ち着いて、聖から少し離れ、軽く涙を拭って。
聖と顔を見合わせる。
少し笑うと、聖もようやく、少しほっとしたような顔をして。
「お帰り、聖。―――話したい事が、いっぱいある」
彼女の頬にそっと触れて包み込むと、聖が少し気持ちよさそうに、目を閉じて。
「あたしも……話したい事、いっぱいあるよ」
ゆっくり目を開き、首を少しだけ、俺の手に預けるようにして。
少しだけ泣きそうな、潤んだ瞳で、ふわり、と微笑み。
「―――ただいま、って……言ってもいい……?」
震える声でそんなことをいうものだから。
「当たり前だろ……」
せっかく止まった涙が、また溢れそうになってしまうのを、ぐっと堪えた。
聖が小さく、うん、と言って。
「ただいま……ショウ君……」
言葉と同時に、聖の目から涙が落ちる。
おかえり、ともう一度聖に囁いて、聖の瞼に口づけを落とす。
流れ続ける涙もキスで拭って、頬にも額にも口づけてから、そっと、唇を重ねた。
とても軽い、短いキスだけど。
ただそれだけでも、満たされるものがあるほどに。
飢えて乾いていた深い何かが、少しずつ潤っていくのがわかる。
「……もう、どこにも行くな……」
耳にもキスを落としてそのまま囁くと、聖が小さく頷いて、ごめんなさい、と呟く。
彼女をきつく抱きすくめて、愛してると囁いて。
小さく。彼女もそれに、答えるように。
「……あたしも、大好きだよ」
脳が甘くしびれるような言葉を、返してくれた。
このまま腕の中に閉じ込めてしまえたら。
俺の。俺だけの聖にしてしまえたら。
この浅ましく昏い思いも、すべて消えてくれるのだろうか。
暫くそうして抱き合っていたら……ドアがノックされる音が響き、
「ショウさん。居ますか? 今日のお加減はどう?」
瑠璃さんの声がして。
……仕方なく、少し聖から離れる。
「います。どうぞ」
声をかけ、そういや泣いてしまったんだっけ、目ぇ赤くないかな、なんてことを考えてる一瞬の間に、ドアが開かれた。
「食事はとれそう? さっきあの人が、あなたに言い忘れたことがあるって―――……」
言いながら瑠璃さんがこちらへ足を運び……言葉も足も、途中で止めて。
目を見開き、息をのむ。
―――そこからは、少しだけ慌ただしく。
失っていたものを、取り戻していくような。
君との日常に、ようやく。
帰って、きたのだ。
Ruin Venus 第一部 トナカイ @tonakai_03
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます