第四章 彷徨い疲れた心達


 もうずいぶんと長い事いるような。

 それでいて、あっという間だったような、ここでの生活。

 ……いや、「ここでの生活」という言い方は正しくはないだろう。

 場所はかなり色々と、点点とわたってきているのだから。

 ―――一人のときの空白の時間。

 ねぇ、ショウ君。ショウ君? 君は今どうしているのかな。

 もう、二年も経つんだよね。

 あんまり勝手な事したから、君はもう、あたしの事なんて忘れちゃってるかな。

 ……忘れてしまって、幸せでいてくれるなら、いいんだ。あたしのことなんて、覚えてなくていい。

 きれいさっぱり忘れ去って……心から幸せになって、笑ってくれるなら。

 裏で噂を聞かなくなったよ。紙面じゃ未だに、よく見るけれど。

 少し、痩せたね。髪、伸びたなぁ。ちゃんと寝てないでしょう、顔色悪い。

 こんなに離れているのにさ、君の事を見ない日は、ないんだよ。

 こんなに、遠いのに。

 君はあたしが見えないのに。

 あたしはいつも、他の人とおんなじには。

 そのくらいには、君の事、見えるんだね……

 会いたいなんて。

 今更言える立場じゃないね。

 君の声とか。

 呼んでくれた名前とか。

 笑いかけてくれる顔。

 大きな手。綺麗な、空色の瞳。

 いろんなもの、思い出せる。

 記憶。

 守りたいものが多すぎて。

 この手のひらから零れていくものが、必ずある事。

 わかってたからなのかなぁ。

 あたしは、君のもとを離れて。

 一番大切な君から、一番早くに離れてしまった。

 零れる前に、選んでしまった。

 君には知って欲しくないんだ。

 わかって欲しくない。

 この世界が持つ闇―――人の、本当の闇を。

 君のその「存在」ゆえに伸びてくるであろうものを。

 君が望まずとも伸ばされてしまう誘いを。

 あたしが全部引き受けよう。

 君はたぶん、それすら望みはしないだろうから。

 わかってるんだ。だから、あたしは君から離れて。

 君を傷つける事を知っているのに。

 一人で防壁をうちたてる事を選んだ……


 ごめんね。

 ごめんなさい。

 一番奥に、君がいるよ。

 あたしの一番大事なところには、いつも君がいる。

 心の奥の、ずーっとずーっと深いところ。

 綺麗なものも。

 汚れたものも。

 全部全部関係ない。

 一番大切な君だから。

 その君に害をなすのであれば。

 あたしはどんな手段でだって、それを取り除いてみせる。

 相反するものが必要であるなら。

 君を光とするならば。

 あたしは喜んで、闇を引き受けるから。

 強制じゃない。

 悲劇のヒロインなんて好きじゃない。

 そうじゃなくて。


 自分で、選んで。


 幸せで居て欲しいんだ。

 君だけ。

 あなただけ。

 勝手な事なのだけど。

 他はもう、どうでもいいの。

 君一人だけが幸せであれば。

 あたしは………



「ヒジリ?」

 少しばかり癖のある英語で呼ばれ、聖はゆっくりと振り返った。

 凍てついた瞳。

 これでは、何かを通してでしか彼女を知らないものならば、同一人物だとは思わないかもしれない。

 光のさす角度によっては金の輝きをちらつかせる、淡い茶色の瞳をすがめ、

「せめてノックくらいはしたら?」

 す、と半目のまま、口から零れだす言葉も凍てついた声色。

 そのくせ……音はずいぶんと甘いものだ。

 そんな事を、無礼な侵入者は考えた。

「それは失礼、以後気をつけることとしよう……」

 言いながら、彼女の掛けるソファへと近づく。美しく輝く光を纏う淡い茶色の長い髪をまとめ上げ、広く胸元の開いた夕焼け色のドレスをまとい、最近では希少となってきた色のついたダイヤを飾ったネックレスに、揃いのイヤリングをつけた彼女。

 はっきりといえば、よく似合う。

 こういった価値のものは、着る人間、付ける人間を選ぶという。では、彼女はそれに欠片も劣らぬ価値をもつという事か。

 皮肉げな微笑が、彼の口元に浮かんだが。

「何か用? まだ時間まではあったと思ったけれど」

 そう問い掛けられた。すぐに表情を改める。

「ああ、そうだ……上の都合でな、出発が1時間ばかり早まったらしい。そろそろ支度をしておいてくれ」

「へぇ……了解したわ」

 鋭利な刃物のような雰囲気と、整った顔立ち。そしてこの、誰の手もとらぬ素っ気のない態度。

 これこそが、彼女の魅力なのだろうと、彼は思う。そしてまた、そんな彼女をある意味、パートナーとしては独占している事に対する優越感も、感じるなという方が無理であろう。

 手は出させてもらえないが……まあそれも、そろそろ、時間の問題だろうと考えていた。

「それと、ルートが変更だ」

 有名ブランドのスーツをスキなく着こなして見せる男は、そう言うと一枚の紙を彼女の前の卓上に置く。

「やる事がふえてな……日本を経由する。ここで一つ取引をこなしてから香港へ。

 ―――まぁ、小さな取引だ、たいしたものでもない」

 ぴくり、と彼女が日本という言葉に反応を示した事を、彼は悟る事が出来なかった。

 かわりに、彼女の手にしていた雑誌に、このとき初めて目をやる。

「シェリル? 興味が?」

 あるのであれば、一着仕立ててやろうか。

 そういうニュアンスをにじませた彼の声色だったが、彼女の返答は変わらぬ声色で。

「――いえ……なんとなくよ」

 真意を測ることは出来ないでいた。

 仕事の合間の空白の時間、彼女の行動を、彼は知らない。

「そう、そういえば」

 はたと思い出したように、彼は一つ指を鳴らした。

「シェリルのモデルだったな……いや、お前じゃない、こちらでも有名だという事には変わらないが……いや、有名だったというべきか」

 こちら、とは、裏世界の意であろう。

 ちいさく……彼女の心臓がなった。

 そう称される者は、たった一人しか居ない。

 彼女が……唯一、愛した人。

 この世界中でたった一人だけ、いとおしいと感じた者。

 それに気付かないまま、彼はスーツケースに自らの身の回りのものを詰めはじめる。彼女には、背を向ける格好となった。そのまま言葉を続ける。

「つい先ほど話が入ってきたんだがな……倒れたらしい。俺達はタイクーンの指示通り、荷担しないが――どうも別の組の連中が、これを機に「ショウ」の暗殺を図っているそうだ。うちとの対立も気にせんらしい……利用するだけは利用して歯向かおうという魂胆だろうがな」

 面白くもなさそうに彼は言い、ばたんとスーツケースを閉じる。

「……? どうかしたか?」

 振り返れば、珍しいものをみる事が出来た。

 そう、彼女が、ほんの一瞬……一呼吸にもみたぬ間、さっと顔色を変える様を。

「―――……」

 長い沈黙の間に、彼女は瞬きと、深呼吸を一度こなし、小さく頭を振った。

「いえ……いいわ、気にしないで。……少し惜しくはあるけれど」

 そう言って、彼女も支度をはじめる。

 惜しい?

 一度口の中でその言葉を転がし、彼はようやく合点のいったように、小さく頷いた。

 なるほど。利用価値のことか。たしかに、殺してしまうには惜しい人材だ。利用法によっては、莫大な利益を生んでくれたことだろう。……タイクーンの指示がなければ、うちとしても、引き入れたい人材でもある。

 一人で納得すると、彼は先に行っていると部屋を出た。

 彼女一人が残された部屋。しばらくして、スーツケースをとじる音が部屋に響く。

 ―――が、人の動く気配が、それきりない。

「――――………冗談じゃないよ………」

 ケースの上に突っ伏して発せられた、この部屋ではじめて、そしておそらく最後であろう日本語の意味を知ることは出来なかった。

 彼女の顔を伺い見ることは、誰にも出来なかったから。




「しばらくは入院が必要です」

 そんなセリフをみんなで聞いて。

 俺達は……眠るショウを不安な気持ちで眺めていた。

 たぶん、心のどこかでは。

 大丈夫だ、って思ってたんだ……

 ブレットも。

 レツも。

 望も。

 ――……俺だって。

 絶対なんて、ないっていうことを、初めて思い知る。

 だって。

 俺達はみんな。

 ショウなら絶対大丈夫なんだって、頭のどこかで思っていたんだ……

 あやいうバランス。

 ぎりぎりの精神状態。

 必死で押さえつけてたんだろう。

 なぁ。

 俺達じゃそんなに頼りないか。

 俺達じゃ、ダメなのか。

 ここに集まってる全員、きっと思ってる。

 傍若無人で、自信家で。

 たぶん、弱音なんかほとんど吐かない。

 俺達は、ショウの弱さを知らない。

 いやってほどに突きつけられる。

 ―――現実。

 なんで気がつかなかったんだろう。

 どうして。

 ショウはもう、ずっと前から。

 こんなに、弱ってたのに。

 身体じゃなくて。

 ――……心。

 こんなに、聖が居ない事が堪えていたのに。

 泣いたり。

 喚いたり。

 癇癪起こしたりする事一つ、俺達は見たことないんだよな。

 いつも、いつも。

 なんでもこなしてきちまって。

 俺達はどこかで、安心していたんだ……

 お前なら大丈夫だって。

 それが壁になってたんだ……

 初めて知る。

 たぶん、生まれて、初めて。


 なんて自分は、馬鹿だったんだろう。




「ヒジリ?」

 同じミスは二度としない。

 そう思いつつ、彼は……ウォルフはドアをノックし中へと入った。

 しかし……返事はない。

「ヒジリ?」

 不審に思いながら、辺りを見渡すと…荷物が、ない。

 代わりに卓上の灰皿に、何かが燃えた後と紙が一枚。

 灰皿はめったに使われる事はない。身体を害するものは、タバコも薬もどんなものでも、売るものであって使うものではない。

 それは、裏に生きていて高みを見つめるものならば、ほぼ当たり前の常識だ。自ら進んで毒を含むなど、裏にとっては無能を晒しているようなものなのである。

 あいにくと彼にも、そしてヒジリにも、そんな自虐趣味はなかったと思う。

 では、これは?

 まずは、卓上の無事な紙を見つめ―――………

「っ!!」

 ウォルフは踵を返し、部屋を飛び出した。

 灰皿の燃えカスも、なんだかすぐに知ることが出来た。

 それは先ほど渡した予定。

 ―――無視する気だろう。

 ウォルフは珍しく、眉間にしわを寄せて焦っていた。スーツケースを部下に運ばせ、飛ぶような勢いで車を走らせる。タイクーンにばれてはまずい。自分も叱責されかねない。

「どういうつもりだ……ヒジリっ」

 誰に聞こえるわけでもないほど小さな声で舌打ちとともに言葉が漏れた。

 手には、ヒジリの残したメモが、しっかりと握られている。


 ―――先に日本へ行っています。現地で会いましょう。

    日本を発つ予定の日に、空港で……―――

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