ゾウヘイキョク当番
環境
ゾウヘイキョク当番
「あーあ。はやく帰りたい……」
アヤノはノミを研ぎながらため息をついた。今日から一週間、ゾウヘイキョク当番になってしまったからだ。
ゾウヘイキョク当番は放課後に居残りをしなければいけないので、ほかの当番よりもずっと気が重い。所属しているマーチング部では、来月の大会に向けての特別練習が始まっていた。一週間の遅れは相当なものだろう。
メリットといえば、全員が役割分担するはずの給食当番や掃除当番などが一切免除されることと、報酬として一日一ケジメが支払われることくらいだった。
<ケジメ>というのは学校内通貨で、購買で文房具やお菓子と交換してもらえたり、友達同士なんかではレアカードやアイドルのブロマイド、CD、キラキラのシールと交換することもある。
「おれは嫌いじゃないぜ。ケジメも足りなくなってきたし、ワタリガニ不明? ってやつ」
水道にホースをつないでいるのは同じ班のタクミだ。
タクミは卓球部に入っているが、卓球部とは名ばかりで、帰宅部、ガリ勉部、放課後ダラダラクラブなどの異名をほしいがままにしているのが実際のところだ。
この学校では四年生に進級すると全員が部活に入るきまりになっているので、部活動に参加したくない怠け者や塾に通う子どもは卓球部に振り分けられる。タクミは言うまでもなく前者だろう。機嫌よく鼻歌を歌いながら、コンクリートの床に水を撒き始めている。
右の乳側切歯が抜けたタクミの笑顔を見て、アヤノはもう一度ため息をついた。
「意味不明だし、ケジメがないのはタクミが忘れ物ばっかりするからでしょ」
ねえ、と部屋の奥に話しかけると、スチールロッカーを閉じる音が返ってきた。
「渡りに船とおっしゃりたいのでしょうか。それよりも、さっきから僕に水がかかっていて不愉快極まりないのですが」
神経質そうにメガネの位置を直したのち、デッキブラシを立てて抗議しているヒロシも班員の一人だ。ヒロシは卓球部のガリ勉の方で、日々中学受験の対策に勤しんでいる。毎日勉強しているのに、学年八位という微妙なスコアの持ち主でもある。
ゾウヘイキョク当番の仕事は、エンコさんのお世話と、ケジメの採集だ。
エンコさんはC棟の地下室で飼育されていて、四年三組にはCー4の部屋が割り振られている。地下室に入室するためには、用務員さんから鍵を借りなければならない。
下に降りる階段は極端に狭く、ふくよかな子どもがぎりぎり通れる程度の幅しかない。エンコさんの部屋は、そのまま五分ほど直進した先にある。
腐食によってぶくぶくと粟立ったコンクリートの壁は、アリの巣のような形にひび割れていて、ところどころは鉄筋がむき出しになっていた。扉を開けると、臭気のこもった生ぬるい空気が流れてくる。強いアンモニア臭と、カビの混ざったような独特の空気。腐った生ゴミの臭い。雨に濡れた野生動物の臭い。
初めてゾウヘイキョク当番が回ってきた日は、全員がその日の給食をすべて吐き出してしまう有様だった。湿気は水滴となって肌に貼りついてくる。換気システムが作動し、低いモーター音が響く。
十二畳程度の部屋は、錆びきった鉄製の檻によって六畳ずつに仕切られており、扉側のスペース――アヤノたちが今いる場所――にはケジメの採集に使用する用具や掃除道具が収納されたロッカーと、理科室にあるスチール天板の作業台が置かれている。
もう片方はエンコさんの飼育部屋だ。藁が分厚く敷かれた寝床、排泄用の下水穴、餌皿があり、そして、たいていは部屋の中心にエンコさんが座っている。
二メートル以上の体は土色とも紫色ともつかないまだら模様の皮膚に覆われている。全身の血管が浮き出て、葉脈のように透けて見える。肥大した脂肪は分厚い壁のようで、皮膚は常にぬるぬると湿っぽい。極端に曲がった背中には、グロテスクな絵がびっしりと彫り込まれていた。
毎年、卒業生から代表が選ばれ、彼の皮膚に五センチ四方の柄を彫り込む。課題は毎年変更されるが、たいていは聖書からの引用らしい。信心深くもなく、絵心も持ち合わせていないアヤノには、それぞれの図柄が何を表現しているのかすら理解できないのだが。
ケジメの採集は、清潔なノミと金槌を使用する。きちんと消毒作業をしないと肉がぐずぐずに腐り落ちてしまうのだ。
エンコさんの腕は、大抵は肩から二本、腰から二本ずつ生えている。一本の腕からは、枝分かれした二十本のケジメが採集できる。ケジメの根本をテグスできつく縛って、表面が変色してきたら第二関節から先を落とす。コツは勢いよく金槌を振り落とすことだ。少しでも躊躇すると、切り口が歪んで、通貨としての価値を失ってしまう。
「ノミは任せろ」
研ぎ終わったノミをアヤノの手から奪い去ったのはタクミだった。タクミはいつも採集作業をやりたがる。実際、この班で一番手慣れているのも彼だったので、任せることにしている。
ダン。
ぽとり。
ダン。
ぽとり。
ほかの二人は、ロケット花火のようにあちこち飛んでいくケジメを拾っていた。拾ったケジメは爪の間まできれいに洗いながして血を抜く。触った感触は、シリコン製の人形とそれほど変わらない。
ケジメは一週間かけて再生するので、腕を一日一本ぶん――ケジメにして二十本――の処理をする。四日間かけて、合計八十本のケジメが採集できる計算だ。
最終日は清掃作業をおこなう。
寝床に敷かれていた藁をピッチフォークでかきだし、ホースの水と洗剤を流しながら、デッキブラシで床をこする。新しい藁と交換したら完了だ。古い藁はエレベーターに乗せて、焼却炉に送る。焼却炉の操作は上級生の担当だった。
「メンドくさいから、藁はそのままでいいんじゃねー? どうせバレっこねーし。汗とか垢とか、触りたくねー」
ゲエッ、ゲエッ、と大げさに嘔気を催したふりを繰り返すタクミに、ヒロシは非難的な視線を浴びせた。
「まず藁をよせなければ他の掃除ができないでしょう。第一、彼は清潔な環境でないと弱ってしまいます。」
「それに、サボったらバレるし。次の班の子が困るよ」
口先ではヒロシに同調していたが、アヤノも内心では汚い藁の交換なんてまっぴらだった。服に汚れがついて、臭いも一日中つきまとう。家の洗濯機を使うわけにもいかないので、ゾウヘイキョク当番で着た服はいつもコインランドリーに持ち込むことになっている。おそらく、ほかの家も同じようにしているだろう。ヒロシに目配せをすると、彼は心底嫌そうな表情をしてみせたのち、しぶしぶとうなずいた。
「……今日は僕がやりますけど、次回はお二人が担当してください。そもそも一人でやる作業ではないのですが」
「さすがヒロシ! 俺が見込んだだけはあるぜ。」
「こういうときだけ調子がいいのでは困ります。そちらは彼をおさえていてください」
「りょうかーい」
藁をかきだしている間は、エンコさんを拘束することになっている。エンコさんを刺激しないよう、檻の隙間からゆっくりとさすまたを押し込む。いたずらに挑発さえしなければ、たいていはおとなしく壁際に寄って目を閉じ、掃除が終わるのを待っている。さすまたは特殊な素材でできているらしく、エンコさんにとって鎮静作用のある成分が染み出してくるのだという。
「なあ。ちょっとだけ驚かせてやろうぜ。あいつ、どんな顔するかな」
タクミはせっせと藁をかきだしているヒロシを顎で指して、ニヤニヤと低俗な笑みを浮かべた。
「余計なことはしないで」
アヤノは、農業用の手押し車に載せられた藁を運搬しながら、不機嫌に答える。何をするつもりかは知らないが、どうせろくなことじゃないだろう。
エレベーターに藁を放り込んでいると、Cー4の部屋から悲鳴が聞こえてくる。あーあ、面倒くさい。アヤノは乱暴にエレベーターの「閉」ボタンを殴り、ことさらに大きな足音を立てて現場に向かった。
鉄の臭いに息をつまらせる。
生ぬるい血液があたり一面を濡らしていて、その中心にはヒロシがうずくまっている。ハンドバッグの持ち手みたいにはみ出した大腸、たぶん横行結腸あたり、が垂れ下がっていた。
エンコさんは興奮して、ヒロシの頭部を踏みつけている。鈍い音が響いているので、頭蓋骨はまだかろうじて割れていないのだろう。
「どうしよう……」
呆然と立ち尽くしているタクミが、哀れっぽい目でアヤノを見る。
「さすまたをさあ。ちょっと外してみただけなんだよ。そしたら急にエンコさんが。悪くないよな、俺」
「悪いに決まってるじゃん。アンタのせいで私までケジメつけなきゃいけないんだから。あーあ。最悪」
「俺……」
タクミの言葉を遮るように、床に落ちたさすまたを拾い上げ、ゆっくりとエンコさんに近づける。エンコさんはゆっくりと目を閉じて、壁際に座り込んだ。 くっちゃくっちゃと音を立て、何かを咀嚼している。
「いいからヒロシを回収しなよ」
「わ、わかった」
タクミはうなずくと、おずおずとエンコさんの檻に入り、動かなくなったヒロシを抱えて戻ってくる。
粉々に割れたメガネはまぶたを貫いて眼球に刺さっているようだった。肋骨は折れて皮膚から飛び出していた。同じ班だったミキは、口唇を掴んで上下に引き裂かれていたので、ヒロシのほうが幾分、ましな状態とも言える。
「アンタだって歯を折られたのに、学習しないんだね」
ほとほと嫌になってしまった。今までアヤノがこつこつと貯めていたケジメは、連帯責任を負わされて全て帳消しになるだろう。コルネットの大会選抜メンバー権が買えると思っていたのに。
「ごめん……」
おそらくタクミは、在学中のすべてをケジメの返済に追われることになる。血まみれでうなだれている横顔を見て、すこし哀れに思った。
ゾウヘイキョク当番 環境 @lotus_
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