第27話

 彼は、ビルに入ってすぐ非常ボタンを押した。今度は、爆発しない。


「ビルが危ない。すぐ外に出て」


 そう叫んで回った。わたしは、彼の隣に立って、ビルの部屋を先導して回った。本当に彼は、今の記憶がうまく思い出せないようだった。エレベーターの位置も彼は知らない。


 そんな彼が。


 立ち止まった。


 窓際のある、あの場所。事故の。


 彼女が、いた。


「このビルは倒壊する。すぐに逃げろ」


「そうするわ。私には、恋人がいるもの。新しいね」


「そうか。幸せになれよ」


 何か言いかけた彼女が、口をつぐんだ。

 分かってしまった。わたしも、同じことを言おうとして、言えなかったから。


 しなないで。


 言いたいけど、言えない。言う資格がない。


 彼女が、去っていく。


 彼が、奥のコンクリートまで歩いていって。

 近くの防火設備をこじ開けて、ホースを。


「やっぱりだ」


 勢いよく水をかけられたコンクリートの煤が、取れて。

 ひびが、出てきた。

 みしみし言っている。


「地震、って言ってたな。そういえば」


 震度1か2の、地震。たしかにそう言っていた。


「地震じゃなくて、このビル自体が揺れてたんだ。このひびのせいで。ほんの少しずつ。おそらく、震度0で。ずっと」


 そして、いま。


 崩れようとしている。


「ララーニア」


 言葉が、出てこない。


「ここから離れろ」


 こんなときなのに。


「俺のことはいいから。このビルから出ろ」


 言葉が。


「俺の死に場所だ。ちょうどいいや」


 言葉が出てこない。


「近づくな」


 冷ややかで、それでいて、絶対に他を寄せ付けない、冷静な声。


「これ以上俺に近づくな。早くここからいなくなってくれ」


 話せない。


 言葉が、出てこない。


 今までなんとも思ってこなかった、この性質が。とても憎い。

 憎い?

 喋れたとして。

 彼の決意を。

 しにたいという思いを。

 変えることなんてできない。

 変えるほどの何かを、わたしは。もっていなかった。


「わたし。わたしは」


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