君が為の世界

織田遥希

君が為の世界

「美雪、お願い」


 お嬢様の可愛らしい口から与えられるこの言葉が、私の生きる意味だった。

 甘美で、未熟で、どこか扇情的な私とお嬢様の為だけに在る言葉。


「かしこまりました」


 恍惚とした感情とは裏腹に、私は畏まったお辞儀をして作業に取り掛かる。

 この世界を、お嬢様にとってより心地よいものとするために。




 ある日の夜。

 夕食からお戻りになられたお嬢様は、どこか悲しげに眉尻を下げていた。


「お嬢様……」


 私が出過ぎた質問をするより先に、お嬢様は私を見据え小さく、されど大きなひと言を放った。


「好きよ。美雪」


「……え」


 その言葉はあまりに唐突で。

 使用人にあるまじき、返答にもならない素っ頓狂な反射を返してしまった。

 しかしお嬢様は私を叱責することもなく静かに微笑みを浮かべる。

 窓から射し込む月光に照らされた表情は綺麗というより他なく、普段のお嬢様よりもどこか大人びているように思えた。


「結婚することになったの。だから、どうしても伝えておきたくて……困らせてしまってごめんなさいね」


 その言葉は私を、混乱の渦の更に奥底へと誘う。


——お嬢様が、結婚?


 あまりの衝撃に声も出なかった。


——なんで? どうして? 早すぎるのでは。


 色々な思考が頭で交錯し、目眩で視界が揺れる。

 そんな状況下でも、幼い頃から使用人として躾られてきた脳は利口で。私が口にすべき言葉を半自動的に弾き出してくれた。


「……いえ。その……おめでとう、ございます」


 乾ききった喉から、カラカラの言葉を無理矢理に絞り出す。

 とてもそんな気分じゃないけれど、口角はどうにか引き上げて。


「笑顔が引きつってるわよ、美雪」


「……っ。申し訳……ありません……」


 なんという失態だろう。

 喜ばしい主の結婚を自然な笑顔で祝福することもできないとは。

 だけどお嬢様は、そんな最低の使用人に優しく微笑んだ。


「いいの。私が愛しているのは美雪、貴女だもの。喜ばれる方が辛いわ」


 愛している、だなんて。

 お嬢様はズルい。

 どうしてこんな時に言うのですか。

 私だって、お嬢様の事を心より愛しているというのに。

 愛していると言っていただけて嬉しいのに。

 今はただ、哀しくて、哀しくて。

 なんて、言えるはずもない言葉を呑み込むことしか私にはできない。


「本当に、ごめんなさいね」


「謝られないでください。しかし……私は、使用人です。ですから……」


「そうね。どうすることも出来ない。わかってる……わかっているの。だけど」


 お嬢様が言葉を詰まらせる。

 それは、なにか迷い、苦しんでいるように、私の瞳に写った。


「お嬢様」


 呼びかけると、愛らしいお嬢様の潤んだ双眸が私を捉える。

 掛けるべき言葉は決まっていた。今度は絞り出すような言葉じゃない。私のまっすぐな本心だ。


「無礼な考えかもしれませんが……もしも私の為になにかを迷われているのであれば、そのような事にはどうか構わないでください」


 「だけど」という言葉が小さく、お嬢様の口からこぼれ落ちる。

 これは私の我儘だ。

 されどお嬢様が本心で望むのなら、その我儘を伝えることもきっとまた、従者としての務めなのだろう。

 だから。


「お嬢様の幸せが、私の幸せなのですから」


 だから、私はいつものように言い切ってみせた。紛れもない真実を。

 するとお嬢様の大きな瞳から、一筋の涙が頬を伝った。


「美雪ぃ……」


 幼い頃に転んで怪我をしてしまった時のような弱々しい声で、お嬢様が私の名前を呼ぶ。

 それはお嬢様の緊張の糸が緩んだ証拠で。気を抜けば、私ももらい泣きしてしまいそうだ。


「……お嬢様、なんなりと」


 泣かないように気を張ってそう返すと、お嬢様は流れる涙もそのままに、私の胸に飛び込んできた。


「美雪、お願い」


 お嬢様の美しいお顔が、胸元から私を見上げる。赤く充血しきった瞳は夕食の時から散々悩んだ証拠であった。

 誰がなんと言おうと、今からお嬢様が選択されることを私は尊重する。

 きっとそれが、それこそが私が使用人として生を受けた理由なのだ。

 お嬢様の小さな口が噛み締めるように、悔やむように続きの言葉を紡いだ。


「私をここから連れ出して……!」


「仰せのままに」


 私は縋り付くお嬢様を抱きしめる。

 愛する主人から命令を頂いた私に、恐れるものは最早ない。


「それでは早速、準備に取り掛かりましょう。まずは……」





 その日と次の日の境目の時刻。私とお嬢様は食堂の裏口から屋敷を抜け出した。


「街の外で私の知り合いが馬車を用意して待っています。そこまで行けば屋敷の者も追っては来れないでしょう」


「なんだか悪戯している時のようね。うふふ、昔を思い出すわ」


 人生の分岐点となる夜だというのに、お嬢様の言葉からは緊張感が感じられない。

 お嬢様に限って事の重大さを理解していないなどということは有り得ない。であれば恐らく己が気持ちを解す為か同行する私に配慮しての行いだろう。

 だから私はそれを諌めることなく、されど周囲への集中は切らさずに返答することにした。


「そうですね。幼少の頃のお嬢様は度々お屋敷を抜け出して、じいや様や我々使用人を困らせていました」


 なんて意地悪を言って見せると、お嬢様は眉尻を下げて困ったように笑う。

 そのお顔は何物にも替えがたい儚さを孕んでいたが、残念ながら今の状況ではじっくりとその表情を堪能することはできない。


「あの頃はとにかく美雪の気を引きたくって……ごめんなさいね?」


 ズルすぎるのではなかろうか。

 そんな事を言われてしまえば、私にもう為す術は無い。


「……反則です」


 頬を真赤に染めているであろう私を横目に、悪戯っぽくクスクス笑う。

 これだからお嬢様には敵わない。


「私、あの頃よりずっと幸せよ? 美雪に愛されてるってこと、分かるから」


 街の外を目前にして、私は足を止める。

 それはお嬢様の言葉を心に刻むため——ではなく。


「だからね、美雪」


 お嬢様の声が悲哀の色を帯びる。

 街の外へと続く道に、追手が立ちはだかっていたからだ。


「だから私……離れ離れでも大丈夫。貴女からの愛を胸に、きっと生きていけるわ」


「お嬢様、こちらへ!」


 私はお嬢様の言葉に耳を傾けながらも、追跡から逃れるようにその手を取って走り出した。

 背後からは、私達を見つけた追手たちの声が近づいてくる。


「なに諦めたようなことを仰られているのですか! 大丈夫です。私が必ずや貴女を護ってみせます!」


「美雪……」


 なんてカッコつけてみせたものの、このまま街の中を逃げ回るだけでは捕まるのも時間の問題だ。


——やはり、アレしかないか。


 私は決意を固め、追ってくる黒服達を見やる。

 元同僚の彼らには申し訳ないが少々痛い目にあってもらうとしよう。


「お嬢様、こっちです!」


 路地裏へとお嬢様を連れ込み、私はすぐさま策の準備を始める。


「さあ、お嬢様はこちらへ隠れてください」


 設置を完了し、他の路地へと続く家屋の細い隙間へと身を潜める。あとは上手くいくかどうか。


「こっちに行ったぞ! 追い詰めた!」


 追手たちの声が、絶望の足音が段々と近づいてくる。しかし彼らは理解していない。

 私達が追い詰められたのではない。


「誘い込まれたんだよ、君達がね」


「ここだ! 観念し……ぐおお!?」


 曲がり角を曲がってきた追手たちが次々と悲鳴を上げ引きがっていく。

 それもそのはず。彼らを待ち受けていたのは、角の先にビッシリと敷かれていた撒きビシだったのだ。

 夜の曲がり角の影に隠れた撒きビシは、影に紛れ視認が難しい。そのため、彼らは安易に踏み込む事もできないのだ。


「美雪、あなたあんな物持ってたの?」


「私はお嬢様の護衛でもありますから。いつ曲者が現れても対処できるようにしているのです」


 答えると、お嬢様のお顔が少し綻ぶ。


「そう……ありがとう、美雪」


 軽く頬を染めて笑いかけるお嬢様があまりに可愛らしくて、私は思わず目を逸らしてしまう。

 不敬な行為だとは分かっているが、見蕩れている場合でもないので今だけはお許しいただきたい。罰ならばあとで幾らでも受けますので。


「さて、奴らが足止めを喰らっているうちに行きましょう。このまま行けば街の外に出られるはずです」


 私は目を合わせることなくそう言って、狭い路地裏を歩き出した。




 細い屋根の隙間から、薄雲のかかった猫の爪のように細い三日月が見える。

 夜の帳が下りてもう長い。

 逃げ出すなら夜闇に紛れるのが好都合だ。できれば夜の間に街から離れたいところだ。


「もうすぐ街の外に出ます……もしかしたら追手がいるかもしれませんから、私の傍にいて下さいね」


「ええ。信じてるわ、美雪」


 お嬢様が私の裾をギュッと握る。

 早鐘を打とうとする心臓を強く押さえつけ、私は路地の外を確認する。

 一見、追手の姿は見当たらない。おそらく近くにはいないのだろう。

 行くなら今しか、ない。


「行きましょう。お嬢様」


 裾を握るお嬢様の小さな手を強く握り、私は人一人がどうにか通れる程の幅しかない路地裏から街の外へと繋がる道へ一歩を踏み出した。

 その時だった。


「お待ちくだされ」


 路地の死角から私達を引き止める声がした。

 その声は幼い頃より聞き慣れた、私達を育てた人の声で、私達は半ば無意識的に足を止める。


「……じいや様」


 できれば会いたくはなかった。

 私に使用人としてのいろはを教示して下さった親代わりのような人。彼はきっと、親不孝をする私達を見て悲しんでいるのだろう。


「夜分遅くに失礼致します……どうか、お考え直し下さい」


 じいや様は他の追手とは違い、お嬢様に対し落ち着いた口調で話しかけてくる。

 昔馴染みの使用人である彼だからこその引き止め方だ。


「お嬢様のご結婚はお家にとって大変重要な一大プロジェクトなのです。今後の発展を考えれば、避けては通れない道……この話が破談となれば、お家へのダメージは計り知れないでしょう」


 お嬢様が息を飲む。そうだ。私達が今やっている事は、今まで仕えてきたお家を裏切る行為。

 じいや様はその事実を改めてお嬢様に見せつけたのだ。


「だけど……」


 お嬢様は食い下がってみせるものの、顔は青ざめ、その声には明らかに動揺の色が浮かんでいた。


「じいや様! お嬢様はご結婚を望んではおられません! お家の繁栄の為に意志を犠牲にしろと仰るのですか!」


「その通りだ」


 私の反論をじいや様は否定することもなく両断する。

 使用人としての矜恃を持つ彼らしい鋭さを持った眼光は真っ直ぐに私を捉えていた。


「主人の間違いを正すことも従者の勤め。美雪、お前にもよく教えた筈だったのだがな」


 じいや様の矛先が私に向くと、お嬢様はハッとしたように私の前へと歩み出た。


「美雪は悪くないわ。私が美雪と一緒にいたいと言ったの。彼女は私に尽くしただけよ!」


 必死になって私を庇うお嬢様を見て、私の胸がチクリと痛む。それは違う、と。

 じいや様はどこか悲しげな瞳で私達を見やり、ゆっくりと言葉を続けた。


「……分かりました。そこまで美雪を気に入っているのであれば、お嬢様の嫁ぎ先にも美雪を連れて行けるよう、私からも打診しましょう」


——違う


「それは本当?」


——それは、違う


「ええ。ですから……」


「駄目です」


 じいや様が話し終わるのを待たず、私は断じる。

 もう、覚悟は決まっていた。


「……なんだと?」


 じいや様が冷徹な瞳で私を見据える。しかし私は怯まない。

 そうだ。今まで何を恐がっていたんだ、情けない。それでもお嬢様の従者か。お嬢様が勇気を出して気持ちを伝えてくれたというのに、私が逃げていてどうする!


「駄目だと言ったのです。お嬢様はお渡しできません」


「み、美雪?」


 困惑気味のお嬢様に軽く微笑んで、私は一歩前へと出る。矢面に立つべきは私だ。


「どういう意味だ」


 低く問うじいや様の視線に私も真っ直ぐ視線をぶつける。ここで引き下がるわけにはいかない。


「何処の馬の骨とも分からない男にお嬢様は譲れないと言ったのです。私だって……!」


 大きく息を吸って、吐く。

 緊張で、視界が僅かに白みがかる。されど意識は極彩色のように鮮明であった。


「私だってお嬢様を愛しています。誰にも何も渡したくない。お嬢様の全ては……私がいただきます!」


 言いきり、私は腰に隠し持っていた短剣を抜く。

 過去を斬り捨てる覚悟なら、いつだって出来ている。


「私達の恋路を邪魔するのであれば、じいや様であろうと容赦はしません」


「美雪……」


 背後からお嬢様の声が聞こえる。その声は美しく上擦り、震えていた。

 じいや様はなおも冷たく私を見ていたが、やがて折れたように深くため息を吐いた。


「後悔しないか」


「したっていいんです。ここでやらなきゃ、後悔じゃ済まない」


「……そうか」


 じいや様が私の前から退き、私達に道をあける。

 外への道は今、開かれた。


「行きなさい」


 促すじいや様の声は幼い頃に枕元で聞いた子守唄を歌う時の優しい声で、私は何も言わずお嬢様の手を取って歩き出した。


「美雪、お嬢様」


 前を横切る時、じいや様が小さな声で語りかけてくる。


「どうか、お幸せに」


「……はい」


「じいやもどうか……お元気でね」


 私は目は合わせずに、お嬢様は慈しむように答えて、私達は生まれ育った街を後にした。




 登り始めた朝日に照らされる草原を、一台の馬車が駆ける。

 きらめく朝の風がお嬢様の美しい髪を靡かせ、激動の夜の終わりを際立たせる。

 黄金にも似た光に照らされる美しい御姿を見ていると、この世界はお嬢様の為にあるのではないかとすら思えた。


「美雪」


 横顔をぼんやり眺めていると、その愛らしい唇が私の名を紡ぐ。

 私は夢心地な意識のままで「はい」と返事をしてお嬢様の鈴のような声に聞き入った。


「貴女、言ったわよね? 私の全てをいただくって」


「へっ」


 突然に先の発言を掘り返され、私の意識は一瞬にして飛び跳ねる。じゃじゃ馬の如く跳ね回る胸の鼓動がやけにうるさかった。


「あ、あれはそのですね……! なんというか……」


「だからね」


 慌てる私などお構い無しに、お嬢様は私に顔を近づけ——優しく口づけた。


「まずはファーストキスをあげるわ。これからもおねがいね。美雪」


「……はい。かしこまりました」

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