第20話 絶望、阿鼻叫喚、助っ人
初日の昼はサリーネだけだった。
初日の夜にはサリーネから話を聞いたという近所のオバサマ達がやってきた。
二日目の昼には近所のオバサマ達から聞いたという彼女達の旦那がやってきた。
二日目の夜にはオバサマ達の旦那から聞いたという同じ職場の面々がやってきた。
そして無料期間最終日の三日目の昼。
カーテンの隙間から店の外を見ている俺とマリーは、絶望していた。
「クラウスさん、どうしましょう」
「これは……まずいな」
こうなる可能性は考えていなかったわけではない。
が、あくまで可能性というレベルの話で、現実的にそうなるのではないか、という想定の元での考えなど勿論無かった。
いやぁ…だってなぁ?
「すごい……何人居るんでしょう」
「取り敢えずここから見えるだけでも30人くらいは居そうだな」
「……どうしましょう」
「どうもこうも……やるしかない、な」
二人の視線の先、走る子馬亭の前には、まだ開店前だというのに噂を聞いたのかずらりと人が集まっていた。
食事無料の宣伝効果は思いの外効きすぎていたようだ。
無料の期間を3日と宣言していたことも影響していそうだ。
正直に言えば、3日と期限を決めていたのはそれ以上やると流石に出費がかさみすぎてしまうのでそれが限度、というだけだったのだが、最終日だからという理由で来ている人もいるのではないだろうか。
よく見れば入り口近くで陣取っているのは近所のオバサマ集団だ。
再度のご来店ありがとうございます。
なにはともあれ、二人でなんとかするしか無い。するしか無いのだっ!
いや、無理だわこれ。
「こっち注文まだー?」
「少々お待ち下さい!!」
「料理来てないよー!」
「今調理中ですのでもう少し待ってください!」
「エールもタダにならないのか?」
「すみません!お食事だけです!」
「こっちも注文したいんだけどー」
「順番で伺います!」
圧倒的に人手が足りない。
シチューと豆のスープ、パンは作り置きが出来ているのでそれだけの注文であればなんとかなるのだが、パスタはマリーが作るし、香草焼きは俺が作る。
お互いに作れるものが別々のため、二人して厨房とテーブルとを行ったり来たりしている状況で、ハッキリ言って効率が悪い。
どちらでも同じ様に調理できるようにしておくべきだったと後悔しているが、今はそんな事を考えている暇などない。
しかも、今は昼なので酒の注文はほとんど無いのだが、これが夜になれば酒の注文も入ってくるだろう。
考えるだけで恐ろしい。
「クラウスさん!シチュー足りないかもしれないです!」
「まずいな。……仕方ない、香草焼きの注文は少し停止してマリーは厨房を頼む。並行してシチューを仕込んでくれ。給仕は俺が担当する」
「わ、わかりました!」
俺の香草焼きも中々の仕上がりになったと自負しているだけに、提供できなくなるのは残念なところだが、マリーのシチューの方が圧倒的に出るんだから仕方ない。
べ、別に悔しくないぞ!
「おいあんちゃん、こっちの注文まだか?」
「いま伺います!」
とにかく、今は余計なことを考えている暇などない。
無心だ、無心になって注文を取り、料理を運ぶのだ。
と、覚悟を決めたところで、今日何度目になるかもはや数えていないドアベルの音が鳴る。
「話を聞いて来てみれば……すごいですわね」
店内を見回して呆気にとられている艷やかな赤髪の女性。
「エリーか!すまん、今は手が離せない。後でいいか?」
おおかた店の状況を見に来たとか、そういったところだろう。
気にかけてくれている、ということなのだろうからありがたいのだが、残念ながら今はエリーに構っている余裕はない。
せめて客が半分になるか、もうひとりくらい店員がいれば違うのだが……。
俺が走り回っている中、エリーは店の中をキョロキョロと見回しているようだ。
「店員は他におりませんの?」
「居るわけ無いだろうが!――あぁすみません、もうすぐ出せると思うのでちょっとお待ち下さい。すまんがこんな状況だ、出直してくれ」
エリーには悪いが、このまま店に居座られるだけでは邪魔なだけだ。
どうせなら手伝ってくれてもいいんだぞ、といいたくなる程の状況なんだ。頼むから用事は後にしてほしい。
「全く、仕方ありませんわね……」
そう言うとスタスタと厨房へと歩き出すエリー。
いや、待ってくれ。忙しいのはマリーも一緒なんだが。
止めようと思った矢先に違うテーブルから注文が入る。
あぁもう、頼むから余計な事はしないでくれよ!
「えっ、エリーさん?あ、ちょっ、それ何処に持っていくんですかぁ!?」
厨房からマリーの悲鳴にも似た声が響き渡る。
あぁぁぁ、何やらかしてくれてんだぁぁぁ。
タダでさえ混乱してる状況で余計なことしてもおおおおおお!!
もう全てを投げ出してこの場で頭を抱えてしゃがみ込みたい衝動に駆られる。
そんな事を考えていると、厨房からシチューの入った大鍋を抱えたエリーが出てきた。
何をするのかと思いきや、暖炉の前にその大鍋をドスン、と置くと、たいそうご立派な胸を張り高らかに宣言する。
「シチューが欲しい方は注文はいりませんので、こちらから自由にお取りなさい!」
その宣言に、店内がシン、と静まる。
えぇぇ……。
いくらなんでもそれは……。
……いや、有りだな。
どちらにせよ食事は無料なんだ。この際好きに取っていって貰えれば注文を取る手間も運ぶ手間も省ける。
他に給仕を雇っている場合はチップの関係があるので注文を取りにいかないというのは難しいが、俺とマリーしか居ないのでチップは取らない事にしている。
であれば、その方が断然楽だ。
……伊達にでかい酒場の店主をしているわけではないということか。
「パンも一緒に置いておきますのでご自由にどうぞ!」
ならば乗るしか無い。
エリー便乗して俺も声を上げる。
エリーの宣言に困惑していた様子の客だったが、店員の俺が声を上げたことでそれでいいんだ、という空気が漂い始める。
客の一人が席を立ちシチュー鍋の前へと出ると、チラリとこちらを見る。
「えっと……好きに盛っていいって事だよな?」
「はい、ご自由にどうぞ。あぁでも、食べ切れる程度にしてくださいよ」
大量の皿とスプーンを持ってきてそう応えると、恐る恐るといった様子でシチューを皿に盛り付ける客。
食事に来て自分で盛り付けるなんて経験は初だろう。
俺も経験したこと無い。
皿の半分程盛ると、こちらをチラチラと見やる。
うん、確かに普段提供する場合は大体そんなもんだ。
だがここで口を出してしまっては折角の空気が台無しになる。
ここは多少の出費には目を瞑って好きにやらせるほかない。
どうぞどうぞと言うように仕草をすると、もう1杯、2杯と盛り付ける客。
……いくらなんでも盛りすぎじゃないか?溢れそうだぞ。
いやまぁ、全部食べきってくれるなら文句は言わん。
好きにしてくれと言い出したのは俺……ではなくエリーだが、それに乗ったのは俺だし。
シチューを持った客が零れそうなそれを恐る恐るテーブルまで運び、それに口をつけると、驚いたような顔をし、一心不乱に食べ始める。
その姿を見た他の客も一人、二人と立ち始め、気づけばシチュー鍋の前には行列が出来ていた。
これはあっという間に無くなりそうだな。
「シチュー以外の方が居ましたら注文うけますよ!」
「それじゃこっちにパスタをくれ」
「こっち、鶏の香草焼き」
一先ず一番人気だったシチューを気にしなくて良くなったのは大きい。
あちこちで手を挙げられていた注文待ちが一気に減った。
これくらいだったらなんとかなるか。
いや、夜になれば酒が入る。かなり厳しい。
せめて後一人いてくれればなんとかなるんだが……。
「クラウスさん、パスタ2人前できました」
とにかく今は目の前の料理を運ぶしか無い。
カウンターに並べられたパスタの皿を取ろうと手を伸ばしたところで、スッと横から伸びる手がそれを掻っ攫った。
「どこのテーブルですの?」
「エ、エリー?」
「人手、足りてないんでしょう?今日だけ特別に手伝って差し上げますわ」
「流石にそれは……いや、頼む。正直二人でどうにかなるとは思えん」
「任せなさいな」
そう言うと、両手にパスタの皿を持ちながら狭いテーブルの間をスイスイと縫うように抜けていくエリー。
「誰かと思えば穴熊亭のねーちゃんじゃねぇか。手伝いなんかしちまって、客取られてもしらねぇぞ?」
「あら、この程度ではわたくしの店はびくともしませんわよ。それに、ライバルは強い方が燃えるじゃありませんの」
「ちげぇねぇ!」
少々ガラの悪い客に絡まれているがその対応も手慣れたものだ。
うん、正直見くびっていた。
酒場の店主という話ではあったが、経営側にのみ専念しているのだと思っていた。
あの調子ならば給仕は彼女に任せてしまってもいいだろう。
いそいそと厨房に戻ると、シチューの仕込み中のマリーが心配そうにこちらを見てくる。
「えと、どうなってるんですか?」
「あぁ、シチューとパンは自由に取ってもらう事にした。すぐに無くなりそうだからシチューの追加を早めに頼む」
「エリーさんは?」
「給仕の方を手伝ってくれている。あの調子なら大丈夫だろうから、俺達は調理に専念しよう」
「エリーさんが……」
そうポツリとつぶやくマリーは少し複雑そうな顔をしている。
おおかた、手伝って貰える事は嬉しいが、迷惑をかけているんじゃないかと心配している、といったところだろうか。
二人のギクシャクした関係を直すにはまだ時間が掛かりそうだが、それでも1歩を踏み出すことは出来たかもしれない。
「鶏の香草焼き、追加で2つですわ」
「あぁ、分かった!」
カウンターの外から聞こえてくるエリーの声に、とにかく調理に取り掛かろうと、腕をまくった。
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