人魚の蒼い海

 「父上。」

 精悍な若者が、笑顔を見せロナウに歩み寄る。

 ロナウの義理の息子アランだ。

 今日はアランの戴冠式だった。



フリーシアを失ってから30年の月日が流れた。

 ロナウが玉座に就いた頃は、残虐王、冷酷王などと呼ばれ忌避されたが、体制が安定すると、手の平を返したように賢王と呼ばれ持て囃された。

 勝手なものだ。

 安定したと言っても、表面上のことだけで、あちらこちらに火種は多く残っている。

 平和とは言い難い。

 見せかけだけだ。

 ただ戦争が無くなって、飢えることが無くなった。

 それで平和と誇る人間の愚鈍さに、辟易する。

 問題は水面下に沈み、燻り、目に見えない暴力となって、弱者を苦しめている。

  長い歴史の中での戦争や虐待等に拠って根付いた価値観は容易に変わらず、人々は只その場限りの綺麗事に酔いしれるだけで、ものを考える事をしなくなった。

 苦痛や罪悪感などの現実に蓋をして、真面目で正直な者が喰いものにされ、現状が保たれている状態だ。

 平和だと人々は持て囃しているが、こんな状況はそう長くは保たないだろうと憂慮している。

 それなのに、アランに王位を譲ろうというのは酷な事だと思う。

 年老いて、皺の入った己の手を見る。

 しかしロナウはもう、身も心も限界だった。

 一人でこの世界を支えるのは、疲れ果ててしまった。

 済まないという言葉を飲み込み、ロナウはアランに王冠を被せた。


 「父上の名に恥じぬ様、務めて参りたいと思います。」


 ロナウは生涯フリーシアだけと心に決めていたので、王妃が居ない為、養子を迎えた。

 ロナウがアランの親を排斥した為、随分恨まれていることだろうが、城下ではお祭り男などと親しまれているらしい。

 勝手かもしれないが、上手くやってくれたらいいと願っている。

 「宜しく頼む。」

 アランは晴れやかな笑顔を見せた。


 戴冠式が終わり、アランに皆の意識が集中したのを見計らって、ロナウは城を抜け出した。

 海に向かって馬を駆る。

 30年前もこうして、馬を駆った。

 冷たくなったフリーシアを抱きしめて。

 あの頃はまだ可能性を信じていられた。

 だが、長く生きる内、望み通りに事が運ぶ事等皆無だと、思い知らされた。

 あの頃は必死で夢中で、フリーシアの事ばかり考えていた。

 今だってそうだ。

 だが。


 「魔女!魔女は居るか!使命は果たした!約束だ!フリーシアに会わせてくれ!」

 海は凪ぎ、何の返答も無い。


 「は、ははは…」

 乾いた笑いが込み上げる。

 何処かで分かっていた。

 魔女は約束していない。 

 何も明言した訳では無かった。


 「フリーシア。今、会いに行くよ。」

 ロナウは海に入る。

 若い頃の様に、望みが叶うのだと信じられない。

 もう、二度と会える事は無いのだろうと思っていた。

 それでも構わない。

 「君の居ない人生は酷く虚しかった。もう耐えられない。終にしたい…」

 大きな波がロナウの身体を浚う。

 ロナウは虚空を見つめ微笑む。

 「やっと、君と一つになれる。フリーシア。」


 嘗ての様にロナウの身体は、昏い海に沈んだ。


 その昏い海に再び光が現れる。

 嘗てより一層眩い光を伴って。


 ロナウはその姿を認めると、驚きの余り海水を飲み込んだ。

 フリーシアは慌ててロナウを助けると、咳き込むロナウの背中を擦った。


 「フリーシア?!本当にフリーシアなのか?!」

 勢い余ってフリーシアの肩を掴み、揺さぶった。

 フリーシアは目を丸くしたが、落ち着きを取り戻すと、満面の笑みを見せた。


 「はい!ロナウ様。」

 「どうして…?」

 「お母様がご褒美だって…」

 それを聞くと、ロナウは力一杯フリーシアを抱きしめた。

 「ああ、そうか!そうか!俺は試練に勝てたのだな!魔女のお眼鏡に叶ったのか!魔女は約束を守った!なんと喜ばしい!」

 興奮冷めやらぬまま、ロナウはフリーシアを見詰める。

 「君は美しいな。初めて会った頃と少しも変わらない。俺は随分と年老いてしまった。」

 「この海の様な、蒼い瞳は少しも変わりません。」

 「俺は全てを失ってしまった。こんな俺でも共に居てくれるだろうか。」

 「はい!喜んで。」


 ロナウがフリーシアに口付けると、七色の光が二人を包み込んだ。

 「な、何だ?」

 驚く二人を他所に、光が収まると辺りは静寂を取り戻す。

 

 「フリーシア、足が…!」

 フリーシアの下半身が、人間の足に変わっていた。


 「ロナウ様、お顔が…」

 「顔?」

 ロナウは自分の顔を擦ってみるが、皺が無くなり滑らかになっている様だ。

 手の皺が消え、白髪が銀髪になっている。

 「何だこれは?」

 「お母様が贈り物だって…」

 耳を澄ませてフリーシアが言う。

 フリーシアには魔女の声が聞こえているのだろうか。

 「魔女め、憎いことを…」

 ロナウは口の端を上げて笑うと、フリーシアの手を取った。

 「これで、君と過ごせる時間が増えた…君は嫌なのか?」

 予想に反してフリーシアの顔は暗い。

 「ロナウ様は遠い方でした。言葉を交わす事も、姿を見ることも叶いませんでした。全てを失った貴方なら、私のものに出来ると思ったのです。私は浅ましいのです。」

 ロナウは骨が折れる程強く、フリーシアを抱きしめた。

 「嬉しいよ!そんな風に思ってくれるなんて!この俺の全てを、この命さえ君に捧げよう。」

 ロナウは生まれて初めての感覚を味わった。

 世界に色がついた、そんなものは作り話だと思っていた。

 しかし、本当に今まで単色の世界にいたかのように、景色に鮮やかな色がついた。

 空と自分を隔てるものなど無いのに、どうして孤独だなどと思っていたのか。

 やっと息を吹き返す事が出来た、生きているのだと実感出来る。

 生まれ変わったのでは無く、今やっと誕生出来たのだと心が震えた。

 ロナウの頬を涙が伝う。

 「フリーシア。愛している。」



 「父上!」

 「アラン?どうしてここに?」

 城に居る筈のアランが、大きく手を振りながら、衣服が濡れるのも厭わずロナウの方へ向かって来た。 

 ロナウ達が岸に上がると、アランがフリーシアの手を取り、口付けた。

 「はじめまして、母上。息子のアランです。」

 にっこり微笑むアランを、ロナウは驚きをもって見詰めた。

 「アラン、どうして…?俺を恨んでいたのではないのか?」

 「それは、子供の頃の話ですよ、敬愛なる父上。もう、恨んでなどいません。いつまでも子供じゃありませんから。それにしても見違えました。人魚の魔法でしょうか?俺より若くなってしまいましたね。」

 口に手を当てて苦笑すると、後ろを振り向く。

 「それよりも…」

 「ヴァレリー…」

 ロナウは親友の名を呼んだ。


 「よくぞ、ご無事で。」

 30年前と同じ様に、ロナウを出迎えてくれた。

 「ヴァレリー。」

 ロナウは一度言葉を切ってから意を決した。

 「俺はお前に謝らねばならない事がある。」

 それを聞いたヴァレリーは苦しそうに、ぎゅっと眉根を寄せた。

 「30年間言えずにいた。フリーシアを失った悲しみに耐えられなかったんだ。フリーシアと離れたのは、お前のせいなのだと己の苦痛を紛らわせていた。お前には随分無理をさせた。済まなかった。」

 「…いいえ、いいえ!陛下と歩んだ日々は有意義なものでした。実りある人生となったことを感謝しています。」

 ヴァレリーは、頭を垂れた。

 ヴァレリーの目尻に光るものがあったが、ロナウは気付かない振りをした。

 「そう言って貰えて良かった。フリーシアに再会して、やっと謝れるとは自分の狭量さに呆れる。これからも変わらず手助けして欲しい。」

 「そうですね。ではご婦人を何時までも濡れたまま立たせておく訳にはいかないでしょう。どうぞ、お手を。」

 ヴァレリーがフリーシアの手を取り、馬車にエスコートする。

 「こちらの方面では、いくら若返ったといっても、貴方に負ける訳にはいきませんから。」

 アランが大笑いして、続いて馬車に乗り込み切り出した。

 「では、俺は泉の近くに屋敷を建てて母上に贈りましょうか。きっと朴念仁の父上に母上は苦労するでしょうから!」

 馬車の中は笑いに包まれ、ロナウとフリーシアは視線を交わし、微笑んだ。

 




 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る