第33話 失っていた記憶

 遠い記憶だ。私がまだ、幼い子供だった時の話。

 魔力も無ければ物覚えも悪い私は、今日も先生に怒鳴られて泣いていた。悲しくて情けなかった。なんで自分はこんなにできない子なんだと、惨めで仕方がなかった。

 そして、それを誰にも相談できないでいたのである。言えばまたその人にも怒られてしまうと、そう思い込んでいたから。

「大丈夫?」

 だから、綺麗なエメラルド色の目をした男の子に話しかけられた時も。

「もひゃー!」

「もひゃ?」

「なんでも! なんでもないのよ! 泣いてないのよ!」

 謎の雄叫びを上げ、私は顔を両手で覆っていた。

「……君は、だれ?」

「ロマ……いえっ! なぞの人物!」

「そっか、なぞなのか」

「ぜったいお姫さまとかじゃないから!」

「なるほど、お姫様でもないと」

 当時、お城の庭園の壁の一部に小さな穴が空いていて、悲しいことがあればいつも私はそこから外に出て隠れて泣いていたのである。こうすれば、お城の人には泣いてる所を見られなくて済むからだ。

 だけど、街の子に見つかるとは予想外。ギリギリお姫様としての矜持もあった私は、顔を隠したまま乗り切ろうとしていた。

「……泣いてるよね?」

「ないてないのよ!」

「でも顔ぐしゃぐしゃだよ。ハンカチいる?」

「いらないのよ! 姫たるもの、ハンカチはいつももってるもの!」

「姫?」

「あ、姫じゃないんだった! えっと……じゃあハンカチ姫! それも姫か。えーと、えーと……!」

「……ふふ」

 男の子は優しく笑うと、私にハンカチを差し出してくれた。綺麗な刺繍が施された、白色のハンカチだった。

「あげる」

「でも、姫は、たみからのほどこしを受けちゃだめなの」

「じゃあ受け取れると思うけど」

「そっか、わたし姫じゃないんだった。ほどこしありがとうございます」

「うん」

 男の子の言葉に納得した私は、ハンカチを受け取った。でも、ダメだった。せっかく涙を拭っても、後から後から出てきていた。

 なんということ。姫なのに自分で涙を止めることもできないなんて。やっぱり、私はダメダメな――。

「……泣かないで」

 けれどふいに温かいものが髪に触れて、私のネガティブな思考は止まった。男の子は、ぎこちなく私の頭を撫でてくれていた。

「ぼくで良かったら、話を聞かせてくれない?」

「で、でも……」

「でも?」

「……おこらない?」

「なんで?」

「……」

「ぼくは、君に泣かないでほしい」

 お日様の光に似た髪が、揺れる。エメラルドの瞳が、柔らかく細まった。

 気づけば、私はその男の子に悲しかったことを全て話していた。途中から殆ど愚痴になっていたけど、男の子は全てうんうんと頷いて聞いてくれた。

 そして一通り話し終わったあと。彼は、とても真面目な目をして言った。

「わかった。それ、先生って人が悪いよ」

「え……先生が? なんで? できてないのは私なのに」

「やったことないなら、なかなかできないのって当然じゃない?」

「……」

 ほんとだ。そう思ったことを覚えている。

「それでも急いでできるようにさせたいのなら、その分先生が君に時間を割いて適切な教え方を考えるべきだよ。なのに君を怒って泣かせるなんて、非効率的きわまりない。控えめに言ってド低脳ファッキンクソ野郎だね」

「どて……? あなた、たくさんむずかしいコトバを知ってるのね」

「とにかく、君は泣くんじゃなくて怒るべきだ。君はそんなことをされていい人じゃないと思う」

 男の子の言葉に、私は顔を上げてじっと彼の目を見ていた。……優しいお兄さんだ。私は嬉しくなってきて、ふへっと笑った。

 すると男の子は、キョトンと目を丸くした。その頬は、みるみるうちに赤くなって……。

「……ま、まあ、嫌なことがあったら、またここに来るといいよ」

 フイと顔を逸らされた。

「晴れた日なら大抵ここを通るから。そいつをやっつける手立てぐらい、考えてあげられると思う」

「なぐさめてくれるんじゃなくて?」

「理不尽とは戦おう」

「たたかう」

「手始めに、泣きたい気持ちにならないことが大切だね。そのためには自分で武器を持つ必要がある。武器といっても、物理的な話じゃないよ。精神的なもの……例えば、先生の弱点を握るとか」

「じゃくてんを……」

「幸い、君の立場は姫という強大なものだ。恐らく先生は君の性格につけ込んで今の態度を取っていると思われるから、そこを逆手にとって証拠を押さえることさえできれば――」

 この日を境に、私のメンタルはメキメキと強くなった。理不尽とは戦う意志を持つ。そのためには相手の弱点を見極める。男の子の言葉に励まされ、私はいつしかあれほど怖かった先生相手に、(物理的に)噛み付けるまでになっていた。

 それでも、必ず別れは訪れるものである。壁が直されると分かったその日、彼は私の手を取って言った。

「ぼくは、必ずサンジュエル国の騎士になる」

 あの時よりも少しだけ背は高くなっていたけれど、エメラルドの瞳は変わらない。

「そうしたら、今よりもっと近くで君を守れるようになる。先生とやらも直接ぶちのめせる」

「だいじょうぶ! わたし、もう先生にはかみつけるよ!」

「まだだ。まだ奴は叩ける」

「“てっていてき”だなぁ」

「……でも、王族を守る騎士になるとなれば、長い時間がかかると思う」

 男の子は、寂しそうに目を伏せた。

「君はまだ小さいから、ぼくのことは忘れちゃうかもな」

「……?」

「ううん、忘れてもいい。ぼくがちゃんと覚えてて、君を守りに行く。約束するよ」

「やくそく!」

「うん、やくそく」

 両手を重ねて、おでこをくっつける。サンジュエル国の約束のしるしだ。

「……だからそれまで、泣かないで」

 男の子のほうが泣きそうな声だった。

「ぼく、君の笑った顔が好きなんだ」

 ――意識が真っ白な世界に戻ってくる。……そうだ。そうだった。なんで、私は忘れていたんだろう。あの時の助けてくれたことを。優しかった人のことを。

 ねぇヴィン。ごめんね。私はいっぱい泣いたし、心配もかけたと思う。

 でも、もう大丈夫だ。全部思い出した。目の前にある全てと、戦う覚悟ができた。

「――お久しぶりですね」

 現れたその人を、力の限り睨みつける。いつでも噛み付けるように。いつでも戦えるように。

「もっとも、あなたは全く変わりませんが。……ねぇ、ロマーナ姫」

 豪華な椅子に座って私を見下ろしていたのは、死んだと思われていたはずの人――イリュラ・ムンストン先生だった。

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