第二話 山吹色の雲母
産まれた瞬間、否、母となる者が命を宿したことが判明した時点から、生き方はある程度定まってしまう。
取捨選択の余地はなく、導かれるままに人生をやり過ごす。自由からは遠い日々を、まるで機械の歯車のように心臓の動きを繰り返すことだけだった。与えられた使命を果たすという結論に、今更誰も異を唱える者はいなかった。
「黄龍様に選ばれた、そなたはなんと素晴らしい子。」
母となったその者は、彼女の、
この子は黄龍様に選ばれし、特別な存在なのだと両手を上げ、歓喜を嚙み締めた。雨芽と名付けられた命は、母の手によりすくすくと育っていった。
「よいですか、そなたは選ばれし子。特別な務めと力を持つ。授かったものを、無下に扱うことは決してないように。」
道端を歩く人々となんら変わりない姿かたちをしているのに、絶対に普通というカテゴリーには属することが出来ないと知ったのは、彼女が十七歳を迎えた日であった。
「そなたの身には黄龍様がいらっしゃる。そなたは永遠に生き、四家を支えるべく、生きるのです。」
母に頭を撫でられ、にわかには信じがたいことを告げられた。彼女は、唖然としてしまった。一体何をこの人は言っているのだろうかと夢に見た内容でも話しているのではないかとすら思えた。彼女は腑抜けた表情を浮かべている筈なのに、目の前に居た自身の母は、瞳を潤ませながらも笑んでいた。それが真実を悟る何よりの証だと、彼女は子どもながらに分かってしまった。
「雨芽。そなたは黄龍様に選ばれし、はじまりの子。この一宮家にとって唯一無二であり、そなたは世界を護ることが出来るのですよ。はじまりの家、はじまりの子。そなたは、母にとって何よりの宝です。」
はじまりの家、一宮家。黄龍を身に宿し、これから巡る永遠にも似た時を、ずうっと生き続けなければいけない命。
一宮雨芽。
「そなたは素晴らしい。その命を、力を、どうか大切になさい。」
「おかあさま。」
母の手がしわがれたものとなり、骨の皮だけのようになってしまっても、彼女の容姿は十七歳の時から何も変わらなかった。蜜色の髪、黄金の瞳。陶器のような滑らかな肌と、どこかあどけなさの残る輪郭。母となった者は、布団に横たわり、静かに息を引き取った。
「おかあさま、どうか安らかに。」
黄龍に選ばれし子は不老不死を得る。ある程度の年齢に達すると、見た目の成長は止まり、肉体の衰えは一切無くなった。そうして、永い時を生き、現世に生まれし穢れを祓う者達の助けとなる。加護を与えること。はじまりの家に生まれる、選ばれし子が受け持つ定めであった。
「この宿命に自由など存在しない、有り得ない。」
皆、理解しているのだ。抗おうが、どれほど可能性を見出そうが、理から解放される手段など、何処にもないのだと。
母が亡くなり、それから随分と長い時間が過ぎ去った。今では朧気になった記憶が、ふと頭を過る。それは彼女を思い悩ませ、昔の屈託のない自身に戻れる解放感も併せ持っていた。飽き飽きするほど焦がれた自由を、諦め、忘れてしまったのはいつの頃だったろうかと、一宮雨芽は思った。
黄龍の力を受け、この世の穢れを祓う慈しみの子らを護ること。天命を全うするためには、あと何億の夜を超えなければならないのだろうか。
「綺麗な満月。」
何千回も見てきた満月は、どれほどの歳月を超えようとも変わらない温和な光を宿していた。雨芽は、月を見るのがとても好きだった。理由はもうとうに忘れてしまったが、きっと優しい理由だったような気はしていた。
彼女は、見た目こそ二十歳もしくは十七歳頃の若さを保っているが、年齢はとうに百を超えている。それは黄龍の力を受ける絶対的な証であり、苦しみでもあった。
不老不死、一宮家に隠された黄龍の加護を享受する者。人里離れた地で、限られた人間と共に暮らす日常は、彼女にとってある種の平穏であり、息の詰まる牢獄のようだ。
蜜色の髪、黄金の瞳。まるで、現世に生きる種族ではないかのように思えるほど、美しく、そしてどこまでも儚い身体のフォルム。
「あなたもそう思うでしょう。煉也。」
雨芽が振り向く先には、煉也の姿があった。
彼は暇さえあればこの地を訪れ、彼女と時間を共にする。それが、密かな楽しみであり、心の救いでもあった。四家の者でも、雨芽の元へは滅多なことが無い限り近寄ろうとはしない。それは彼女が嫌だとか、畏怖しているだとか、そういう個人の感情の話ではなかった。つまりもっと簡素で、物理的なものであった。
簡単だ。途轍もなく、遠い。ただそれだけだった。
「此処、近くなりませんかね。もっと。」
気怠そうに見当違いな返しをするが、雨芽は気にせず煉也に微笑みかけた。そして、月を眺めるのをすっぱりと止めると、煉也の前に座り、彼の頬にそっと指先を押し当てた。
「煉也、とてもひどいことを平気で言うわね。あなただって分かっているくせに。」
「それでもやっぱ交通費嵩みますし。」
「では来なければいい。私はあなたに此処に来てほしいとお願いした覚えなど一度もありません。」
「それも、分かって言ってるんでしょう。主君は、狡い。」
煉也がそっぽを向くと、雨芽は瞳を丸くして、そうしてクスクスと声を漏らした。月夜、黄龍の力を使役する者と、朱雀を宿すものが二人、一緒。畳の部屋には最低限度の調度品しか置かれていなかった。
「齢を重ねると知恵がつくの。嫌でもね。」
煉也はとても良い夜だと思えた。今日も彼女が笑顔を浮かべてくれたこと、それだけで心は満ちていくのだ。不思議な繋がりで、ある種の絶対的な関係性。いつまでも平行線をいくことを分かっていても、焦がれてしまう相手がいる。感情の正体が、恋愛なのか、全くそうではない愛情なのか、今の煉也にはさっぱり分からなかった。どうでよかったのだ。共に過ごせることだけで、構わない。どうせ自分は彼女を置いて、死んでしまう。それであれば曖昧で、名前の付けられない程度の距離感である方が、彼女の心を傷つけずに済むと思っていた。
龍司に居酒屋で聞かれたことを、ふと思い返した。積み重ねてきた時間と、その相手を失い、項垂れていた様は励ます言葉が見つからないほど淋しそうであった。
「それじゃあ、龍司のこと上手く励ましてくださいよ。」
「神崎がどうかしたの。」
「振られたんです、恋人に。」
「まぁ。」
煉也を通じたびたび耳にしていた雨芽は、龍司に可哀想だという同情の念を抱いた。眉を下げ、唇を尖らせる姿はあまりにも無邪気であった。
煉也は、彼女のこういった姿を見られることがとても嬉しく感じていた。何にも足枷のない、ありのままの彼女が自分の前に居てくれるからだ。
「二人共、上手くいっているものだとばかり。」
「ま、無理でしょうね。」
「どうして。」
「そんなの、分かるでしょ。」
家のことを、言ったんですよ。
煉也の言葉に、雨芽の表情がすっと音を立てずに失せていった。先程までの幼さは一切感じられず、瞳にはただただ曇った何かが湛えられていた。
「…オレらも、主君も。一生この牢獄の中に居る。家から、いや、身体にいる神獣に命を握られてるようなもの。」
「おやめなさい。」
語気を強めた雨芽の言葉は、煉也を黙らせるには十分過ぎるものであった。
それまで和やかだったはずの二人の間には、冷たい空気が流れていった。部屋には殺伐とした虚しさが、いっぱいに広がっていった。
「おっひさしぶり。フラれたんだってね、龍司。おつおつ。」
歯を見せて笑い、丁度いい塩梅に染まった銀色の胸下あたりまで伸びた髪を靡かせていた。
まんまるの大きな瞳、ぷっくりとした唇、つるりとハリのある肌、長い睫毛。アイボリーのニットとテラコッタのチュールスカートを履き、覗く足の爪にはボルドーのペデキュアが施されていた。
一見、女性にも思える
ヘーゼルの色をした瞳は、カラーコンタクトをせずとも可愛く自分を着飾れる要素になるので、彼としては好都合だ。
繞は、風見めぐりとして雑誌のモデルをはじめ舞台やドラマ、映画等に出演もしている。所謂、芸能人だった。
モデルも俳優も彼にとってかけがえのない居場所であり、自分の使命とは全く関係のない世界は新鮮で自由を感じられた。買い物に出かけている所を所属事務所の人にスカウトされ、不安と期待を半分に芸能界入りを決めた。
家の者は彼の決めたことを反対する素振りは一切無かった。あなたが好きなことをなるべくしなさい、と。彼の両親は快く承諾した。
「繞、いつの間にそのこと知って…。」
今日のリップカラーはブラウン寄りのレッドを選択した。自身が広告塔を務めるコスメブランドの口紅だ。着飾ることは繞にとっての楽しみでもあり、表立った自身の肩書きに最も必要なことであった。
龍司は、自分の生き方を貫く彼がとても凄いことだと感じていた。常に、彼自身が思い描く可愛さを追求し、そして、そんな姿を職業に生かしている。実に、ファンタスティックだ、と。
「へっへーん、アタシの情報網を舐めないでよね。」
繞、と呼ばれた彼は、龍司に向かってブイサインをしてみせた。
神田繞の言葉と仕草に、龍司は顔を顰め、疑心暗鬼で後ろを振り返った。だが、煉也は、ぼんやりとした表情でソファーに座っていた。決して龍司の方を見ようとしていない辺り、上の空といったところだろう。理由はなんとなく予想がついた為、龍司は、諦めて繞へと向き直り、がくりと項垂れてみせた。
「俺の味方ってどこにいんの。」
「え、此処にいるじゃーん。何言ってんの、龍司。」
「繞のその言葉、全然信用ならないんだけど。」
「すっごく失礼なんですけどぉ。アタシ、時間作ってちゃんと此処にも顔出してるっていうのに。」
東の青龍、西の白虎、南の朱雀、北の玄武。四神をその身に宿し、穢れを祓う者達は慈しみの子と呼ばれ、この現代の世界に於いても使命を賭している。龍司は青龍、煉也は朱雀。そして龍司に声を掛けた繞は、白虎を。
四家と呼ばれる彼らは定期的に集まり、互いの情報交換をしている報告会を開いていた。場所は決まって神崎家の一室であった。龍司が暮らす神崎家が四家のちょうど中間地点であるからだった。フローリングの床に、ソファーとテーブル。テレビやゲーム機器、各々が好む小説や漫画本がぎっしりと詰まった本棚。
報告会もはじめは生真面目にしていたが、時が経つにつれ、厳かな雰囲気は殆どなくなり、四人の座談会に近しいものとはなっていた。
龍司らはこの集まりをいたく気に入っていた。同じ境遇の者達しかいない空間は、なんとも言葉には表しがたい安心感に満ちていた。
「今日は三人だけ?」
煉也が溜息混じりに呟き、龍司がそうみたいだなと答えた。繞は煉也の隣に腰掛け、近くにあったクッションを抱いて頬を膨らませた。あからさまに不機嫌そうな表情だ。
「なんだぁ。折角、龍司の失恋慰めパーティーしようと思ってたのに。残念なんだけどぉ。」
「残念がるな!ていうかそんなパーティーやらんでいい。」
「そうそう。もうオレ被害に遭ってるから、巻き込まれたくないんだけど。」
「煉也、呼び出されたんだ。」
アハハハ、可哀想。クッションを強めに抱き、足をバタバタとさせながら笑っている繞。煉也は無表情のまま、宙を見ている。龍司は傷口に容赦なく塩を刷り込まれ、悶絶したい気持ちに駆られていた。
傍から見れば彼らは、ただの人間のようであった。送る日常も、表面だけを切り取れば、企業に就職し懸命に働き、私生活では恋愛に思い悩み、落ち込んだ気持ちを居酒屋で晴らそうとする一般人となんら変わらない。それでも、彼らには一般に属することは出来ない事情があり、生まれてから死ぬまで解放されることはないのだ。
「俺、やっぱ恋愛向いてないのかな。」
ぽつりと零れ落ちた言葉は、しっかりと二人にも届いていた。煉也と繞は顔を見合わせ、少しばかり反省をした。そして、銀色の髪がふわりと舞い、次の瞬間には龍司の頭をポンと軽く撫でる繞の手のひらがあった。
「向き不向きなんてないよ。ただちょっと、価値観が合わなかっただけ。龍司、ポジティブに生きていかなきゃ。ね。」
繞はヘーゼルの瞳を細め、口端をやんわりと持ち上げた。中性的な美しい顔立ちと相まって、彼の笑顔はさらに魅力を増している。不覚にも胸がときめきそうになった龍司はぶんぶんと頭を横に振り、繞の凄まじさを改めて実感すると共に揺らぎかけた自身の何かを必死に整えていく。
「め、繞ぅ。もうこの際、俺と結婚してくれ。」
「えぇ、やだ。」
繞にぎゅっと勢いよく抱き着き、泣いているのか震えた声で言った龍司の言葉は悉く拒否された。煉也はそんな二人のやり取りを眺めながら、阿保くさと呟き、ふたたび溜息を吐くのであった。
「へえ、居酒屋にいたんだぁ。」
「珍しいなと思ってさ。魔の連中が、大勢人がいる中で出来上がるなんて、あんま見たことなかったから。」
「たしかに。アタシ、一度も遭遇したことないかも。」
「そもそも繞は安易に居酒屋なんて行ける立場じゃないだろ。」
「またそういうこと言う。芸能人だってね、お出かけくらいします。」
午前一時、辺りは静寂に包まれていた。報告会という名の座談会は無事終了し、お互いの情報交換も出来た。夜の住宅街をズカズカと、わざとらしく足音を立てながら歩いていた。革靴にスニーカー、そしてブーツ。
臭い、と三人ともが思っていた。くさい。どんよりとした重怠い空気、頬を撫ぜる風のどろりとした気持ち悪さは、粘り気を強くしたスライムが張り付いているかのようだった。
通り過ぎる人は居らず、建物にも殆ど灯りは点っていない様子だ。月は欠け、星だか衛星だか判断がつかない白銀がちらほらと瞬いていた。
「繞が雑誌に載ってた時はビックリしたよ。な、煉也。」
「まぁ、でも。繞は出会った時から可愛らしかったし、綺麗だったじゃん。」
「え、そう?そう?」
「うん。」
「やったー!煉也に褒められた!」
万歳をして大袈裟に喜ぶ姿は、どこか幼い。煉也は鬱陶しそうに眉を顰めたが、繞に静かにしてほしいと注意をすることはなかった。言葉と本音の釣り合わない態度に龍司は、素直じゃないなと呆れて苦笑を浮かべる。
「繞は羨ましいよ。」
煉也はしみじみとした口ぶりで呟いた。繞は不思議そうに煉也を見上げ、ああと納得したように口元にやんわりと笑みを作る。
「アタシからしたら、龍司も煉也も、ここにはいないアイツのことも。みーんな羨ましいよ。」
「そうかぁ?俺らなんかよりも、繞の方がよっぽど自分の描いた道歩いててすごいなって思ってるけど。」
「そんなことは絶対無いよ。そもそも芸能界だって職種の一つなだけじゃん。たしかにみんながよく言う一般企業とは異なる部分があるし、ビジネスマナーだけではないこともある。でもそれってどの会社でも、どんな仕事でも、突き詰めて言えば同じことでしょ?」
「まぁ、たしかにそう言われるとそうだけどさ。」
「アタシはアタシ自身を商売の道具にして、アタシを応援してくれてる人と、アタシ自身を裏切りたくない。だから働くの。たくさん可愛さを追求して、テッペン目指してる。いつまでも可愛くて、綺麗で、そうなりたいと思わせてくれる人を笑顔に出来るまで。」
「…へぇ。」
煉也が頭の後ろで手を組んで面白そうに相槌を打った。繞はその表情を見て、安心したようにはにかんでみせた。
「煉也はさっさと仲直りしなさいよね。」
「…。」
アスファルトには三人の靴底が当たり、痕を残していく。ピリピリと、空気が張り詰めていることを全員が感じ取り、けれど全員が素知らぬフリをしていた。決して、けっして振り向いて挑発じみたことを言ってはいけない。気付かないようにギリギリのラインまで引っ張る必要があった。
「そういうのはこれ終わったあとにしてくんない。」
煉也、龍司がぴたりと殆ど同時に歩みを止め、勢いよく振り返った。繞の銀色の髪が、動作に合わせふわりふわりと夜を裂いていく。すう、はあ。深くふかく、ブラウンの混じるレッドの口紅を塗った唇が息を吸い込み吐き出した。
「式、
繞のブーツの爪先がアスファルトに触れた瞬間、ぐにゃりと世界が一瞬間だけ歪む。足元からみるみるうちに山吹色をした花弁のようなものが無数に沸き上がる。龍司がニヤリと静かにほくそ笑み、それを見た煉也が失恋したわりには結構元気じゃんと茶化した言葉をぶつけた。くるり、繞が踵を返す。三人の前には、真っ黒な、穢れに満ちたモノが佇んでいた。
「せいぜい華やいで、散ってね。臭くてたまらない、魔、さん。」
ヘーゼルの瞳がふにゃりと狭まった。山吹の色をした花弁が、ゆっくりと世界を塗り替え始めていた。
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