四獣演舞伝
くもの すみれ
第一章 はじまりの子
第一話 慈しみの子
「東、神崎。西、神田。南、神谷。北、
女の蜜色の長い髪は腰の辺りまで伸びていた。長い睫毛に縁どられた中央には黄金の瞳が、煌々とした光を宿していた。深緑の葉が生い茂る森の中、紺碧の空には白銀の星が瞬くのみであった。女の前に四人が膝を立て、恭しく頭を垂れていた。
「四神の力をその身に宿し、魔を祓うべく。」
一人の青年の前で、女はそうっとしゃがみこんだ。
「そなたは命を賭して天命に励みなさい。」
陶器のように滑らかな肌は何処となく恐怖さえ抱くほど真っ白だった。青年はごくりを息を飲み込み、反対に女は愉快そうに微笑む。その様を、他の三人はただ見つめているだけで、ひとつも声を発さなかった。
「慈しみの子。」
女の口端が更に持ち上がり、三日月のように弧を描いていった。誰も、何も言わぬまま、夜はそのまま更けていくばかりであった。
有名店で働いていたシェフが独立し、店を構えたことを知った彼女が、是非とも料理を食べてみたいと興味を示していたので、彼女には内緒でこっそりと予約を取り、サプライズとして連れていった。その店で悉くフラれたのだ。
龍司、別れよう。彼女の言葉に彼は頭が真っ白になり、食べていたコースメニューの味などさっぱり覚えていなかった。料理の名すら、もうあやふやで交際していたことすら本当は無かった話だと勘違いしたいほど、先々に希望を見出せなくなった。
「俺は今、猛烈に生ビールが飲みたい。ジョッキで。」
幼子のように大声を上げ、項垂れ、鼻水をたらりと流し、誰かに泣きつきたい思いでいっぱいだった。金曜日の二十時の居酒屋は、人で溢れ返っており、満席状態だった。店員もせわしなくジョッキに入ったアルコール類や、料理を各テーブルへ配膳している。
「それでオレを呼び出されても困るんですけど。」
至極面倒くさそうに顔を顰めた男は、龍司の古くからの友人である
「オレ、あんたと違って暇じゃないし。」
「俺も全然暇じゃないから!」
バンッ、と龍司が勢いよくテーブルを叩くと、名も知らぬ何人かが驚いた様子で彼らを見遣った。あ、と青ざめる龍司。はぁ、と溜息を吐く煉也。二人は顔を見合わせコホンとわざとらしい咳ばらいをした。ちぐはぐになった場の雰囲気を元に戻そうと、声のトーンを先程より控えめにして会話を再び始めると、店内にはまた騒がしさが戻っていった。
「なんだっけ、フラれた理由。なんか余計なこと言っちゃったんだっけ。」
「おい、そこも覚えてないわけ。どんだけ俺の話聞いてないのよ!」
生ビールをジョッキで二個、枝豆一皿、焼き鳥盛り合わせタレ味を一皿。タッチパネル式のオーダーなので、龍司がタブレットを操作して注文を行った。
「オレ、ビールじゃなくて梅酒がいいんだけど。」
「はい、もう遅いんでぇ、もっと早く言ってくださぁい。」
わざとらしい煽るような言い方に、煉也はぴくりと眉を吊り上げた。今、この場ではなかったら髪の毛パンチパーマにしてやるぞと、うっかり手が出そうになるのを必死に堪えた。
「二年も付き合ってたらさ、考えるわけじゃん。この先のこととかさ、結婚するってなったら、やっぱり俺のこととか、家のこと、しきたり、諸々。」
「うん。そりゃフラれる。」
満面の笑みで言い切った煉也を、龍司が恨めしそうに見たが、彼はするりと無視をしてタブレットの料理メニューを一通り確認し始める。いつもこうだよな、と龍司がぼやくと、煉也は視線はそのままに口を開いた。
「慈しみの子なんて言われて、へぇそうなんだって納得する人いると思う?」
「けどさ、もしかしたら。」
「龍司。そんなのはただのおまえの妄想。現実世界で、今更、青龍だ朱雀だと言われても、頭がおかしいって思われるだけだよ。」
「煉也、そこは慰めろよ。嘘でもいいからさぁ。」
「やっぱり余計なこと言ったんじゃん。」
呆れる。煉也は肩を竦め、蛸の唐揚げを注文するのだった。
慈しみの子、四神。嘘か妄言か、そういった類に思われることを、龍司は自身の交際相手に伝えたのだ。それは彼が抱く使命であり、生まれ持った家の決まり事だからだった。交際開始より二年が経った頃、龍司は彼女との将来を考え始めた。そこで壁にぶち当たる。自分のこと、家のことを理解してもらえるのだろうかという漠然とした不安だった。どの家庭にも問題など山積みで、街を歩く人々が手放しで幸せとは限らないことを龍司も理解していたが、そうではない。そういう次元ではすまないのが、神崎龍司の家であった。
「神崎、神田、神谷、神保。この四つの家には代々四神が宿る。」
東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武。中央に坐するのは黄龍。但し、黄龍の存在は、麒麟として登場することもあった。古来より、四神は東西南北の方角を司り、様々な穢れを取り除いてきた。
穢れは色んな名をあてがわれた。ある時は妖怪と呼ばれ、あるときには戦となり、そして摩訶不思議な天変地異の類とも。人の魂がこの世界に在る限り、穢れが絶えることはない。欲と悪しき願いは、どれほどの時代を経ても変わることなく蔓延り続けていた。
「泰平の世が、四神や黄龍に対する捉え方を変えていった。」
江戸時代になると長く戦いのない平穏な日が続いた為、人々は次第に四神の存在を、伝承に現れる架空の霊獣や神として扱うようになっていった。本当は四神や黄龍いないんでしょ、と薄ら笑いで居る者もいた。
「けれど、泰平の世でも穢れは生まれていく。全員が善人で、澄んだ心の持ち主とは限らない。」
「年月が積み重なるごとに四神の力を信じる者はどんどん減っていった。そしてまた、四神も人間に対し信頼を失いつつあった。」
いつの世も、人間は強欲で利己的にしか生きられなかった。神と人とではそもそも価値観や、生きている時間軸そのものが違う。四神と人々の間にあった相互関係は衰弱していき、いつ途切れてもおかしくないほどとなっていった。
「それでも止まぬ穢れに、自身を依り代に加護を乞う者が出た。黄龍に対し古くから変わらぬ忠誠を誓ってきた、一宮家。黄龍はその願いを叶えた。そして倣うように、四神も人の子に自ら宿り、力を貸す契りを交わした。四つの家と。」
「東、青龍は神崎家。西、白虎は神田家。南、朱雀は神谷家。北、玄武は神保家。四神を宿す者は今の世にも必ず存在している。それがオレらだって、そんな余計なことをよく言えちゃうもんだわ。流石、龍司。」
この四家は、四神の力を行使し、穢れを祓うことを生業とするようになったのである。龍司が小さい頃、両親に聞いた話では、その始まりは江戸時代初期もしくは中期だという。黄龍と四神をその身に宿すことの代価は、対象者の肉体であった。
神崎龍司の身には青龍が、神谷煉也には朱雀が。二人は生を受けた時から、定められてきた道の中で自由を見出していた。一見すると居酒屋で恋愛話をしているだけの人達でも、特殊な家系での暮らしは、それなりの苦悩が付きまとう。けれどそんなことはどうだっていいのだと、あなたが好きで仕方がないから結婚もしたいと、龍司は交際相手に理解を求めた。しかし、その願いは呆気なく散っていったのである。
「やっぱ夢物語だと思われるよなぁ。俺も、この家に生まれなかったら信じないしさ。分かる、わかるんだよ。たださ、俺は夢見たかっ、うん。」
「…臭い。」
龍司と煉也がピタリと同じタイミングでテーブルにジョッキを置いた。並々注がれていたビールは半分辺りを飲み終えていた。二人が座る後方の付近から、女性客の悲鳴が上がった。
「きゃあああああああ。」
一気に店内は静寂に包まれ、それも数秒間後には殆どの客が立ち上がり、出入り口に向かって駆け出していく。自分らの手荷物などそっちのけで、我先にと外を目指していく様をぼんやりと二人だけが眺めていた。走る最中、テーブル上の料理や飲み物の入ったジョッキ類が落ち、ガシャンガシャンと無惨に割れ、床には液体や固形物が散らばっている。
「あーあ。みんな出て行ったら、誰が相手するんだよ。」
煉也が席を立ち、悲鳴の上がった方へと気怠そうに歩いていく。龍司はというと、店の中をぐるりと全方向見回し、逃げ遅れている者がいないか確認作業をしていた。客席は全員居ない、厨房と思われる所からも人の気配や声はしない、レジ付近も誰もいない。
「俺らの貸切状態になっちゃったじゃん。俺、まだ全然飲み足りないし、なんなら煉也に励ましても貰えてないんだけど。」
愚痴りながら、龍司は深く息を吸い込んだ。彼の周りの空気がすっと一段冷えていき、薄茶をした瞳が、春の空のような青へと変化していく。瞳孔が開きっぱなしの状態になり、血が沸き立った。得体の知れない、それでも不思議と優しさを感じる。龍司はこの感覚がとても気に入っていた。人であり、人知を超えた存在を有する自分を恥じたことは一度も無かった。
これが、天命であるから。
「オレ、励ますなんて言ってないんだけど。」
煉也がほくそ笑む。ねぇ、そうだよね。わざとらしい口ぶりで、煉也は目の前のソレに話し掛けた。龍司が煉也の隣に並び立ち、眉根を寄せた。
「なんだよ、冷たい男だなぁ。煉也。」
「グ、グガガガガッ。ギギ…ギギギギャ…グガギギ。ヒヒッ、ヒヒヒヒヒヒヒヒ。」
首を右に直角に折り曲げ、口だった部分は真っ黒な空洞になり、双眸には光は無く、紫色に全てが染まっていた。肌は青ざめ、血の気すら感じられない。足元からは煤のような黒い物が浮遊し、ソレが歩いた箇所は床が腐り穴が開いていた。これは穢れに飲まれた、人の成れの果て。
「食われたな。」
欲と悪しき願いは穢れを生み、消化しきれなくなった途端に魔となる。彼らが祓うものは、穢れであり、魔となってしまった人。または、魔に成り代わった、生きものであった。
「行くぞ、煉也。これ終わったら飲み直しな。」
「ごめん。それは断るわ。」
床を蹴って、煉也が駆け出した。赤い瞳が狭まり、緩やかに唇が動いていく。
「
怒声とも取れる煉也の言葉が空間全体に轟いた。瞬間、魔の肉体に炎が燃え広がった。断末魔を上げながら、頭を抑える手が見る見る内に灰と化していく。しかし、魔はそのまま足の付け根から、真っ黒な触手のようなものを四本突き出すと、煉也の顔面目掛け素早く伸ばした。避けれる、煉也は確信していたが。触手はそれぞれが前後左右に散っていき、煉也の行動を制限した。
「式、
次の言葉が響くと、煉也自身が真っ赤な焔に包まれた。たちまち身体は蝋のように溶け落ち、忽然と姿が消えていってしまう。けれど龍司はその光景をただ見守るだけで、心配する素振りもみせなかった。
「触手、きもっ!」
龍司の隣に煉也の姿が戻ったのだ。煉也は、うげぇ、と、あからさまに嫌悪を示した顔つきで魔を見据えた。龍司は彼の無事を確認すると、たしかにそうかもなと笑顔を浮かべ呟き、次には別の言葉を放った。
二人には四神の力を行使出来る、その契りが交わされている。代々伝わるその術は、式と呼ばれるようになった。言葉を媒介に、四神は力を具現化していくのが仕組みだ。簡単に言ってしまえば、言霊の類いであった。
「式、
窓など碌に空いていない筈の店に、颯爽と風が湧き起こる。ガタガタとテーブルが揺れ、置いてけぼりにされてしまった荷物は容赦なく宙に舞い、無情にも躍らされている。龍司が力を使い、呼んだ風は一直線へと魔の肉体の中央を穿つ。そうして、そのままこれが正規の動きだと言うように、八方へと進んで、空洞を作っていった。肉体に出来上がった穴が花弁のように見え、美しく冷酷であったビシャッビシャ、と血液に似た真っ黒な液体が魔の肉体から噴き出て、あちこちへと飛び散った。
「グギャガアアアアアアアアッ。」
叫びが二人の耳をつんざく。ドガンッ。衝撃は音と振動を伴い、二人までしっかりと届いた。魔が、体勢を保てなくなったのか、よろけるながら後ろへと倒れ込んだのだ。コントロールが効かなくなった触手が、バンッバンッと音を立て、店の調度品を破壊していく。風花を受けた対象は大抵絶命することを龍司は経験上知り得ていた。
「
左手の中指と人差し指を立て、額に押し当てるようにして、龍司が唱えた。魔の肉体へと光が集まっていき、一気に眩く世界が白んでいく。慈しみの子である二人は、あまりの光量に耐え切れず目を瞑った。瞼に過剰な明るさが感じられなくなったと判断し、持ち上げると、先程まで対峙していたはずの魔は姿かたちも無くなっていた。零、それは魔の穢れを祓い清め、無に還すことであった。
「最初から零で終わらせられれば楽なのに。」
「それが出来ないから、技を得るんだろ。」
還った肉体は命そのものをやり直す為、生まれ変わっていく。それがまた人であるかはたまた違う生命かは、誰にも分からない。四神も黄龍も知り得ないことだった。
龍司は十分過ぎるほどに破壊されてしまった店を見渡し、項垂れた。気落ちすることばかり、人生そう上手くはいかないものだ。煉也が携帯電話を取り出して、耳に押し当てた。誰かに電話をしている様子だが、龍司はその相手の見当がついていた為、煉也から距離を取ろうとはしなかった。ある程度、事の流れは分かっている。家のおかげで、付き合いも長くなった。お互い言わずとも察する力は身についていくものだ。
「主君、突発的に魔と応戦しましたが、現場が中々に破壊されてしまいまして。」
煉也が申し訳なさそうに言うので、龍司は少し面白くなってしまう。普段は冷たい態度をばかりを取る彼が、この電話の相手にだけはたじろいだり冷静さを失ったりするからだった。
笑いを堪える横で、煉也はその後も会話をしていた。
二人は、暫く店内に留まった。騒ぎが落ち着いたことを知ったのか、一人の男性が戻ってきた。男性はすっかり荒れ切った店にあんぐりと口を開けたまま立ち尽くしていた。
「お、俺の、店が…。」
龍司がそっと店長へ一万円札を差し出した。
「とりあえず、今日の注文分とお詫びで。今、手持ちがこれしか無くって。すみません。」
煉也は店長を名乗る男性の肩にポンと軽く手を置き、眉を八の字にして宥めた。
「ちゃんと店は直しますから、とりあえず今日は勘弁してください。」
青龍を身に宿す神崎龍司、そして、朱雀をその身に宿している神谷煉也。二人の金曜日は邪魔者によりあっという間に過ぎ去っていき、時刻は零時をとうに超えていたのであった。
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