第67話笑って(4)


 少しの間沈黙が流れた。イチョウの葉が木から離れて、風に吹かれて地面に降り立つ位の時間があいて、「いいよ」という愛花の声が返ってきた。


「え?」

「一緒に帰ろっか」


 近くのパン屋さんから、パンの匂いが流れてくる。風が吹いて、愛花の髪がふわりと揺れる。私が踏み出した一歩を、愛花は許してくれるのだと言う。

 少し勢いにも任せたそれは、けれど確かに勇気を出した行動だったから受け入れられるのは嬉しくて。愛花がはにかむように笑うのが可愛くて、私はそれに応えるように心臓の音を早くする。


 イチョウの黄色、パン屋の匂い、愛花の笑顔。どれもが幸せを象徴しているみたいで、ここに私一人だけだったらぎゅっと握りこぶしを作って喜びの声をあげてしまうことだろう。


「ありがとう」

「ありがとうって変だよ。 一緒に帰るだけなのに」

「ううん、嬉しいから……ありがとう」

「……」


 隣を歩く愛花が立ち止まる。続くように立ち止まって振り返ると、愛花が私の顔をみつめて、ずるい、と言う。ずるい、は、何を意味しているのだろう。けれど、愛花の表情を見ていると、そんなに悪い意味ではないのかもしれない。イチョウとは違う紅葉のような耳の色に、そんなことを思う。


「照れてる?」

「そういうことじゃない~」


 そっぽを向いて歩き出した分かりやすい愛花に、溜まらず笑いながら隣を歩く。これはきっと謝って済む問題じゃないんだろうけれど、拗ねている愛花もまた可愛いから、こういうのだって楽しい。

 そうやって拗ねた顔をするけれど、最後にはしょうがないなって言いながら笑ってくれるって知っているから。


 愛花といるとそれだけで嬉しくて楽しくて、全部が肯定されているような心地になる。それは私が、愛花のことを好きだから、なんだろうけれど。隣で好きな人が笑ってくれる。それだけで、こんなにも嬉しい。


「もう、いつまでにやにやしてるんですかー?」

「んー……愛花が笑ってたら、ずっと」

「あー、もう」


 愛花の肩が私の肩を押す。その瞬間にふわりと香る愛花の匂いに心臓が跳ねる。すぐ近くで私を見上げる不満げな焦げ茶色の瞳。真っ白な肌に色づく赤色が咄嗟の思考を奪っていく。なぜだろう、変に心臓がうるさくて、それなのに視線が外せない。


「そういうの、他の人にもやってたら本当に怒るよ」

「……」


 少しだけ膨らませた頬に、尖らせた唇。近くで鼓膜を揺らす甘い声。顔が熱くなっていく感覚に、喉の奥が詰まるようでうまく声を出せない。今まで、考えた事なんて本当になかった。愛花の体の細さとか、体温とか、匂いとか、綺麗に手入れされている唇とか。

 その時初めて、私の好きにはこんなものも含まれているのだと知った。

 

 

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