第62話特別(2)


 私のクラスに理歩がいるのがとても不思議だった。優と呼ばれる子はいなくて、背の高い快活そうな女の子と話しては、覗き見るように私の方へと視線を投げる。何故だろう、少し慌てているような気がする。理歩が慌てるのを見て、その女の子が楽し気に笑っているのを見つめる。


「愛花ちゃん」

「はい?」


 視界の外からの声に、視線を左へと移す。知らない人の声は、まるでずっと私を知っているみたいに親しげに私を呼ぶ。そんなことに驚くことも、もう無くなってしまったけれど。


「朝案内してくれるって言ってたじゃん」

「えっと……でも愛花はキッチンの担当なので」


 会話の内容からようやく、朝に話しかけてきた人だと分かる。この人の名前は忘れちゃったけれど、案内するなんて言っていないことは覚えている。文化祭の雰囲気に後押しされてか、強引な言葉が更に投げかけられてきて辟易とする。ちらちらと伺う視線の中に理歩がいるのも嫌で、こんなの見られたくないのに。


「じゃあせめて一緒に写真撮ってよ、猫耳つけてさ」

「猫耳つけてる人ならあそこにいますよ」

「そうじゃなくてさ」


 そうじゃないと言いたいのはこっちのほうだ。席に座っているこの人の友人らしき人たちは、にやにやと汚い笑みでこっちを見ていないで早くこの人を連れて去ってくれないかな。また男釣ってる、なんて言っているクラスメイトも、全部がノイズになって頭に入ってくる。頭に入ってくる全部に蓋をするように、目を瞑る。うるさいものは全部、いらないから。


「あ、あの!」

「え?」


 鼓膜を揺らす、硬く緊張した声。視界を開くと、その声のように表情を硬くした理歩がいた。男の人が振り返って理歩を見つめると、理歩がぎゅっと唇を結ぶ。


 うるさいものは全部いらないし、どうだっていい。けれど、それに理歩が晒されてしまうことは耐えられない。それだけは絶対に嫌なのに。目の前の理歩が、ゆっくりと口を開く。


「私が頼んだコーヒーが、まだ来てないんですけど」


 私の気持ちそんななんか飛び越えて、理歩は私の隣に来てくれるの?

 硬い表情で、握りしめた拳で、精いっぱいに勇気を振り絞ってくれていると知っている。触れたくないであろうものに触れてでも、私を助けようとしてくれているのだと分かる。理歩だって触れたくなんかないはずなのに、それに触れてでも、一緒にいてくれようとしてくれている。私が辛い時、寂しい時、苦しい時、一番隣にいてほしい時に、理歩は隣にいてくれる。


 私はそれにずっと、救われている。今回だって勇気を出してくれたことが、すごく嬉しくて。理歩が踏み出してくれる一歩が嬉しくて。


「理歩、コーヒーなんか頼んでないくせに」

「え」

「でも愛花のこと助けようとしてくれるのはちゃんと分かってるから……だからありがと、理歩」


 だからこれは、私からのお礼。ブラックなんて苦いものはきっと飲めないだろうから、砂糖とミルクを加えて理歩に差し出す。きょとんとした顔が、ゆっくりと解けて柔らかく微笑む。

 本当にいいのかなんて分からない。私がここで理歩と呼んでしまったことで、また理歩が嫌なものに晒されてしまうかもしれない。私が一歩近づくことで、理歩が離れていってしまうかもしれない。そんな恐怖は、今だって消えない。

 それでも。


「おいー、スルーされてて情けないから帰ってこいー」

「……うるせー」


 白けたのか、彼が踵を返す。周りの視線が少しずつ去っていく。ううん、そんなのは最初からどうでもいい。どんな視線だろうと、彼女以外のものは最初からどうでもよかった。

 目の前の彼女が笑ってくれるのならそれでいいんだと思う。私が彼女を守っているつもりだったけれど、守ってくれてたのは理歩の方だったんだね。

 だったら私は、それから逃げるのはもうやめよう。もう一度だけ、好きなものに手を伸ばしてみよう。


 一番大事なものからまで、逃げていたらダメなんだよね。


「理歩、一緒に写真撮ろ」

「え?」

「いいでしょ?」

「…………いいの?」

「撮りたい……撮ってくれる?」

「……うん」


 噛みしめるような声に、泣き出しそうに笑う表情。ずっと私と理歩の間にあった薄い膜が、パチンと弾けて。何にも遮られず、まっすぐに見つめた理歩の表情は、今まで以上に特別なものに見えた。

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