第60話そして零れ落ちる(4)
あの子が視線を向けると、それだけで理歩の表情が変わる。飼い主の言葉を待つ犬にも似た、純粋な目がじっと彼女を見つめて。彼女の微笑みや視線一つで、胸を弾ませて、慌てて携帯を確認するのだ。
もうほとんど理歩の気持ちを知っているからこそ、その一挙手一投足がとても分かりやすい。理歩は全身で恋をしている。それを正面から見ていて、本当に彼女は何も感じていないのだろうか。感じて、それでいて曖昧なままにしているのだろうか。
「すみません」
「あ、はい」
呼ばれた席の注文を取る。浮ついた教室、数人の視線が彼女に吸い寄せられている。キッチンに注文を伝えると、理歩と沙耶が準備をしてくれた。その間に彼女を見れば、彼女はただまっすぐに、理歩を見つめている。
その視線がまるで、理歩の視線が彼女に移ったかのように見えて、どきりとする。そうだ、彼女は、周りの目なんか気にせず理歩の元へ駆け出していた。その時だって今だって、彼女の視界にはまるで理歩しかいないみたいで。誰からの視線にも答えずに、ただまっすぐに理歩だけを見ている。
「出来たよ優」
「え、あ、ありがと」
お盆を受け取って、お客さんの元へと運ぶ。紙コップを二つ、お菓子を乗せた紙皿を一つ。会釈をして振り返ると、彼女が椅子から立ち上がる。私の視線だって彼女は気づかなくて、最後に理歩にだけまた視線を交わして、教室を出ていった。
だったら、なぜ曖昧なままにしているのだろう。彼女も仮にそうなのだとしたら、理歩の気持ちに気づいていれば関係は変わっていくはずで。けれど付き合ってはいないのは理歩の言葉から間違いなくて。じゃあやっぱり、あの子は理歩からの視線の意味に気づいていないのだろうか。
まぁ、どっちにしたってそんな二人の視線なんか、私は見たくないけど。お互い矢印が向き合っているならば、だってそれはいつか、交わる日が来るのだから。
「優ちゃん」
「わっ」
「私達そろそろ当番終わりだよ」
「あ、うん」
「どこ回ろっか」
絵里ちゃんに手を引かれて、キッチンへと戻ってくる。理歩や沙耶と合流して、次の当番の人たちがちゃんといるのを確認して、引継ぎを優斗君に任せて。動く体と出てくる言葉はとてもなめらかで、それをどこか遠い場所から眺めているような感覚だった。少しずつ声が遠くなって、いつもの四人での会話も頭に入ってこない。
けれど、それを自分のものとして自覚してはいけないような気がした。このまま焦点を合わせないままじゃなきゃ。だって、そうじゃないと。
それはとても、苦しいから。
「っ、ごめん、ちょっとお手洗い行ってきていい?」
理歩が誰を好きだって、好きな気持ちは変わらないなんてかっこつけたくせに。
逃げるように踵を返して、真っ直ぐに歩き続ける。
理歩がいざ誰かの特別になるかもしれない実感がわくと、こんなにも動揺して。
少しずつ早めた足は、少しずつ駆け足になっていく。理
歩のそんな姿をこれ以上見たくなくて逃げ出して。そんな情けない自分も嫌で。
唇を噛む。
痛みが何かのごまかしにでもなってくれたらそれでいい。この胸の苦しみを忘れさせてくれるならそれでいい。
階段を駆け下りて、人がいない方へと走る。鼻の奥がツンとして、視界が少しずつ濡れていく。あぁもう、本当に情けないな。
せめて、誰にも見られない場所に行かなきゃ。
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