第45話優しさに触れて(1)


 二人だけの足音。静かな住宅街に響くのは、それだけだった。

 何かを話す、そんな些細なことが、今の私には難しい。唇をきゅっと結んでいないと、何かが溢れてしまいそうだった。


 私の心をこんなにも揺らしてしまうのは、いつだって愛花だけで、私はそれを恋と呼ぶのだと知った。知れば、それは輪郭をくっきりとさせ、存在の重さを増し、私の心に重くのしかかる。愛花の優しさが、苦しくて泣きたくなるくらいに。いつも通りを取り繕えなくなるくらいに。


 愛花も何も話さないのは、そんな私のおかしなところに気づいているからなのかもしれない。愛花は、いつだってよく気が付くから。


 しばらく歩くと、小さなアパートが見えてきた。どこにでもある、誰の記憶にも残らない、平凡なアパートの一室。それが私の家。窓はカーテンがかかっているけれど、明かりがついているのがわかる。


「……ありがとう、わざわざ」

「んーん、愛花が散歩したかっただけだから」

「愛花も早く帰らなきゃだめだよ」

「うん。 ……ねぇ理歩」

「ん?」

 

 あぁ、やっぱり、今も愛花は気づいているんだよね。


「ごめん、何か嫌なことしちゃった?」


 私、あからさまに変だよね、ごめんね。

 なんでもないよ、気にしないで。そんな言葉が頭の中では浮かぶのに。鼻の奥がつんと痛くて、思わず顔を伏せる。泣くなんてずるいのにな。愛花は本当に何も悪くないのに。


「ごめん、理歩、ごめんね」


 愛花の指が、目尻に触れる。涙を拭うその指先があまりに優しくて、更に胸が詰まるようだった。近くにいてくれるから、優しくしてくれるから、気持ちはどんどん重くなっていくのかもしれない。そのくせ、それは何の意味もないのだというように離れるから、私は寂しくて堪らなくなる。


「理歩、お家入ろ、落ち着くまで一緒にいるから」

「ごめ、違うの。 愛花は悪くないよ」

「そんなわけない。 愛花が悪いよ。 ごめんね、理歩」


 ゆっくりと、愛花の手が背中に回る。夏の暑さに、少しだけ湿気を纏った愛花の腕が、私の二の腕に触れている。子供をあやすようなリズムで背中を叩かれて、その優しさに、ずるいと思う。愛花のTシャツを掴んで肩口に顔をうずめる。


 誰かの優しさが、こんなに痛く感じるのは初めてだった。




***




「愛花、ごめんね?」

「んーん、全然。 むしろごめんね、泊まっちゃって」


 真っ暗な部屋、一人分の布団に二人で並んでいる。

 モノクロの世界で、目の前に愛花がいる。愛花の体温が、すぐ近くにある。


「それに、愛花が色々聞いちゃったからだから、理歩は謝らないで」

「じゃぁ、もう愛花も謝らないで」

「んー……うん、そうする」


 優しく語りかけてくれる声。優しく溶ける目尻。


「その代わり、今日はいっぱい理歩のこと甘やかしてあげる」

「なにそれ」


 リビングまで聞こえない様にくすくすと笑うと、愛花の手が私の手に触れて、ゆっくりと握ってくれた。もう泣かなくていいように、と愛花が言う。私はその言葉に、少しだけ泣きそうになる。


 泣いてしまった私を結局家の中まで送ってくれて、泣き止まない私に、泣き止むまで一緒にいたいと言う愛花に、お母さんが今日は泊まっていきなさいと言って。きっと突然で困るだろうに、愛花は嫌な顔せず本当にずっと隣にいてくれた。


「本当はね、今パパと喧嘩してるの」

「え、そうなの?」

「だから、愛花も家に帰りたくなかったから、ラッキーだなぁって」


 そう言って笑う愛花は、一体どこまでが本当なのだろう。量る材料も、教えてくれることも、きっとないのだろうけれど。愛花が優しいことだけは、私には痛いほど分かるよ。


「だから何も気にしないで、愛花にできることあったら言ってね、理歩」

「……ありがとう」


 握った手の力を込める。私よりも小さな手、ネイルの感触。触れれば触れるほど、私の手とは違うのだと実感する。私のじゃない、愛花の手が、私の手をぎゅっと強く握り返してくれる。

 ねぇ、愛花。 ずっと、握っていてくれる?


「愛花のおかげで落ち着いた」

「そっか」

「うん」

「じゃぁ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 優しい声、優しい温度、優しい空気。きっと一生忘れられない。そんな優しさに包まれながら、目を瞑った。

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