第8話:古きものとの出会い
さて。
俺とリヨンはまずこのワイン
「一応、棚は年代順に分かれているようだが……ふむ」
俺は奥にある、おそらく一番古いであろう棚から確認していく。中を揺らさないように丁寧かつ慎重に、棚の中に横たわる陶器製のボトルの表面に貼ってあるエチケット――ワインの生産者やワイン名、収穫年などが書かれているラベル――の上を軽く布で拭いた。
「うーん。エチケットに書かれているのは、収穫年だけか……生産者やワイン名どころかブドウ品種もないとは」
「元々ここは修道院だったからね。ワインはあくまで自分達で消費する為に造っていたから、販売用のエチケットなんて用意していなかったんでしょ」
リヨンの説明に俺は頷いた。
「まあ、百年を超すオールドヴィンテージワインにはよくある話だな。当たり外れが激しいから、それもまた楽しみだが」
そのワインのエチケットには、【212年】と書かれている。今が、この世界の暦である【霊王歴617年】と考えるとざっくり四百年ほど前のワインとなる。
確か昔、難破船から引き上げられた十七世紀のワインがオークションに出されたことがあったはずだ。当然、そんなものをいちソムリエである俺が飲めるはずもないのだが――飲んでみたいものだと思った記憶がある。
だが、今目の前にそれ以上の古酒である四百年物がある。
「……これ、飲んでみたくないか? 見れば同じワインがあと百本はある。一本試飲用に開けてもいいと思うんだが」
「あまり気は進まないけど……失われたワインがこれかもしれないしね」
リヨンがなぜかあまり乗り気でないことが気になるが、俺はそのワインをゆっくりと棚から取り出し、慎重にそれを試飲台へと縦に置いた。中身を液体と思わず、柔らかく崩れやすい豆腐か何かと思え――そう昔教わったことを思い出しながら。
「……? 開けないの?」
俺がボトルを開けようとしないので、リヨンが不思議がる。
「リヨン……ワインの造り手なら、オールドヴィンテージの飲み方ぐらい知っておけよ」
「そもそも、そのオールドヴィンテージってなにさ」
あれ? もしかしてこの世界、というかこの時代にはそういう概念がないのか?
「ヴィンテージってのは、そのワインに使われているブドウの収穫年のことだよ。で、それがざっくり十五年以上前なら、オールドヴィンテージと呼ぶようになるんだよ」
「十五年……? そんなワイン美味いの? ワインは収穫し醸造したその年が一番美味しいでしょ?」
なるほど。この世界では、ワインは造られたその年から翌年までの間に消費することが一般的なようだ。熟成させて飲むという文化がない以上、確かにロゼやルージュ王女がここのワインを飲もうとしないのも分かる。リヨンさっきワインを開けるのに乗り気でなかった理由もこれだろう。
だが、こんな立派な
「もちろん、フレッシュ感を味わう為に、収穫年に飲むというのは何もおかしくはない。だが、ブドウの品種や質、醸造の仕方によっては十年以上熟成させた方が美味くなる場合がある」
もちろん――全てのワインが熟成させれば良いというわけではないが。
「もしそれが本当ならこのワインは相当に美味しいんじゃない? だって四百年も熟成したわけだし」
「どうかな? いずれにしても、ここまでの古酒となるとオリや沈殿物も相当ある。すぐに開けないのは、それが底に沈むのを待つ為だ」
「なるほど……しかし君はどこでその知識を?」
「あー」
前世で勉強したなんて言ったら白い目で見られそうだ。
「今は亡き師匠がな……いわばワイン和尚だ。彼が俺にみっちりワインの知識をだな……」
「ワイン……おしょう?」
しまった。この世界に仏教なんてないか。
「とにかく! そんなことはどうでもいい! デキャンタに移そう」
本来なら一週間以上は放置したいところだが、流石にそんな悠長なことは言ってられない。
俺は蝋で出来た蓋をこれまで以上の慎重さでゆっくりと時間を掛け開けていく。コルクであればもろもろに崩れてしまうが、どうやらこの時代にコルクはなかったようだ。
蓋を開けると、ふんわりと漂ってくるのは――酢の匂いだ。
「ぐぬぬ……これは駄目そうだな」
「へ? ワインっぽい匂いがするけど」
「ワインはこんな酸っぱい匂いなんてしねえよ。まあいい」
俺はゆっくりとボトルを傾け、デキャンタへと移していく。そのワインは赤というより黄色に近い色味で、匂いはやはり酢に近い。
そもそも赤ワインというのは後から出来たワインで、古代のワインは黄色からオレンジ色なのだそうだ。
俺はデキャンタからワインを試飲グラスへと注ぐ。
「では……先人に敬意を表して」
俺が目を瞑り、グラスを掲げた。リヨンも俺に続いて同じように黙祷している。
まずは、そのまま匂いを確かめる。
うーむ。やはり酢の匂い。そのすえた匂いにむせそうになる。微かにシトラスっぽい雰囲気があるが、ほぼ消えてしまっている。何より、硫黄臭が酷い。これはちと駄目かもしれんな。
「うーん……さっきはいけるかと思ったけど……これは」
流石のリヨンも、顔をしかめた。
「口を付けてみよう」
「ああ。だが、こんなもん飲めたものじゃな――んっ!」
リヨンの驚きの表情を浮かべる。
きっと俺も同じ表情をしていたに違いない。
「いけるぞこれ」
これは……驚いた。酒というより、なんだろうか、どこか果実酢に近いようなニュアンスだ。最初に酸味がやってくるが、その後に残るのは果実っぽい味わいだ。シトラス、ベリー、そんな感じか?
「うん……匂いは悪いけど味はいいね。ただ、ワインっぽくない感じ」
リヨンの言葉に同意する。
「残念ながら……ピークはとっくに過ぎてしまっているな」
「ピーク?」
「そのワインが最も美味しくなる時期だよ。それは五年後かもしれないし、二十年後かもしれない。開けてみないと分からない賭けな部分ではあるが……流石に四百年でピークが来るワインはないだろうさ」
だが……それにしても驚きだ。
絶対に飲めたものじゃないと、吐き出す準備をしていたのに。まさか飲めるレベルを保っているとは。
「流石ウィレーズ家だね……四百年経ってなお飲めるワインを造っていたなんて。ありがとうご先祖様」
リヨンが胸の前で手を組み、祈りを捧げていた。大袈裟だが……気持ちは分からなくはない。
「言っておくが、今のウィレーズ家のワインは多分五年ももたないぞ」
「うるさいなあ。そもそも、うちのワインはその年か翌年に飲むものだと思って造っているからね」
「だけども……いや、なるほど。失われたワインって意味が分かった気がするな」
このワイン。もはや朽ちかけているが……このポテンシャルからして、もしピークで飲んでいたら――そう考えると鳥肌が立つ。
間違いない。確かに、ウィレーズ家は、古の時代に素晴らしいワインを造っていた。
だからこそ疑問が出てくる。
「なぜ――これが受け継がれていない?」
「ウィレーズ家の歴史は古く長い。その中にはいくつかの断絶があるんだよ。そのたびに過去のウィレーズ卿が復興させてきたんだけども……そこに原因があるのかもしれないね」
「そこを調査する必要があるかもしれない。というかあれだな。ここのワインはおそらくどれも似たり寄ったりの味になんだろうな。一応、ざっくり年代別に試飲はするが、ここに失われたワインはないと思う」
かつては素晴らしかったワインも、どんなに保存状態が良かろうと何百年も経てば劣化する。
ロゼは、きっとこれを飲んでも満足しないだろう。ならばやはり、今この時代で再現するしかない。
「そうだね。僕もご先祖様のワインが飲めて嬉しかったけども」
「やっぱり俺達が造るしかないんだよ。だけどもヒントはここに色々ありそうだ。まずは片っ端からエチケットを調べて、使っていたブドウ品種が書れてないか探そう。今と昔で使っている品種が違う可能性がある」
「了解だよ」
こうして俺とリヨンは一日かけて、エチケットの確認作業及びリストアップに従事したのだった。
***
「といった状況です」
隣国の使者との会食後のロゼに、俺は今日一日の成果を報告をした。彼女は就寝前なのか、ゆったりとしたガウンの上からローブを羽織り、ソファに座りながら俺の作ったリストへと目を通していく。
彼女の手には、湯気が立つゴブレットがあり、その中に乾いた木の枝のようなものが差してあった。
この場所は彼女のプライベートスペースなのか、ローヌ以外誰もいおなかった。おかげでロゼはリラックスした状態で、あの砕けた口調で俺へと言葉を返した。
「やっぱり、失われたワインは存在していたのね。四百年経ってなお、飲める状態とはびっくり――ん、これ……美味しい!」
驚いたような表情で、ゴブレットの中を満たす赤い液体をロゼが見つめた。
「流石、気付くのが早い。それは俺がロゼの為に用意したものだよ。ヴァン・ショー……いわゆるホットワインってやつだな」
「へえ! ワインとはまた趣が違うけど、こんな美味しい飲み方があるのね……一体どうやって作ったの?」
ワイン嫌いのロゼにどうやってワインを飲んでもらおうかと思った結果、ローヌの許可を得て作ったのがこのヴァン・ショーだ。
「各種スパイスやハーブ、それに蜂蜜に漬け込んだレーズンと一緒にワインを煮込んだんだ。それよって、ワインにあった酸味やえぐみが消え、飲みやすくなるんだよ。更にアルコールも熱で多少飛ぶから、就寝前には最適の飲み物だ。もう春とはいえ、夜は冷えるからな」
ヴァン・ショーはいわゆるワインカクテルと呼ばれるもので、前世の店では冬の定番カクテルだった。作り方は色々あるし、雑に作ってもある程度の味には仕上がる。だけども煮込み時間やスパイスの量で風味が大きく変わるので美味しく作ろうと思うと、意外と難しいカクテルでもある。
この世界にもアニスやシナモンに似たようなハーブがあったので代用したが、我ながら中々美味くできたと思う。
「流石だね、キリヤ。ワインが嫌いな私でもこれなら美味しく飲めそうだもん」
「それは良かった。勿論、これをもって、〝美味しいワイン〟だと言うつもりはないよ。やはりワインはワインとして飲んでこそ――ワインであるのだから」
「もちろんよ。でも現状のワインを見るに……かなり難易度が高そうね」
「だな。だが、あの
「それで――それは再現できるの?」
そう。結局はそこに行き着くのだ。
「――現物が存在しない以上、完璧な再現が出来るとは言い切れん。だが、あの眠っていたワインをヒントに、現状よりも遙かに美味いワインを造ることは可能だと思うよ」
今日一日リヨンと接したが、彼はワインやワイン造りに対する愛や情熱は間違いなくある。あとは俺の知識と舌で補えば、きっと良い物は造れるはずだ。
「うんうん。じゃあ、話を聞く限りはやっぱりバルト州に一度行って、ワイン造りの工程を見直す必要がありそうだね」
「ああ。俺としてはすぐにでも行って色々と調べたいところだが。特に……今回あの眠っていたワインに少し気になることがあってな」
「気になるところ……ですか?」
「そのリストを見てくれ。ほとんどのボトルのエチケットにはヴィンテージ……つまり収穫年しか書かれていなかったんだが、一部の年代の物にだけ……謎の文字が書かれていてな」
それは偶然見つけたものだ。例えば【343年】には何も書かれていないのに、その翌年の【344年】には、見た事もない不思議な文字が書かれていた。そんなボトルが、あの
「文字をクレマン先生に見てもらったんだが、古代文字であること以外は分からないってよ。おそらくワイン名……もしくは生産者の名前だと思うのだが、その年だけ書いて、他の大多数の年に書かないのは妙だ」
「それは不思議ね。何か……意味があるのかも」
「ま、それについてはリヨンが心当たりがあると言っていたから、やはり鍵はバルト州にありそうだ」
とはいえ、毒見役の俺が王宮を離れるわけにはいかないので、リヨンに任せるしかない。本当は現場に行ってあれこれ見たいんだがなあ。
そんな俺を見て――ロゼがニコリと笑った。
「なるほど……じゃあ仕方ないわね。ローヌ、明日からの公務のスケジュールを調整できる?」
ん? あれあれ。
なんて思っていると、ここまで黙って聞いていたローヌがため息をついた。
「そう言うと思ったよ……。可能か不可能かで言えば可能だ。なんせ今日、ルージュ王女が王宮に帰還されたからな。王女のどちらかがいれば、なんとでもなる。けど――」
ローヌが何か言おうとするが、ロゼが生むを言わさぬ口調でそれを遮った。
「では――明日からバルト州に視察に行きましょ! ローヌ、その用意を。勿論、毒見役のキリヤと案内役のリヨンにも同行してもらうから、よろしくね」
「へ? いや、はい」
俺はそう返事するしかない。しかしこの王女様、行動力あるな。ローヌが頭を抱えているが。
「じゃ、そういうことで! おやすみね、キリヤ」
こうして――俺は、ロゼ王女と共にこの大陸一のワインの生産地であり、リヨンの故郷でもあるバルト州へと赴くことになった。
その旅が――平穏に終わるはずもない。
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