第19話 岸辺百合香

「理子、釣りやってみない?」

「ふえ?」


 喫茶店から民宿に戻る道の途中で、突然ほしゆきさんがそんなことを言いだしたので、私は気の抜けた変な声で返事をしてしまった。


「さっき喫茶店のご主人に聞いたんだけどね、あの堤防の近くに釣り道具を貸し出してるお店があるんだって」

「ほんと? やったことないけど、できるかなあ」


 どうやら私が居眠りをしている間に、ほしゆきさんは喫茶店の人と色々お話をしていたらしい。

 さっき私が堤防で、ちょっとやってみたいって言ったのを覚えていてくれたんだ。

 私もほしゆきさんも釣りは初心者だけど、せっかくなので挑戦してみようということになった。


 釣りをしている人がたくさんいた港から少し歩いたところにそのお店はあった。

 主に家族連れとかの初心者用に色々とセットで貸してくれているらしい。

 釣り竿の糸とか仕掛けとか、よく分からないけどお店の人が全部やってくれたものを二本借りた。

 それと、餌の入ったパックと餌を入れるバケツとでっかいスプーンみたいなやつ、釣れた魚を入れる用のクーラーボックスもセットで借りて、堤防に向かう。


「えーと、まずはこの籠に餌を入れて……」


 ほしゆきさんがお店の人からもらった説明書を読みながら、釣りの準備をしてくれている。

 私は針が刺さると危ないからって言われて、離れた所でそれを眺めている。

 ほしゆきさん、優しいけどちょっと過保護なところがあるよね。


「はい、できた。後はこれを静かに海に落として、あんまり沈んでいかないところでちょっと竿を振って餌を海の中に広げる感じで」


 ようやく竿を渡してもらって、二人で海に向かって仕掛けを落とした。

 言われた通り、糸の先についた籠を振る感じでクイクイと竿を動かす。


「こう?」

「たぶんそれでいいと思うけど……二人とも初心者だと間違っててもわかんないな」


 キラキラと波が太陽の光を反射して、水の中の様子は見えない。

 これで本当に釣れるのかなと思いながら待っていると、竿の先がブルっと震えたような気がした。


「あっ、なんか来た」

「かかった? そしたら軽く竿を起こして、口に針を引っ掛けるんだって」


 言われた通りにちょっと竿を上げると、重い感じがした。

 引っ張られるような、震えるような。


「これもう上げていいの?」

「たぶん……試しに上げてみて」


 仕掛けを引き上げると、白く光る魚が一匹、かかっていた。

 すごい。本当に釣れるんだ。


「うわ、わー、ほしゆきさんとってとって」

「ちょっ、ちょっと待って。えっと針の外し方は……」

「はやくー」

「うわ、こっちも引いてる」


 わちゃわちゃしながらも、どうにか二人で釣れた魚をクーラーボックスの中に入れることができた。


「イワシだね。こんなに白いんだなあ」

「ピカピカ光っててきれい。生臭いけど」

「それはまあ、魚だからね」


 その後もちょこちょこ釣れて、餌がなくなる頃には二人合わせて十匹くらいのイワシがクーラーボックスの中に入っていた。

 こんなに簡単に釣れるとは思わなかったから、想像していた以上に集中して楽しんでしまった。

 手は魚臭くなっちゃったけど、釣れる時の竿がグンってなる感覚はちょっとクセになりそうだ。


「面白かったー」

「僕も初めてだったけど、釣れてよかったよ」

「それで、このお魚どうするの?」

「どうしようか……」


 ほしゆきさんはスマホを取り出して、どこかに電話していた。

 せっかく自分で釣った魚だから食べたいけど、生のままじゃどうしようもない。

 私がそう思っていると。


「釣った魚、民宿に持って帰れば今日の夜ご飯にしてくれるって」

「えっ、すごい」


 ほしゆきさんが電話していたのは、私たちが泊まる民宿だったらしい。

 あの民宿に来るお客さんは釣りをする人が多いから、普段からそういうサービスもやってるんだって。


 釣り竿などをお店に返した後、クーラーボックスから氷を詰めた袋に魚を移してもらって、そのまま民宿に持ち帰ることになった。


 思っていた以上に釣りに熱中していたのか、宿に戻ったのは夕方くらいだった。

 それから夕食までの時間は、持ってきていた小説を読んでいたらあっという間に過ぎてしまった。


 夕食の時間になり、小さな食堂みたいな所に集まって席に着く。

 お客さんはもう一組いたけど、私たちの料理だけイワシ尽くしだった。

 お刺身や焼き魚、天ぷらに、なめろうっていうネギトロみたいなやつ。

 和風だけじゃなくてマリネやハンバーグまで出てきて、どれもすごく美味しかったから、全部食べてしまった。

 触った手はしばらく生臭かったのに、料理はあのにおいが全然しなくて不思議だ。


「たまには魚料理もやってみようかな……」


 ほしゆきさんはマリネを食べながら、そんなことを呟いている。

 そういえばほしゆきさんが作るご飯には、お魚を使ったものはほとんどなかった。

 やっぱりお肉と違って準備が大変なのかな。

 私たちは楽しく釣りをして、面倒な料理は全部おまかせして、後は美味しく食べるだけなんて。今日は贅沢な日だなあと思う。


 食後は部屋に戻ってダラダラして過ごした。

 ちょっと食べ過ぎてしまったので、食休みが必要だ。

 持ってきた百人一首の上の句を読んで、下の句を答える遊びをしたりした。

 私はもうほとんど覚えたから簡単だったけど、ほしゆきさんは全然だった。


「さて、そろそろ行こうか」


 いつもならお風呂の時間だけど、今日は大切な用事がある。

 というか、この旅行に来た目的だ。

 拳銃を捨てに行かなきゃ。


 ほしゆきさんが色々準備をしているのを見ながら私も着替えて、民宿の外に出た。

 そういえば、夜に出かけるのは、ほしゆきさんと出会ってから初めてかも。


 海の側の道を歩くと、暗くて何も見えないところから水の音だけがする。

 心細い街灯の光、少しぬるい風、もう慣れた潮のにおい。

 車が通り過ぎる音、ほしゆきさんの手の温度、ゆっくりな足音。 

 きっと、今感じている全部が懐かしい思い出になるんだろうなって思った。


 昼間歩いた道から外れるように横道に入る。

 それまで歩いていたアスファルトの感触が、土と砂利の混じったものに変わる。

 辺りはどんどん暗くなっていくけど、ほしゆきさんが手に持っている変な形のライトがすごく明るいから、足元も周りもよく見えた。


 真っ赤な鳥居の横を通り過ぎて、細い道に入っていく。

 古びた看板が見えたけど、ライトが当たったのは一瞬だったので、何が書かれているのかは分からなかった。


 進むにつれて道は狭く、険しくなっていった。

 ほしゆきさんが持っていたライトを私が持って足元を照らし、手を繋いだまま引っ張られるように歩いて行く。

 暗い崖の下に広がる黒い海は怖かったけど、繋いでいる手が頼もしくて、安心感の方が勝っていた。

 そのうち、なんだか探検隊になったみたいで楽しくなってきた。

 葉っぱが顔に当たったりする度に笑いがこみ上げてくる。

 二人で冒険をしている。

 それがすごく楽しくて、嬉しかった。


 しばらく上ると、急に木が途切れて視界が広がった。


「ここでいいか。……百合香ちゃん、手離すけど落ちないようにね」

「大丈夫だよー」


 相変わらずほしゆきさんは心配性だ。

 それなりに幅のある道になっているし、よっぽどのことがなければ落ちる心配なんてないのに。


 ほしゆきさんはリュックから拳銃を取り出して、大きく振りかぶって放り投げた。

 暗くて、波と風の音しかしなくて、本当に投げたかどうかも分からない。

 次に拳銃の部品みたいなものを取り出して、それも同じように投げた。

 ふう、と安心したようなため息が聞こえたので、終わったんだろう。


「もうおしまい?」

「うん。おしまい」

「見つからなくてよかったね」

「帰るまでが遠足だからね、気を抜いちゃ駄目だよ」

「遠足じゃないよー」


 帰りもまた手を繋いで道を下っていったけど、行きよりずっと早く戻れた。

 まあ私が面白がって、ちょっと駆け足で下りたりしたせいなんだけど。

 本当に危ないから駄目だよって、ちょっと怒られた。

 ほしゆきさんも楽しそうな声出していたくせに、って言ったら、あれは怖くて叫んでたんだって言われた。

 ほしゆきさん、意外と怖がりなんだな。


 宿に戻ってからお風呂に入って、並んだお布団の中に潜り込むと、ほしゆきさんはすぐに寝息を立て始めた。

 今日一日、私のために色々してくれて、疲れていたのかもしれない。


「……いつもありがと」


 小声でそう言ってから、私も目を閉じる。

 そういえばほしゆきさんと並んで寝るのは初めてだなあと思いながら、どこか懐かしいような感覚に身を任せていくうちに、意識が遠のいていった。

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