第19話 広野星行

 紅茶を飲み過ぎたせいでトイレを借りた後、席に戻る時に主人に話しかけられた。


「可愛らしい娘さんですね。今日は観光に?」

「まあ……普段あまり休みが取れないので、ちょっと早いですけど」

「このくらいの時期もいいものですよ。まだそれほど人も多くないですから、のんびりできますし。泳げなくても釣りとかね、色々楽しめますよ」

「釣りですか……あっちの堤防って、夜釣りとかする人も多いんですかね?」


 僕はそれとなく、堤防の情報を探るつもりで話を振ってみた。

 すると予想以上に、主人は食いついてきた。


「ええ、あそこは知る人ぞ知る穴場ってやつでしてね、夜もそれなりに釣ってる人がいますよ。釣りは結構やるんですか?」

「いえ、素人です。ここに来る時に見かけて、何か釣れるのかなと」

「そうですねえ、今だとクロダイとかカワハギ……アジなんかも釣れますよ。ご家族連れならイワシを狙うのがおすすめで……」


 どうやら主人は釣りが趣味らしく、それからしばらく釣りの話が止まらなかった。

 特に釣りに興味がない僕としては困ってしまったけど、あの堤防で拳銃を捨てるのは止めておいた方がいいと分かったので、有意義ではあった。


「……私にもあのくらいの娘がいたんですが、一緒に釣りに行った夏の日のことは今でもよく覚えています……あなたたちもどうぞ、楽しんでいってください」


 しばらく釣りの話をした後、そうしみじみと呟いた主人の目は、眠る百合香ちゃんの姿をその娘さんに重ねているようだった。

 この人にもこれまでの人生があって、色々と複雑な事情があるのかもしれない。

 でも、お互いそれ以上は踏み込めないような空気がそこにはあった。

 だから僕は、無難な返事を返して席に戻ることしかできなかった。


 それから十分ほど経ってから百合香ちゃんが目を覚ましたので、僕たちは店を出て宿に戻ることにした。


 帰りの道では海とは反対方向を観察してみたけど、こういうリゾート地にも当然ながら普通の民家が建っている。

 海の見える場所で日常生活を送るというのはどういう感覚なんだろう。

 家の近くに建っているトタン屋根の小屋はもれなく錆びついていて、潮風の影響を感じた。

 喫茶店の主人の話では車も錆びやすいらしく、そういう面では大変だなと思う。

 海の近くに住むというのはある種のロマンだけど、実行に移すとなればこういう現実にも向き合う必要がある。

 ……やっぱり夏にちょっと遊びに来るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。


 宿に戻ってからはのんびりと過ごした。

 百合香ちゃんが家から百人一首を持ってきていたので、二人で遊んだりしたけど、僕の腕ではもう全然かなわなくなっていた。

 聞けば、ほとんど全部の歌を暗記したそうだ。子供の成長は目覚ましい。

 でも、せっかく覚えても相手が僕だけというのは気の毒な気がする。

 都内なら探せば百人一首の教室なんかはたくさんあるだろうから、申込みを検討するのもありかもしれないなと思った。


 夕食は、食堂のような場所で宿泊客が揃って食べる形式だった。

 小さな民宿ならではのアットホームな感じだ。

 まだ海水浴シーズンには早い上に平日だからか、僕たちの他には年配の夫婦が一組だけしかいなかった。

 お互い軽く会釈をして席に着く。


 料理はやはり、海のものが多かった。

 定番の刺し身はもちろん、焼き魚や酢の物、それに加えて何故かゴーヤーチャンプルーと、赤くて小さな固い豆腐みたいな……なんていう名前だったか忘れたけど、お酒のつまみによさそうなやつまで出てきた。

 この宿の料理人が沖縄料理好きなんだろうか。


 お酒は何にするかと聞かれたけど、断ってお茶にしてもらった。

 今夜、拳銃を捨てに行く時に酔っ払っている訳にはいかないというのもあるけど、そもそも僕は普段からあまりお酒を飲まないタイプだ。

 飲み会などに誘われれば飲むけど、自分で進んで飲もうとは思わない。

 数年前……最初の会社で働いていた頃は、かなり飲んでいたけど……あれはほとんど現実逃避のためだったからなあ。


 百合香ちゃんはゴーヤが苦いといって残していた以外は、それなりに量があるのに綺麗に食べていた。

 豆腐のやつは変な味がすると言いながら、ちびちび食べていた。

 僕は百合香ちゃんが残した分も食べたので、お腹いっぱいになってしまった。

 しばらく動けそうにない。少し休んでから行動を開始する必要がある。


「あのー、夜ちょっと海に遊びに行こうと思うんですけど、大丈夫ですかね?」

「日付が変わる前に戻って頂ければ大丈夫ですよ。あちらのご夫婦も夜釣りに行かれるそうですし、そういうお客様はたくさんいらっしゃいますから」


 食器を片付けに来た女将さんに聞いてみると、夜間の外出は問題なさそうだった。

 ただ、夜になると潮が満ちて危険なので海には入らないようにと注意された。

 確かに、昼間とは景色が全然違うだろうし、気をつける必要はありそうだ。


 部屋に戻り、しばらくダラダラと過ごす。

 僕はスマホでこの辺りの情報を調べていた。

 昼間、港に向かって歩いている際にちらっと見えた横道を入っていくと、どうやら神社に行けるらしい。

 その道は海に面した崖のようになっていて、木々が生い茂っているのだとか。

 今夜はとりあえずそこに行ってみようと考えていた。

 人気ひとけは少なそうだし、海で遊ぶような場所でもないから、捨てた後に拳銃が見つかる可能性も低いだろう。

 そこが駄目そうなら後は、国道沿いで車が来ない時を狙って遠投するしかない。


 そろそろいい感じの時間になったので出発の準備をしていると、百合香ちゃんも一緒になって着替え始めた。


「えっと……百合香ちゃんはここで待ってるっていうのは……」

「えー」


 あからさまに不満そうな顔をされた。

 ほっぺたが膨らんでいて可愛い。


「ほら、夜の道は危ないし」

「ほしゆきさん一人で歩いてたら変な人だと思われるよ」

「うっ、それは確かに……」


 宿の人も、父親が娘を置いて一人で出ていったら不審に思うかもしれないか。

 できれば危ない場所には連れて行きたくないんだけど、残念ながら理が通っているのは百合香ちゃんの意見だ。

 僕は仕方なく、百合香ちゃんも連れて行くことにした。


 等間隔に並ぶ街灯のおかげで、夜の道はそれほど暗くはない。

 しかし、潮が満ちた海は真っ黒で、それがちゃぷちゃぷと音を立てているのは得体の知れない怖さがある。

 柵はあるけど間違っても百合香ちゃんが海に落ちないように、僕は海側を歩いた。


 ネットで調べた通り、横道を入っていくと、小さな鳥居が見えた。

 ここが入口のようで、神社へと続く急な階段が見える。

 この辺りまで来ると街灯の光はとっくに届かなくなっていて、手持ちのライトだけが頼りなく周囲を照らし出していた。

 当然のように、周囲に人の気配はない。

 僕たちは階段を登らずに、回り込むように続いている道を歩いていった。


 道はかなり狭く、すぐ隣は海へと続く崖だ。

 上り坂になっているためどんどん危険度が増していくにも関わらず、転落防止用の柵などは設置されていない。

 はっきり言って当初の予想より遥かに危険な場所だった。


 僕は百合香ちゃんにライトを持ってもらい、右手で百合香ちゃんの手を、左手で木などの掴めそうなものを掴みながら進むことにした。

 暗闇が足元を不安定にしているためか、疲労が加速する。

 危ない場所なのに、百合香ちゃんは肝試しのような感覚で逆に楽しくなったのか、笑いながらキャーキャーとはしゃいでいた。

 あまり声を出すと人に気付かれそうだけど、そんな注意をする余裕もない。

 まあそもそも、こんな時間にこんな場所に来る人など誰もいないだろう。


 しばらく登ると視界が開けて、足元も安定した場所に出た。

 ライトで照らすと、眼下には黒い海が広がっている。

 純粋な恐怖が頭の奥に染み込んできて、僕は百合香ちゃんの手を強く握った。


 しかし、いつまでもそうしている訳にもいかない。

 これ以上進むと道が海から離れていきそうだったので、ここで捨てることにした。


 リュックサックから、緩衝材で包んだ拳銃を慎重に取り出し、なるべく遠くまで飛ぶように全力で放り投げた。

 黒い拳銃は手から離れた瞬間に見えなくなり、海に落ちる音すら風と波の音にかき消されて聞こえなかった。

 続いて、取り外してあったマガジンも、同じく放り投げる。


 あっけない、というのが最初に抱いた感想だった。

 例え今この場所で捕まったとしても、何をしていたかさえ言わなければ、あの拳銃はもう誰にもどうすることもできないだろう。

 こんなことならもっと早く捨てておくべきだったなと改めて思う。


 とりあえず、こんな場所に長居する理由はもうなくなった。

 僕は行き以上に慎重に、帰りの道を歩いた。


 家に帰るまでが遠足とはよく言ったものだ。

 百合香ちゃんと一緒に無事に宿に帰りついた時、ようやく安堵のため息が出た。

 気付けば、ずっと握っていた手が汗ばんでいる。

 やむにやまれず、初めて手をつないだまま帰ってきてしまったけど……罪悪感や胸の高鳴りなどは一切なく、それはごく当たり前の、自然な行為だったように思えた。


 熱いお風呂に入り、色々な疲れを洗い流してから布団に潜り込むと、自分でも驚くくらいの早さで眠りに落ちていった。

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