そうだ、海に行こう

第18話 広野星行

 タクシーで高速を乗り継いで約四時間。

 途中でゆっくり休憩を挟みながら、午前十一時頃には伊豆半島に到着した。

 天気は晴れ。まだ七月に入ったばかりなのに、空気は完全に夏だ。


「なんかくさい」


 タクシーから降りて、道路の向こう側に広がる海を見た百合香ちゃんの最初の感想はそれだった。


「磯の香りってやつだね」


 今まで海に来たことがない百合香ちゃんにとっては、この独特のにおいは少しきついのかもしれない。


 海開きもまだなのに海まで足を運んだのは、拳銃を捨てるためだ。

 押し入れの奥にしまい込んで問題を後回しにし続けたあげく、百合香ちゃんを危険な目に遭わせるところだった。

 今の僕にはもう、こんな危ないものは必要ない。


 色々調べた結果、海に捨てるのが良さそうだと僕が言ったら、百合香ちゃんが全力で一緒に行きたいオーラを出してきたので、仕方なく同行させることにしたのだ。

 まあ、余裕があればついでに観光するのもいいかもしれない。


 なるべく人目につかない夜に捨てる予定なので、一泊する必要がある。

 しかしそうなると叔父おじめいという設定は少し厳しいかもしれないと思い、今回に限り親子の設定で行くことにした。


 予約していた民宿の主人に挨拶するが、特に不審な目で見られることもなく部屋に案内される。

 民宿の中は、なぜか少しお寿司屋さんのようなにおいがした。どちらも魚介類を扱うからだろうか。

 部屋の窓からは、道路を挟むけど一応海が見える。

 百合香ちゃんはあちこち見回して楽しそうにしていた。


「夜までどうしようか」

「海、見に行きたい」


 予想通り、即答だ。

 ということで、夜までぶらぶら歩いて時間を潰すことになった。

 下見も兼ねて、周囲の様子を見ておく必要もあるし。

 迷ったけど、荷物は置いていくことにした。わざわざ危ないものを持ち歩いてリスクを増やす必要もない。

 部屋の中にはちゃんと貴重品を入れておく金庫があるので、そこにリュックサックを詰め込んでから外に出た。


 宿を出て少し歩けば、すぐに海水浴場が見えてくる。

 海開きはまだだけど、観光客らしき人たちがちらほら歩いていた。

 湾曲する砂浜を見渡すと、思いの外狭いなと思う。

 海水浴客が詰め込んだら、あっという間にぎゅうぎゅうになってしまいそうだ。

 子供の頃に来た海はもっと広く感じたけど……あの時の海岸が広かったのか、それとも大人になって遠くまで見渡せるようになったから狭く感じるだけなのか。


「ほし、パパー! カニがいる!」

「小さいカニだねえ。可愛いね」


 僕が物思いにふけっている間に、百合香ちゃんはいつの間にか靴を脱いで砂浜を駆け回っていた。

 個人的にはお父さんと呼ばれる方がよかったんだけど、百合香ちゃんの希望でパパ呼びが決定してしまったのだ。

 以前の買い物でおじさんと呼ばれた時は胸が痛かったけど、パパと呼ばれるのはなんかこう……むず痒いような恥ずかしさがある。


「波が冷たいー!」

「怪我しないようにね。遠くまで行っちゃだめだよ」


 僕の年齢なら、若い頃に結婚していれば百合香ちゃんくらいの子供がいてもおかしくはないけど……ついつい、不自然じゃないかと周囲の反応をうかがってしまう。

 まあ当然、僕たちに気を留めるような人なんて誰もいないんだけど。


 砂浜を少し歩いた後は、港の方に行ってみることにした。

 さすがに砂浜で銃を捨てる訳にはいかないから、本命はこっちだ。


 車が行き交う国道には広めの歩道があり、柵のすぐ向こうには海が広がっている。

 さっきの砂浜も遠くに見える、いいロケーションだ。

 車の通行量はそれほど多くなく、このまま柵の向こうにポイッと銃を捨てても気付かれないんじゃないかな、とか思うけど……まあ、夜になってから考えよう。


 少し歩くと堤防にたどり着いた。

 車が何台か停まっていて、釣り人の姿が見える。

 どうやら釣りのスポットが決まっているらしく、堤防の先の方にはあまり人がいないようだ。


 堤防の上を歩いてみると、柵もないすぐそばに海があるので結構怖い。

 しかも意外と水深が深いようで、底が見えない。

 百合香ちゃんが落ちないか心配で隣を見ると、落ち着いた様子で歩いていた。

 こういう場所で急に走り出すような子じゃないから大丈夫か。


 岸壁の方を振り返って見れば釣り人の数はそれほど多くもなく、堤防の先のこの辺りなら拳銃を捨てるには良さそうな気がした。

 しかし念のためスマホでこの港の情報をちょっと探してみると、あまり良くない情報が出てきた。

 どうやら釣りをする人が多いせいか、ゴミが海に捨てられる頻度も高いため、定期的に海底清掃を行っているらしい。

 それほど頻繁に行っている訳ではないだろうけど……悩むところだ。


 その後、港の近くにある定食屋さんで昼食を食べることにした。

 百合香ちゃんは海鮮丼、僕はうにいくら丼を注文した。


 ……別に、僕だけ豪華なものを選んだ訳ではない。


 僕は甘エビを食べると喉が痒くなるので、それを避けただけだ。

 火を通してあるもの……エビフライとかは大丈夫なのに、甘エビだけはなぜか駄目なのだから仕方がない。

 それに、海のすぐ近くだけあって海鮮丼に乗っている食材のバラエティーはちょっとしたものだし、値段もそれほど変わらないから平等と言える。うん。


「おいしい?」

「おいしー」

「こっちもちょっと食べる?」

「うん。じゃあ交換ね」


 丼を交換して、赤身の刺し身を食べてみた。

 多分マグロだと思うけど、魚に詳しくない僕では判別がつかない。

 味は、別に何の魚でもいいやと思うくらいプリプリしていて美味しかった。


「うにはどう? おいしい?」

「卵かけご飯みたい」


 感想を聞くと、そんな返事が返ってきた。

 まあ、ある意味卵かけご飯みたいなものか……

 鮮度が良いからか、安いうに特有の変なにおいや苦味がないので、うにを初めて食べるらしい百合香ちゃんでも美味しく食べられたようで良かった。


 店を出て更に歩くと、また別の海岸が見えてきた。

 海岸から道路を挟んだ向こう側には、たくさんのホテルや宿らしき建物が見える。

 シーズンになればあちらの方が人は多くなりそうだ。


 海岸に向かう道の途中に、ぽつりと喫茶店が立っているのを見つけた。

 喫茶店にしては小さくて、看板が出ていなければ見落としていたかもしれない。

 結構歩いたので休憩がてら、寄ってみることにした。


 ドアを開けると、ひと目で店の奥まで見渡せる。

 僕たちの他にはお客さんはいないようだ。

 本当に営業しているのかちょっと不安になったけど、エプロンをつけた優しそうな男性が出迎えてくれた。

 五十代後半くらいに見える店の主人は話好きな人のようで、このお店は夏しかやっていない別荘のようなものであることや、海開きのシーズンに向けて慣らし運転のように店を開いていることなどを、聞いてもいないのに教えてくれた。


「好きなもの注文していいよ」

「いいの? じゃあ……これにする」


 海が見える席に案内された僕たちは、特に不審がられることもなく、普通の親子連れとして認識されたようだった。

 そのことに若干の安堵を覚えつつ、僕は紅茶を、百合香ちゃんはクリームソーダを注文する。


 しばらくして運ばれてきた紅茶は、僕の意に反してホットだった。

 しまった。冷たいやつはアイスティーで、温かいのは紅茶っていう表記なのか。

 メニューを指さして注文したから確認もされなかったんだな。

 しかもこれ、ポットごと運ばれてきて結構量があるけど……まあ、冷房が効いた店内で温かい紅茶というのも悪くないか。


 百合香ちゃんは長い距離を歩いたせいで喉が渇いていたのか、クリームソーダをすぐに飲み終えてしまった。

 店内の穏やかで微かなBGMのおかげか、気怠いようにすら感じられる午後の静かな時間を、お互いに言葉少なく過ごす。

 それは決して気まずい沈黙ではなく、癒やしをもたらすような時間に思えた。


 気がつくと、百合香ちゃんは壁にもたれかかって目を閉じていた。

 今朝は早起きしたし、行きのタクシーでも終始はしゃいでいたから、ここに来て疲れが出たのかもしれない。

 空になったグラスを取りに来た主人が、眠る百合香ちゃんを見て微笑む。


「すみません、ちょっと疲れちゃったみたいで」

「いいんですよ。他にお客さんもいませんし、ゆっくりしていってください」


 僕はお言葉に甘えて、百合香ちゃんを起こさずにもう少し休むことにした。

 よく晴れた海と、百合香ちゃんの寝顔を交互に見る。

 キラキラと輝いていて、僕はその眩しさに思わず目を細める。

 こんなに幸福な時間があっていいのだろうかと、ふと思った。

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