第15話 岸部百合香

 たとえば朝起きて、顔を洗う時。

 夜、お風呂に入っている時。

 前髪が邪魔だな~と思うようになってきた。


 こんなに前髪が伸びているのは、一回目の家出のせいだ。

 そろそろ髪を切りたいなっていう頃に家出をしたのが良くなかった。

 その後ずっと外出を禁止されたから、伸びっぱなしになってしまったのだ。


 クリップでとめている時はいいけど、ずっと付けている訳にもいかないし。

 もう面倒だから切ってしまおうと思って、ハサミを探した。


 探すと言っても、私が寝起きしている居間には棚みたいなものがない。

 たぶんわざとだと思うけど、ここだけ物が少なすぎる。

 台所に行って少し探してみたけど、キッチンばさみしかなかった。

 髪を切るためにこれを使ったら怒られそうだ。

 となると、残っている場所は一つしかない。


「ほしゆきさん、ハサミある?」


 ほしゆきさんの寝室のふすまをノックして、私は声をかけた。

 今日と明日はお休みで、今はパソコンで何かしているらしい。


「ハサミって、これでいい?」


 すぐに襖が開いて、ハサミの持ち手をこっちに向けたほしゆきさんが顔を出した。

 ちらっと隙間から部屋の中が見える。

 ……かなりごちゃごちゃしてる。

 部屋の中に色々なものを詰め込んでいるみたいだ。

 特に入っちゃ駄目とは言われてないけど、ほしゆきさんがお仕事の時も、私は寝室の襖を開けたことはなかった。

 親しき仲にも礼儀あり、だ。


「うん。ありがとう」


 私はお礼を言ってハサミを受け取ると、ゴミ箱の前まで移動した。

 前髪クリップを外してから手鏡を左手に持って、右手でハサミを構える。


 ……これ、両手が塞がっちゃうから、前髪を指でつまんで切れないな。

 どうしよう。一気に難易度が上がってる。


「ちょっ、ちょっと待って」

「なに?」


 どうしようかと悩んでいると、後ろからほしゆきさんに声をかけられた。

 なんだか慌てている。


「髪、切るの?」

「うん」

「えっと……自分でやるのは危ないからやめようか」

「えー」


 危なくないよ、と思ったけど、片手だけで切るのは確かに危ないかも……

 揺れる前髪を追いかけて、ハサミが目に入ったらと思うとちょっと怖いし。


「じゃあ、ほしゆきさんがやって」

「いやー……せっかくだから、ちゃんとプロの美容師さんにやってもらおう」

「おー」


 ほしゆきさんはスマホで美容室を探し始めてくれた。

 美容室かあ。久しぶりだ。

 一緒に美容室に行ってくれていた頃はまだ、ママが優しかったな。


「百合香ちゃん……これ、わかる?」


 と、昔のことを思い出していたら、ほしゆきさんがスマホの画面を見せてきた。

 どのコースを予約するか選ぶところみたいだ。

 色々書かれているけど、私は今までずっとママが予約してくれていたから、さっぱり分からない。


「んー……」


 画面をスーッと指でなぞって下にスクロールさせてみた。

 色々なコースが次々出てきて、その最後に『小学生カット』というのがあった。


「ほしゆきさん、これ」

「おお、なんて分かりやすいコース名……ありがと、百合香ちゃん」


 それからすぐに予約が取れたみたいで、明日、美容室に行くことになった。

 夜になってからやって来たトラにも、明日髪を切りに行くことを伝える。


「これから暑くなるから、ちょうど良さそうじゃな」

「トラは髪の毛どうやって切ってるの?」

「猫はこのくらいの時期になるとごっそり毛が抜けて夏毛に生え変わる」

「え……」

「……が、わしは座敷わらしじゃから髪は伸びも縮みもせん」

「びっくりしたー。トラの髪の毛全部抜けちゃうのかと思った」

「んなわけあるかい。こう見えて一応ありがたい存在じゃぞ。髪の毛一本にも神性が宿っとる。そうホイホイ抜けてたまるか」

「ふーん」


 試しにトラの髪を手ぐしでいてみたけど、本当に一本も抜けなかった。

 私の髪よりもずっと細くて、つるつるしていて、ちょっとミルクの匂いがする。

 髪が伸びないのは便利と言えば便利だけど、例えばハサミで切っちゃったらもう戻らないのかな? とか思ったけど……

 なんとなく、すぐに元に戻るか、全然切れないかのどっちかのような気がした。


 次の日。

 お買い物に行った時と同じように、タクシーで美容室に向かった。

 今日のメガネはふち無しのやつをかけている。

 街中を歩き回る訳じゃないし、どうせ髪を切る時は外すだろうと思ったからだ。

 それにやっぱり、ほしゆきさんが選んでくれたやつの方が気に入っているから、っていうのもある。


 到着したお店は、前に行ってた美容室より広くはなかったけど、きれいだった。

 店員さんは全員女の人で、服装や雰囲気がみんなバラバラだ。


「じゃあ、よろしくお願いします」


 私はカット用の椅子に案内されて、ほしゆきさんはちょっと離れた所で座って待っている。

 ほんのちょっとだけ、心細いような気持ちになった。


「よろしくね~。何年生かな?」

「四年生です」


 私を担当してくれるのは、真っ黒い短髪の、格好いい感じの女の人だった。


「そっか~。今日はどんな感じにする? ずいぶん前髪長いね」

「えっと……」


 言うのをちょっとだけためらう。

 でも、美容室に行くって決まった昨日から、ずっと考えていたことだ。

 私は思い切って口を開く。


「ショートカットにしてください」

「お? いいの?」

「はい」

「まあ髪なんてすぐに伸びるもんね。じゃあこの中から、どんな感じがいいかイメージを教えて」


 女の人は結構サバサバした感じで、ヘアカタログみたいなものを手渡してくれた。

 子供用だけかと思ったら、大人のモデルさんも載っている。


「こんな感じで……」

「いいね。ちょっとだけマスク外してみてもらっていい? イメージ掴みたいから」

「はい」

「やっぱ美人さんだねえ。こりゃ将来モテて大変だよ」

「そうかな……」

「髪質が素直だから、サイドはもうちょっとこう……」


 切り始める前に、どういう形にした方がいいかしっかりと相談してくれる。

 こういうのがプロっていうのかなと思った。

 この人なら信頼できる、って思わせる感じ。


 ザクザクと髪が短くなっていくのを見ているのは、けっこう面白かった。

 移動してシャンプーをしてもらい、最後にセットの仕方を教えてもらって終わり。

 思ったよりも早く済んだ。


「終わったよー」


 ほしゆきさんは集中して雑誌を見ていた。

 覗き込んでみると、猫がいっぱい載っている。

 猫好きだなあ、この人。


「おっ……す、すごく……可愛いくしてもらったね」


 私を見たほしゆきさんは、なぜか息をつまらせていた。

 別人みたいになってびっくりしたかな?


 昨日美容室に行くことが決まってから考えたのは、まさに別人みたいになれるチャンスだということだった。

 私は小さい頃からずっと長い髪だったから、ママも私の写真は長い髪のやつしか持っていないと思う。

 ここで思い切って短くしてしまえば、もっと見つかりにくくなるだろうと思った。

 そうすれば、もっと気軽に外を出歩けるようになって、パパを探すために色々な所に行けるようになるかもしれない。


 まあ、長い髪がうっとうしかったっていうのも嘘じゃないけど。


 初めてのショートヘアは首や肩が涼しくて、ちょっと心もとない。

 今までずっとガードされていた部分が丸出しになっているから、落ち着かないようなソワソワするような気持ちになる。

 でも、頭が驚くほど軽くなっているのはちょっとテンションが上った。

 何度も首を振って確かめたくなる。

 そんな少し子供っぽい私の仕草を見て、ほしゆきさんはいい笑顔になっていた。


 家に帰ってからも、何度も私に可愛いって言ってくれて、嬉しかったけどちょっと恥ずかしくなった。

 夜にやって来たトラは「知らん子供かと思った」って真顔で言っていたけど……さすがに冗談だよね?


 次の日の朝、カーテンを開けると首筋に光が当たって、窓を開けると鼻に感じる空気のにおいさえ違うような気がして、ああ、夏が来たんだな、って思った。


 これまでとは何もかもが違う。

 きっとこれからは、知らない時間だ。

 忘れられない季節になるような予感がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る