髪を切ろう

第15話 広野星行

「ほしゆきさん、ハサミある?」


 予定のない休日の午前中。

 寝室のPCでネットを眺めていると、控えめにふすまをノックする音の後に、百合香ちゃんの声が聞こえた。


 僕は居間にはなるべく物を置かないと決めていて、ほとんどの細々こまごまとした物は台所の収納にしまってある。

 その中でもそれなりに使う頻度が高いもの、例えば爪切りとかハサミとかは寝室に置いてあるから、百合香ちゃんも見つけられなかったのだろう。


「ハサミって、これでいい?」

「うん。ありがとう」


 襖を開けて、ハサミを手渡す。

 何か工作でもするのかな? と思って、襖を開けたままの姿勢で見ていると、百合香ちゃんはなぜかゴミ箱の前に歩いていった。

 左手には手鏡、右手にはハサミ。

 ゴミ箱の前でぺたんと座り、手鏡を見ながら、自分の前髪をハサミで……


「ちょっ、ちょっと待って」


 僕は思わず大きめの声で制止した。


「なに?」


 こちらを振り向き、首を傾げる百合香ちゃん。

 クリップを外した前髪がすだれのように目にかかっている。だいぶ長くなっているようだ。

 なるほど。さすがに前髪が邪魔になってきたから、自分で切ろうとしていたのか。


「髪、切るの?」

「うん」

「えっと……自分でやるのは危ないからやめようか」

「えー」


 普通のハサミで髪を切るのはやめた方がいいというのは、一度でもやったことがある人なら分かると思う。

 ほぼ間違いなく悲惨なことになるから。


「じゃあ、ほしゆきさんがやってくれる?」

「僕も他人の髪を切った経験はないからなあ……ここはちゃんとプロの美容師さんにやってもらおう」

「おー」


 スマホで美容室を検索する。

 幸い連休だから、明日空いているところがあればいいんだけど……

 そう思って調べてみると、かなりの数の美容室が出てきた。

 商店街の千円カットで済ませている僕には縁がないから知らなかったけど、美容室ってたくさんあるんだなあと感心してしまう。

 二駅くらい離れた場所でいくつか絞り込み、予約のページにまで進んだ所で、僕の手は一瞬止まってしまった。


 え、なにこれ。予約の種類が多すぎる。


 カット&カラー、カット&トリートメント、髪質改善、縮毛矯正、保湿、デザインカット、などなど……

 まいった。

 美容室ってこんなに複雑なのか……全然わからん。


「百合香ちゃん……これ、わかる?」

「わかんない」


 そりゃそうか。

 混乱しながらも色々と探していると、『小学生カット』というのを見つけた。

 こ、これだ! と思わず飛びつく。

 幸い、明日の早い時間から予約が空いていたので、無事申し込むことができた。


「とりあえず予約できたから……明日、美容室に行こうか」

「わーい」


 予約するだけでどっと疲れてしまった。

 髪の長い人は大変なんだなあと思う。

 でもまあ、百合香ちゃんが楽しみにしてくれいる様子なので良かった。


 翌日。

 前回の買い物の時と同じように、タクシーで移動する。

 私服にマスク、メガネも加わって、百合香ちゃんの変装はバッチリ……だと思う。


 到着したのは、まるで喫茶店のような開放感のあるお店だった。

 というかお店の前に置かれた小さい黒板にメニューが書かれてるのとか、ちょっと見ただけじゃ喫茶店と区別がつかないなこれ。

 若干緊張しながら入店し、予約していたことを告げると、すぐに席に案内された。


「じゃあ、よろしくお願いします」


 女性のスタッフさんに百合香ちゃんをお任せした後、僕はどこで待っていればいいのか分からず周りを見回していると、待合用の席を案内された。

 特に仕切りなどないから、カットしている人がよく見える。

 百合香ちゃんは担当してくれる人と何か話しているようだ。


 どうにも場違い感があって落ち着かないので、僕は近くのラックに用意されていた雑誌を適当に取ってから椅子に座った。


 お、これはペット特集か……へえ、猫って腎臓病になりやすいんだな。

 トラは大丈夫かな。大家のおばあさんは面倒見が良いから、検診とか連れて行ってくれてるといいんだけど。


 そんなことを考えながら犬猫の写真を眺めていたら、そこそこ時間が経っていた。


「終わったよー」

「おっ……」


 百合香ちゃんの声を聞いて雑誌から目を上げた僕は、不意打ちの衝撃で言葉が出なくなってしまった。


 髪が……短い!


 あの長かった髪がバッサリと切られて、百合香ちゃんは別人のようになっていた。


 いや、というかめちゃくちゃ可愛い。

 驚くほどツヤツヤの前髪がサラリと横に流れていて、すごく大人っぽい。

 今まで隠れていた首筋から肩までのラインが綺麗に出ていて、それを直視するだけで心臓の鼓動が危険な状態になる。

 こういうのは何というのか……ショートボブ?

 夏らしくサッパリとした、子供らしい中に大人っぽさを漂わせる……駄目だ、言葉が渋滞してうまい表現ができない。


「すごく……可愛いくしてもらったね」


 五十年に一度と言われた可愛さを持つ昨日までを更に超える最高の可愛さ、とか。

 美という概念に生命を与えたらこういう姿になる、とか。

 この奇跡的バランスの美と愛くるしさを後世に残さないのは世界の損失、とか。


 ……そういった溢れ出そうになる気持ち悪い賛美の言葉をぐっと飲み込んで、僕は無難に保護者っぽい感想をどうにかひねり出した。


「首がすーすーする」

「髪長かったからねえ。思い切ったね」

「うん。寝る時とか邪魔だったし」

「そうなんだ。すごく似合ってるよ。可愛い」

「へへ」


 いつまでも褒めちぎってしまいそうだったので、お会計をして美容室を後にした。

 百合香ちゃんは歩きながら何度も首を振って、軽くなった頭を面白がっている。

 その度にふわりと飛ぶように広がる髪が日の光で輝いて、何度も僕の胸を打つ。


「ひょっとして、こんなに短くするのは初めて?」

「うん。小さい時から長かったから、短いのもやってみたかった」

「何かこだわりがあったんじゃないの?」

「そういうのは特に。なんとなく伸ばしてただけだし」


 しかし、まさかここまでショートにするとは思わなかったな。

 正直、前髪を切って全体的に形を整えるくらいかと思っていた。

 ロングの百合香ちゃんももちろん可愛かったけど、ショートの方が断然良いと今では思ってしまう。


 ここまで印象が変わると、もはや別人だ。

 これなら……マスクとメガネも合わせれば、仮に写真を提供された警察が探していたとしても、見つからないような気がする。

 もちろん油断は禁物だけど。もう少し百合香ちゃんと一緒に外出する機会を増やしてもいいかな、と思った。

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