第5話 岸辺百合香

「というわけでちょっと出かけてくるけど、何か欲しい物ある?」


 しばらく家に泊めてもらうことになって、ほしゆきさんは私が生活するのに必要なものを買ってくると言った。

 私は屋根があってお風呂に入れてご飯を食べさせてくれるだけで十分だったけど、足りないものがあるとほしゆきさんも困るらしい。


「じゃあ、クリップ」

「クリップ?」

「前髪をとめるやつ」

「あー、分かった。それじゃあ行くけど、誰か来てもドアは開けなくていいからね」

「うん」

「暇だったら押入れの……いや、とりあえずテレビでも見てて」


 押入れの中に何かあるのかな。

 ちょっと気になったけど、勝手に見るのはやめておこう。


 ぼんやりと眺めるテレビの中では、ジャングルに雨が降っていた。

 緑がいっぱいの中に降る雨は、日本の雨と違って熱みたいなものを感じる。

 ポタポタと水たまりに落ちる水滴の音が楽しい。


 不意に、ガチャッと玄関の扉を開けようとする音が聞こえた。

 ほしゆきさんが帰ってきたのかと思ったけど、さっき出ていったばかりだし、ガチャガチャ音は何度も聞こえるのに入ってくる様子がない。

 私は少し怖くなった。

 警察の人が来たんじゃないかとか、お父さんが追いかけてきたんじゃないかとか。

 テレビを消して、毛布に潜り込んで息を潜めた。

 音がしなくなってからもじっとしていると、だんだん暑くなってくる。

 息も苦しくなってきて、毛布から這い出る。

 静かだった。

 遠くを飛ぶ飛行機の音が、逆に静かさを強くしているみたいだった。


 もう一度テレビをつける気にはなれず、私は大きい窓の近くに寝転がって、空を見上げた。

 大きい窓は上半分が透明で、下半分はぼんやりしている。

 空を見ているとすぐに心臓のドキドキが収まっていった。

 そして、最近はずっと胸の奥にもやもやしたものがあったのに、今はそれがないことに気がついた。

 知らない人の家なのにこんな気持ちになるのは、昔行ったことがあるおばあちゃんの家に似ているからかもしれない。


 太陽の光から逃げるようにごろごろしていると、また玄関の扉がガチャッと音を立てて、私は跳ねるように体を起こした。


「ただいま」


 ほしゆきさんの声がした。

 私はほっと息をついてから、とてとて歩いて、居間と台所を仕切っている横開きの木の扉を開けた。


「おかえり」


 ほしゆきさんは両手にいっぱいの荷物を持っていた。

 それが全部私のためのものだと思うと、嬉しいような、申し訳ないような気持ちになる。


「留守の間、何かあった?」


 そう聞かれたので、誰かが扉を開けようとしていたことを伝えた。

 するとほしゆきさんは、ああ、と笑って、


「それは猫だね」


 と言った。

 ええー、と私は声を上げる。

 だって、あれはどう聞いても人間がドアノブをガチャガチャやってる音だった。

 猫の手じゃ、あんなのは無理だ。

 

「大家のおばあさんが半分放し飼いにしてる、でっかい猫がいるんだ」

「猫はドアを開けられないと思う」

「頭がいい猫なんだ。それに器用でね、僕が家にいる時は鍵を開けておくんだけど、そうするとドアを開けて勝手に入ってくるんだよ」

「嘘だー」

「本当なんだけどなあ……」


 きっとほしゆきさんは私を子供だと思って、からかっているんだろう。

 荷物を片付けるのを手伝ってから、お昼ごはんになった。

 お昼はパンだった。

 パンは好きだ。

 コンビニでもおにぎりよりパンを買うくらい。

 でも、ほしゆきさんが買ってきてくれたパンは、今まで食べたどのパンよりおいしかった。


「これ、すごくおいしい。なんだっけ……」

「えーとそれは、多分パニーノかな」


 ほしゆきさんがレシートを見ながら教えてくれた。

 カリッとしたパンに、トマトとチーズとハム、それにレタスが挟まっている。

 そうそう、パニーノだ。


 お昼ごはんを食べ終わると、ほしゆきさんが小さな紙袋を渡してくれた。

 紙袋を開けると、果物やお花がついた可愛いクリップが、思っていたよりもたくさん入っている。

 うわあ、と私は一気に嬉しくなってしまった。


 パパが出ていった後、ママは私の誕生日をお祝いしてくれなくなった。

 プレゼントが欲しかった訳じゃないけど、それまで毎年お祝いしてくれていたのに、急に何の日でもないようにされるのがつらかった。

 きっとその時に溜まっていたぶんの喜びが、一気に出てきてしまったんだろう。


「ねえねえ、どう?」

「あぁ、うん、可愛いよ。似合ってる」


 お花のクリップで前髪をとめると、視界がサッと開ける。

 おでこがちょっと涼しくなって、なんだか世界が新しく見える。

 どうかな、ってほしゆきさんに笑いかけると、ほしゆきさんはなんだか照れたように笑って、可愛いって言ってくれた。

 私はますます嬉しくなって、洗面台の鏡の前を陣取って、色々な種類のクリップを試して遊んだ。


「ねえ、百合香ちゃん、ちょっといい?」


 しばらく洗面所で遊んでいると、ほしゆきさんから声をかけられた。

 なんだろうと思って居間に行くと、スマホの画面を見せられる。

 そこには、私と同じくらいの歳の女の子が、可愛い服を着ている写真がたくさん並んでいた。


「この中だと、どれがいい?」

「んー、これかな」

「これね」


 ほしゆきさんはその写真の下にあったカートのボタンを押す。

 お洋服の通販サイトだったみたいだ。


「え、買ってくれるの?」

「うん。私服もあった方がいいかと思って」

「えっじゃあちょっと待って、もう一回考える」

「はは、いいよ」


 それから私はほしゆきさんと一緒に、真剣に服を選んだ。

 結局、いいなと思うのが三つくらいあって、ほしゆきさんは全部買ってくれた。

 さすがにちょっと悪いなと思ったけど、でもやっぱりどれか一つには決められなさそうだったから、自分の気持ちに素直になって喜んでおいた。

 今日はちょっと貰いすぎた日だ。

 いつか、同じくらい返せるようにならないと。


 夕ご飯は麻婆豆腐だった。

 スプーンで一口食べると、すごく懐かしい味がした。

 なんだろう、と思って、頑張って思い出そうとしてみる。


「ごめん、辛かった?」

「んーん、おいしいよ」


 考え込んでいる私を、辛くて我慢していると思ったのか、ほしゆきさんが心配そうに聞いてきた。

 その顔を見ていると、少しだけ何かを思い出せそうになってくる。

 そうだ、確かすごく昔に、パパが作ってくれたような……

 ほとんど覚えていないけど、多分そうだと思う。

 懐かしいなあと思いながら、不思議な気持ちでご飯を食べ終えた。

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