共同生活の始まり

第5話 広野星行

 百合香ちゃんの話を聞いた後、僕は買い物に出かけることにした。

 どれくらいの期間になるかは分からないけど、彼女を本格的に家に置くと決めたからには、必要なものを買い揃えなければならない。


「というわけでちょっと出かけてくるけど、何か欲しい物ある?」


 僕が尋ねると、百合香ちゃんは少し悩んでから「クリップ」と答えた。


「クリップ?」

「前髪とめるやつです」

「あー」


 なるほど、ヘアピンみたいなものか。確かに百合香ちゃんは前髪が長いから、テレビを見る時に少し邪魔そうだ。


「分かった。それじゃあ行くけど、誰か来てもドアは開けなくていいからね」

「はい」

「暇だったら押入れの中に……いや、とりあえずテレビでも見てて」


 訪ねてくる人なんて誰もいないだろうけど、この家には時々猫が来る。

 大家さんが放し飼いにしている巨大な猫だ。

 あのでかい猫は頭がいいから、鍵が開いていると勝手にドアを開けて入ってくる。

 そのことを百合香ちゃんに伝え忘れていたな、と気付いた時にはもう電車に乗ってしまっていた。

 まあ、一応鍵はかけてきたし、大丈夫だろう。


 急行に乗り、そこそこ離れた駅で下りる。

 そんなに用心する必要はない気もするけど、なんとなく通い慣れた店に行くのは止めたほうがいいような気がした。

 初めて入る大きなデパートで、パッと思いつくものを手当り次第に買っていく。


 薄手の部屋着、パジャマ、ヘアブラシ、ドライヤー、シャンプーとリンスとトリートメント、洗顔料、化粧水、それと枕。

 美容品のたぐいはどれがいいか全然分からなかったので、小学生の女の子用ということを店員さんに説明して、お勧めされたものを片っ端から買っていった。

 それらの品をしまっておくための私物入れとして、組み立て式の収納ボックスもいくつか購入する。

 これは居間の隅っこにでも置けばいいだろう。


 下着類も普通に買って帰ろうと思っていたけど、いざ実際の売り場を目の前にすると予想以上のプレッシャーが襲ってきたため、仕方なくネットを頼ることにした。

 お急ぎ便でも明日到着になるらしいので、今夜はまた洗濯が終わるまでノーパンで我慢してもらうしかない。


 頼まれていたクリップは雑貨屋にあった。

 というかそのまんま『前髪クリップ』という名前で売っている。知らなかった。

 有名なキャラクターや見たことのないマスコットが付いたもの、大人っぽいもの、大きなものから小さなものまで、かなり種類が豊富だった。

 どれがいいか十五分ほど悩んだ末に、無難に花やフルーツなどの小さな飾りがついたものを買った。

 最後に夕飯用の食材と、百円ショップで細かいものをいくつか、そしてベーカリーで惣菜パンを買って、帰りの電車に乗る頃には正午になろうとしていた。


 電車に揺られながら、ふと思いついて、捜索願についてスマホで調べてみる。

 捜索願が出されるとどうなるか全く知らなかったのだけれど、各都道府県警察のページにかなり詳しい情報が載るようだった。

 試しに山梨県の警察のページに飛ぶと、数件の行方不明者情報が出てくる。

 行方不明になった日付、名前、年齢性別、身長体重、服装……

 家族が提供したと思しき写真が付いていて、その生々しさに自分でもよく分からない息苦しさを覚えた。

 幸いと言うべきかなんというか、百合香ちゃんの情報はなかった。

 彼女が家を出て今日で三日目のはずだけど……まだ捜索願が出されていない?

 それとも警察の方でネットにアップするのが遅れているだけとか?

 どちらにせよ、すぐにでも彼女の情報がそこに加わる可能性はある。

 僕はその行方不明者情報のページをブックマークした。


「ただいま」


 家に帰った時に挨拶するのも、本当に久しぶりだ。

 かなり多くなってしまった荷物を置いて居間に顔を出すと、百合香ちゃんはソファの上で毛布に包まったまま、顔だけ出してこちらを見てきた。


「ほしゆきさん……」

「留守の間、何かあった?」


 百合香ちゃんは毛布から這い出てから、何か言いたげにこちらを見つめてきたので、そう聞いてみる。


「なんか、ガチャガチャってされました。ドア」

「誰か来たのかな? チャイム鳴った?」

「鳴ってないです」

「ああ、それじゃあ多分猫だな」

「猫?」

「そう。大家のおばあさんが半分放し飼いにしてる、でっかい猫がいてね。この家にもたまに入ってくるんだよ」

「え、猫がドアを……?」

「頭がいい猫なんだ。ドアノブくらいなら開けちゃう。本当だよ」

「ふーん……」


 百合香ちゃんは半信半疑といった様子だったが、それほど関心があるわけではないらしく、すぐに顔を背けた。

 確か昨日、大家のおばあさんと鉢合わせた時に猫を抱えていたのを百合香ちゃんも見ていたはずだけど……まあ状況が状況だったから、覚えていないのかもしれない。


 昼食は、ベーカリーで買ってきたパンだ。

 ちゃんとしたパン屋さんのパンは美味しいけどコスパが非常に悪いので、こういう食事は僕にしては珍しい。まあ、たまにはいいだろう。

 百合香ちゃんは相変わらず美味しそうに、一心不乱に食べる。とても可愛い。


 食後に、買ってきた前髪クリップを渡すと、予想以上に喜んでくれた。

 さっそくレモンの飾りが付いたクリップで前髪を留めて、一緒に買ってきた手鏡で角度を変えて眺めている。


「いいね。似合ってる」


 隠れていたおでこを半分くらい覗かせた彼女の顔は、活発なイメージを抱かせるような目の光の強さと、端正な顔立ちを見せていた。

 美しさと可愛らしさ、それに加えて溢れ出る生命力のような眩しさを直接目にしてしまった僕は、危うく言葉を失うところだった。


 それから百合香ちゃんは洗面所の鏡の前に行って、いくつもクリップを髪に付けては見比べて遊んでいた。

 その楽しそうな笑顔に心が洗われる。

 少しだけ、警戒心を解いてくれただろうか。

 好ましく思っている相手に喜んでもらえることが、怯えたような目を向けられないということが、こんなにも嬉しいだなんて。

 彼女と出会わなければ多分僕は一生知らなかっただろう。


 もっと喜んでもらいたくて、ついでにネットで外出用の服を買うことにした。

 検索ワードは小学生、女の子、身長は……えーと、いくつくらいだろう?

 部屋着やパジャマはサイズがぴったり合わなくても大丈夫だから、適当に買ってきたけど……ちゃんとした服となるとそうもいかないか。

 引っ越しの時に使ったきりだったメジャーを引っ張り出して、身長を測らせてもらうと、百二十五センチくらいだった。


 検索して適当に出てきた通販サイトをざっと流し見る。

 当然だけどめちゃくちゃ種類が多い。

 人気の商品順に並べ直して、百合香ちゃんにどれがいいか見てもらうことにした。

 ページを行き来しながら、二人で悩む。

 その結果、シンプル、可愛い、大人っぽい、という三種類が候補に上がった。

 どれもやけに安いな……と思ったら、それはモデルの子が来ている服のうちスカートだけとか、シャツだけとかの値段だった。それはそうか。

 しかしそこはお店側もしっかりしている。商品を選ぶと、合わせてモデルの子が来ている服をそっくりセットで買えるようになっていた。

 ありがたくセットで三種類全部を買うことにした。


 そんなことをしているうちに、いつの間にか日が傾いていた。

 楽しい時間は過ぎるのが早い。


 夕飯は麻婆豆腐を作ることにした。

 と言っても本格的なやつではなく、豆腐と肉と野菜を市販の麻婆豆腐の素と合わせて火にかけるだけの簡単な仕事だ。

 以前作った時はどこか物足りない味だったことを思い出し、豆板醤やオイスターソースなど、買ったはいいけど使いきれずに持て余している調味料をここぞとばかりに加えてみた。

 味見してみると、よく分からないけど美味しくなってるような気がした。


 出来上がった麻婆豆腐を盛り付けて、炊けたご飯と共にテーブルの上に置く。

 ……完全に男のメシだ。色合いが。

 一人の時は気にならなかったけど、誰かに食べてもらうとなると、見た目や栄養面もちゃんとした方がいいかなという気持ちになる。

 次からはサラダ用の野菜でも買ってこよう。


 麻婆豆腐を一口食べた百合香ちゃんは、「んっ」と小さく声を上げて一時停止してしまった。

 ……ひょっとして辛すぎたかな?

 自分では全然問題ないと思っていたけど、そういえば子供の舌は苦味や辛味に敏感なのを忘れていた。


「ごめん、辛かった?」

「……ちょっと。でもおいしいです」


 百合香ちゃんはそう言うと、顔を赤くして汗をかきながらも完食した。

 うーん、無理をさせてしまったかもしれない。

 次からは気をつけよう。

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