第4話 広野星行

 朝、トイレの水が流れる音で目が覚めた。

 結構大きい音がしていたんだなあと、寝ぼけた頭で考えながら体を起こす。

 寝室のふすまを開けると、ぶかぶかのTシャツとスウェットを着た少女がでかい牡蠣かきを抱いて、ソファの上にちょこんと腰掛けていた。

 ……昨日、女子小学生を拾ってきたのは夢ではなかったらしい。

 制服に着替えていない。

 ということは、今すぐ出ていくつもりはないということだろうか。


「おはよ……」


 あくび混じりで少女に声をかけると、彼女はギュッと牡蠣を抱いて僕の動きを警戒するように目で追ってきた。

 あまり眠れなかったのだろうか。顔色が良くない気がする。

 ……まあ、当然か。

 顔を洗って目を覚ましてから、トーストを二枚焼いてマーガリンといちごジャムをたっぷり乗せ、野菜ジュースを添えて居間のテーブルに並べた。

 マーガリンとジャムは均一に塗らないのがポイントだ。印象派の画家のようにゴテゴテと置いていく感じにするとうまい。

 しかし朝から血糖値が爆発しそうなメニューだ。

 非常に体に悪そうだけど、うまいのだからそれでいい。

 健康に気を使うのは、もう少し未来の自分の役目だ……とか考えているうちに体を壊しそうな気もするけど。


「甘いの、嫌いじゃなかったらどうぞ」


 甘いものが嫌いな子供などいないだろうという気持ちでそう言ったけど、もしかしたら最近の子供はビターなのが好きということもあり得なくはない。

 時代は常に移り変わっている。健康に気を使う子供も増えていくかもしれないし。

 そんな僕の考えなどお構いなしに、彼女は黙々とトーストを平らげてしまった。

 食べるのが早い。野菜ジュースもちゃんと飲む。あ、甘いものを食べた後だからジュースの甘みが薄くなって微妙な顔をしている。そんな顔も可愛い。


「さて、なんとなく朝になってしまいましたが」


 僕もトーストの欠片を野菜ジュースで流し込んでから、少し改まって切り出した。


「そろそろお互い、自己紹介でもしようか」


 そう、驚くべきことに僕たちはお互いの名前も知らないのだった。

 ……いや、半分嘘だ。僕は昨日、彼女の制服を洗う時に、タグに書いてあった名前を見て知っていた。

 だから僕は、まずは自分から名乗ることにした。


「僕は広野星行。広い野から星に行くっていう字。宇宙旅行に憧れていた両親が、なぜか僕に夢を託したらしいんだけど」


 ちなみに両親からは一昨年、無事宇宙旅行に行って帰ってきたという手紙を受け取っている。楽しそうな無重力空間での写真付きだった。

 想いを託された僕はどうすればいいんだ。


「ほしゆきさん……」


 少女がぽつりと呟く。

 なんだかむず痒い。


「そう、星行さん。それで君の名前は?」

「岸辺百合香です」

「いい名前だね」


 まあ、知っていたけど。

 いい名前だと思ったのは本当だ。


「それで百合香ちゃんは、どこから来たの?」

「こうふ……」

「甲府? 山梨県の?」


 僕が尋ねると、コクリと頷く。

 マジか……ここ、東京の獅江市なんだけど。

 いったん新宿まで行って乗り換えたのかな? よく辿り着いたものだ。


「えーと、今何年生?」

「四年生です」

「四年生というと……何歳?」

「九歳です」


 九歳か。

 僕が二十九歳だから、ちょうど二十歳差だ。

 改めて考えるとずいぶん歳を取ってしまった気がする。


「それじゃあ、どうして家出をしたのか教えてくれる?」


 僕が問いかけると、彼女は少しうつむいてから、僕の目をまっすぐに見た。

 うわ、と内心思わず仰け反る。

 光の槍で貫かれたような……という例えは少しファンタジックだけど、他に例えようがないくらい、その視線は透明で、直線で、鋭かった。

 どうにかその視線から目を逸らさずに耐えていると、彼女は意を決したように、ぽつりぽつりと話し始めた。


         ◆


 まあ、要約すると。

 一年前に両親が離婚してすぐに、母親は新しい男を連れてきた。

 この男がロクデナシのロリコンのサディストで、百合香ちゃんにちょっかいをかけ始めた。

 母親は男に幻滅するどころか、逆に娘に嫉妬して育児放棄まがいの状態に。

 こりゃたまらんと思った百合香ちゃんは衝動的に一度目の家出を実行するも、即日連れ戻される。

 男は百合香ちゃんが再び逃げ出すことを恐れたのか、学校に行くことを禁止して、行動は更にエスカレート。

 それと比例するように母親の行動もまたエスカレートしていき、彼女を突き飛ばしたり、食事をロクに与えなくなったり、罵詈雑言を投げつけたりとやりたい放題。

 男も男でS心に火がついたのか、百合香ちゃんの足を引っ掛けて転ばせては色々なところを触りながら抱き起こすという最悪の遊びにはまる始末。

 ある日一線を越えられそうになった百合香ちゃんが母親に助けを求めて事なきを得るも、後日出された食事を食べた直後に異様な眠気に襲われ、これは一服盛られたに違いないと気付いた彼女はこのままでは母親に殺されると思い、二度目の家出を実行した、と。


 いやあひどい話だった。最悪な大人もいたものだ。

 最後まで冷静に話を聞けた自分の精神力を褒めてあげたい。

 ……まあ、ブチギレそうになるたびに、昨日やってしまった失敗と今の自分の状況を客観的に思い出して冷静になれたというだけの話なんだけど。


 やっぱり彼女は性犯罪まがいの……いや、まさしく性犯罪の被害者だった。

 そんな彼女に対して僕が昨日お風呂場でやってしまったことは、真新しい傷口を抉るようなことだったのだと、心から反省する。


「そんなことがあったとは知らず……昨日はごめん」


 僕がそう言って頭を下げても、彼女は黙って僕の方を見つめているだけだった。

 ただ、気のせいかほんの少しだけ、その視線はやわらいでいるような気がした。


 それにしても、彼女の話し方は子供にしては理路整然としていた。

 扱う単語や言葉遣いも大人びていて、分かりやすい。

 かなり本を読んでいるのかなという感じがする。

 恐らく、離婚して出ていった本当の父親の影響なのだろう。

 虐待を受けてなお二度も家出を実行する精神力や、知らない土地でも一人で歩き回れる度胸は、もしかしたら大人顔負けかもしれない。


 しかし、よく僕みたいな見ず知らずの男についてきたものだと思う。

 そう疑問に思って聞いてみると。


「最初、警察に電話しようとしていたから……私に変なことをしようとする人なら、警察に電話なんてしないと思った」


 とのこと。

 きちんと理屈を考えて行動している。頭のいい子だ。

 まあ理屈ではそう考えていても、トラウマが消えるわけではない。

 彼女が僕に対して距離を取るのは当然だ。


「それで、百合香ちゃんはこれから……お父さんを探すんだよね。この辺りに住んでるのは間違いないの?」

「……わからない」


 両親が離婚した後、東京に引っ越した父親に一度だけ会いに来た時の記憶を頼りにして、彼女はここまで来たのだという。

 しかしその記憶は曖昧で、駅名も合っているかどうか定かではない。

 だからこそ彼女は、途方に暮れていたのだ。


「それじゃあ、何か思い出すまでの間、ここにいる? ご飯と寝る場所を用意するくらいしかできないけど」

「いいんですか……?」


 いいはずがない。

 法的には完全にアウトだと思う。

 家出中の女子高生を家に住まわせていた男が逮捕されたというニュースを、何度か見た覚えがあるし。


 ……それでも。

 それでも、僕はもう話を聞いてしまった。

 彼女の事情を知ってしまった。

 聡明なこの子が、命の危険を感じて逃げ出してきたっていうのに。

 そんな子供を家に送り返すことが、本当に正しいことなのか?


 ……まあ、現実的な案としては、児童相談所に通報するという手がある。

 というかそれが真っ当なやり方だろう。

 うまく行けば保護してくれるかもしれない。

 でも、保護ってどれくらいの期間してくれるものなんだ?

 まさかそのまま親との縁が切れて施設に入れる訳でもないだろう。

 親の虐待を証明するための……裁判か何かをするんだったか。

 そうなった場合、一見すると転んだだけに見える彼女の手と膝の傷は、虐待の証拠になるのか?

 そもそも九歳の子供の証言だけで、虐待だと認定されるものなのか?

 ……駄目だ、知識が足りない。知らないことだらけだ。

 ひとつ間違えただけで、取り返しのつかないことになるという予感がある。

 だから今は。

 そうだ、今は少しだけ、時間が欲しい。


「いいよ。好きなだけここにいて」

「……はい」


 そうして僕はまた、直視しなければならないものを一つ、未来へと送った。

 平穏な心を前借りし、優しい時間を捏造ねつぞうしようと決めた。

 この負債は高い確率で、僕の人生を狂わせるだろうと知りながら。

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