第6話 広野星行
食後に数時間くつろいでから入浴というのが、僕の生活パターンになっている。
食事と入浴、どちらが先がいいかは諸説あるらしいけど、僕は寝る前に体をリフレッシュしておきたいのでこういう順番になった。
と言っても、最近は面倒でシャワーで済ますことが多かったんだけど、今日はせっかくなので湯船にお湯を張ることにした。
お風呂の問題については、買い出しに行った時にちゃんと用意してある。
もちろん僕のではなく、百合香ちゃんのだ。
「手袋……?」
「使い捨てのやつだけどね」
百円ショップで買ってきたポリエチレンの手袋を百合香ちゃんの左手につけて、輪ゴムで手首の部分を止める。
かなり大きめに作られているのでサイズが合ってないけど、入浴中の防水くらいの用途なら大丈夫だろう。
左右兼用で量もたっぷり八十枚入りなので、安心して使い捨てられる。
怪我が治るまではこれでなんとかしてもらおうと考えての買い物だった。
「完全に水が入ってこない訳じゃないから、湯船にはつけないようにね。あと、お風呂上がった後でもいいから、絆創膏を剥がして軽く傷口も洗っておいて。その方が治りが早いらしいから」
「はい」
そうして百合香ちゃんがお風呂に入っている間に軽く居間の掃除をしていると、ガチャガチャと玄関のドアノブを鳴らす音が聞こえてきた。
こんな時間にチャイムも鳴らさないとなると、来訪者の心当たりは一つしかない。
ドアを開けてやると、見慣れた猫がヌッと顔を覗かせて、狭い隙間からでかい体を滑り込ませてきた。
「なんだトラ、今日はもう来ないかと思ったぞ」
でかくて白い猫に、僕はそう呼びかける。
トラというのは大家のおばあさんが付けた名前だ。
別に虎柄ではないんだけど、虎みたいにでかいから、というのが理由らしい。
恐らくメークイン……じゃない、メインクーンだったかな? そんな感じの大きな猫の血が入っているのだろう。あまり毛が長くないから、純血ではないと思う。
その体長は、ソファで寝転んで長くなっていた時の記憶だと、八十センチ以上はあるかもしれない。
家に入ってきたトラはニャオニャオ鳴いて、餌を要求してくる。
猫缶を開けて皿に出してやると、前足を使って器用に食べる。
いつも思うけど変わった食べ方だ。
体がでかいだけあって一瞬で食べ終わり、隣に置いておいたお椀の水を少し飲んでから、僕の脚に体を擦り付けてきた。
こいつは気まぐれで、体を触らせてくれる時とそうでない時があるんだけど……今日はサービスデイのようだ。
人間は猫には敵わないのでありがたく撫でさせて頂いていると、洗面所の戸が開いてお風呂上がりの百合香ちゃんが出てきた。
彼女はトラを見た途端、ギョッとしたような顔をして、それから僕の方を見る。
「あ、びっくりした? こいつだよ、昼間言ってた猫。でかいでしょ」
「えぇ……?」
若干引いているようにすら見える、いいリアクションだ。
いくら事前に大きいと聞いていても、放し飼いの猫でメインクーンみたいなやつを想像するのは難しいだろうから、だいぶ驚いたようだ。
「ほしゆきさん、その子……」
百合香ちゃんが何か言おうとするのを遮るように、トラが鳴いた。
ンヌルムスなどと変な声を喉から出している。初めて見る百合香ちゃんを警戒しているのだろうか。
「……ちょっと、そっちの部屋に行っててもらっていいですか?」
「えっ?」
突然百合香ちゃんに言われて、僕は一瞬その言葉の意味を理解できなかった。
「この子とちょっと、話したいから」
「あ、うん」
言われるままに、居間に移動する。
すると台所と居間を仕切る横開きの扉をスーッと閉められた。
え、なんだろう。どういうこと?
百合香ちゃん、実はすごい猫好きだったとか?
予想外の展開に軽く動揺しつつ、ちょっとだけ扉の隙間を開けて覗いてみる。
彼女はトラと顔を突き合わせて、文字通り何やら話しているようだった。
……ああ、なるほど。猫と喋る系の子だったのか。
僕もどちらかと言えば猫に話しかける方だから、文字通りの猫なで声で話しているところを他人に聞かれるのが恥ずかしいという気持ちは、分からないでもない。
何を話しているかまでは聞こえなかったけど、その微笑ましい光景はいつまでも見ていたいと思わせる心温まるものだった。
しかし、やはり盗み見はよくない。
僕は名残惜しさを噛み締めながら戸を閉めてソファに座り、代わりにテレビに映る派手な色の虫を見ることにした。
「帰りました」
しばらくすると百合香ちゃんが居間に入ってきた。
「あ、トラ帰っちゃった?」
「うん。玄関の鍵はかけておいたので」
「そっか。ありがとう」
残念、もう少しトラを撫でたかったけど、まあ今日は百合香ちゃんとの顔合わせということで。次回のサービスタイムを待つとしよう。
「何を話してたの?」
「ええと……座敷わらしの話とか」
「へー……え、なんで?」
「さあ……?」
「まあいいか。それより左手出して」
「はい」
ともかく、百合香ちゃんが猫嫌いじゃなくてよかった。
昨日と同じように絆創膏を貼りながら、そんなことを思う。
明日からまたバイトだから昼間は家を空けることになるけど、たまにトラが訪ねてくるなら少しは百合香ちゃんの暇つぶしになるだろう。
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