第6話 岸辺百合香
「ドライヤーの使い方はこんな感じ。それで後は……これ」
お風呂の時間になり、ほしゆきさんが今日買ってきたヘアブラシやドライヤーやシャンプーなんかをドサドサと渡してくれた。
どれもちょっとオシャレな感じで、すごく高そうだけど……私が貰っちゃっていいんだろうか。
そんなことを思っていると、最後にほしゆきさんは透明な手袋がいっぱい入った箱を取り出した。
「手袋?」
「使い捨てのやつだけどね」
大きなビニールっぽい手袋を私の左手につけて、輪ゴムで手首を止めてくれる。
絆創膏もつけたままだし、これなら頭を洗っても痛くなさそうだ。
私のために色々考えてくれているみたいで嬉しい。
ほしゆきさんが出ていった後、服を脱いでお風呂場に入る。
シャワーで体を流してから、買ってもらったシャンプーを開けてみた。
白いシンプルなボトルに英語で何かが書いてあって格好いい。
使ってみると柔らかい香りがふわっと来て、心がほぐされるような気がする。
指の通りもスルスルで、今まで使ってきたシャンプーと全然違う。
あまりお風呂は好きじゃなかったはずなのに、今日は楽しく入浴できた。
洗面所で体を拭いていると、玄関が開く音と、なにやら話し声が聞こえてきた。
誰か来た?
だとすると、今出ていくのはまずい?
一瞬あわあわしてしまったけど、よく聞いてみると、ほしゆきさんの声はまるで子供に話しかけているみたいだった。
そこで私はようやく、ああ、昼間言っていた猫が来たんだなと思い当たった。
服を着て、ドライヤーで急いで髪を乾かして、洗面所から出る。
私も猫は好きだ。どれくらい大きな猫なのか見てみたい。
そう思ったんだけど。
「あ、びっくりした? こいつだよ、昼間言ってた猫。でかいでしょ」
「えぇ……?」
私は本当にびっくりして、何を言っていいかわからなくなった。
なぜなら、ほしゆきさんがニコニコしながら頭を撫でているのは……幼稚園くらいの小さな女の子だったから。
その女の子は頭に猫耳をつけていて、ワンピースの裾から白い尻尾も見えていたけど、そんなコスプレで猫だと言い張るのはちょっと無理があると思う。
というかこの子、昨日おばあさんに抱っこされてた子だ。
あの時は一瞬目が合ったと思ったら、どこかに走っていっちゃったけど……
「ほしゆきさん、その子……」
「なんじゃ、やはり見えとるのか」
不意に女の子が、幼い見た目に似合わない変な口調で話しかけてきた。
「二人で話がしたい。ちょっとヒロノを向こうの部屋にやってくれんか」
普通の子じゃない、と思った。
ほしゆきさんが実は結婚してて子供がいた、なんて訳でもなさそうだ。
なんとなく、この子の言うことには従った方がいい気がした。
「……ほしゆきさん、そっちの部屋に行ってて」
「えっ?」
「この子とちょっと、話したいから」
「あ、うん」
ほしゆきさんはよく分からないような顔をしながらも、素直に隣の部屋に行ってくれた。
それを見送ってから、スーッと戸を閉める。
「……それで、えーと、あなたは……だれ?」
目の前の女の子は背の低い私よりもずっと小さい子供なのに、なぜか子供扱いできないような堂々とした落ち着きがある。
どう話しかけていいものか分からなくて、変な感じになってしまった。
「わしは座敷わらしじゃ」
「……猫耳がついてるけど」
「猫の座敷わらしじゃ」
「言い直した……」
よく見ると、頭の上の猫耳がピクピク動いている。
まるで本物みたいだ。
「長いこと人と一緒におったら、いつしかこういう姿になっとったんじゃが、
尻尾もふらふらと動いている。
その毛並みは、とても作り物には見えない。
「聞いとるんかおぬし」
「あっはい」
「ともかく、わしはそういう人間に出会ったら取引をすることにしとるんじゃ」
「とりひき?」
「わしの本当の姿を吹聴されたら暮らしにくいのでな。他の誰にも黙っていてもらう代わりに、願いを一つだけ叶えてやろうというわけじゃ」
すごい、おとぎ話みたいだ。
普通に考えたら小さな子供がごっこ遊びをしているだけなんだけど、この子には信じたくなるような迫力がある。
「願い事? なんでもいいの?」
「なんでもとは言うとらんじゃろがい。わしにも無理なことはある」
「じゃあ、あの男が家に入れないように……ううん、パパがまたママと仲良くなって、一緒に暮らせるようにしてほしい」
「なんじゃそりゃ。よくわからんが複雑そうじゃの。詳しい話を聞かせてみい」
私は今朝ほしゆきさんに話したのと同じことを、女の子に話した。
「なるほど、その歳で大変じゃのう。しかし、その願いは叶えられん」
「えー、なんで?」
「要素が複雑に絡み合い過ぎておる。全部を解決しようとすると恐ろしいほどの改変を伴う。そんなこと、とてもではないが許されんわ」
何を言っているのかよく分からないけど、駄目みたいだ。
せっかく最初から説明したのに。
少しでも期待したぶん、がっかりも大きくて、この子やっぱりただの子供なんじゃないの、という気持ちになってきた。
「けち」
「けちじゃないわい。物事には道理というものがあってじゃな」
「よくわかんない。じゃあ、どんなお願いなら叶えてくれるの?」
「そうじゃのう……晩飯を好きなメニューに変えるとか」
「しょぼー」
「好きなもん食えたら嬉しいじゃろ子供は」
それはまあ、美味しいもの食べれたら嬉しいけど。
でもほしゆきさんが作ってくれるものはどれも美味しいから、わざわざメニューを変える必要なんてないし。
「あんただって子供じゃん」
「わし猫の座敷わらしじゃぞ。もうどんだけ生きとるのかっちゅー話じゃ」
「何年?」
「え?」
「何年くらい生きてるの?」
「あー、えっと……うー……忘れたが、たくさんじゃ」
両手をにぎにぎさせながら困っている様子はちょっと可愛い。
むっとしていた気持ちが治まってきた。
「ねえ、名前なんていうの?」
「子供は話がコロコロ変わるのう……トラじゃ。今はそう呼ばれとる」
「ふーん。それじゃトラ、猫になってよ。私もでっかい猫をなでたい」
「だーかーらー、おぬしには効かんからこうして取引しようとしとるんじゃろが」
「できないの? なんにもできないんじゃん」
「その言葉覚えとけよ小娘……ほれ、撫でたければわしを撫でればいいじゃろ」
「えー」
ずいっと差し出された頭を見る。
猫耳は髪の間から生えているように見える。
「こっちの耳はどうなってるの」
髪で隠れていた顔の横をさわさわと触ってみる。
……普通に人の耳がある。
まあ、そうだよね。
「ふふ、くすぐったいわ」
「耳よっつあるじゃん」
「猫の座敷わらしじゃからの」
「さっきからそれずるくない?」
そんなことを言いながら頭や首を撫でたり、なんとなくギュッと抱きしめたりしていると、ちょっといい気分になってきた。
癒やされるっていうか……体温が高くてあったかいし、猫耳の部分がちょうどいい柔らかさで触り心地がいい。
毛並み……じゃなくて、髪の毛もふわふわだ。
「おぬしの名前はなんというんじゃ」
大人しく撫でられながら、トラが聞いてくる。
「私? 岸辺百合香」
「ふむ、ユリカ。この先つらいこともあるじゃろうが、いましばらくはヒロノを頼るがいいぞ。あれは良いやつじゃからな」
「知ってる」
「じゃがそれも、いつまでも続く訳ではないということも忘れぬようにな」
「……知ってるよ」
そんなこと、言われなくても。
分かってる。
私はいつまでもこの家にいる訳にはいかない。
でもまだ、始まったばかりだから。
もう少しだけ。
「帰ったよ」
居間に入ると、ほしゆきさんはテレビの中の変な虫をじっと見ていた。
赤くてでっかい虫だ。ちょっと気持ち悪い。
「あ、トラ帰っちゃった?」
「うん。玄関の鍵はかけておいたから」
「ありがと。そっかー、もう少し撫でたかったけど、トラと百合香ちゃんが仲良くなれたならいいか」
「仲良く……」
なれたのかな?
よくわからない変な子だったけど、悪い子ではなさそうだった。
「それで、トラと何を話してたの?」
「ええと……座敷わらしの話とか」
「へえ、座敷わらしね。うちにもいるといいな」
「明日も来るって」
「そっか。僕は明日バイトがあるから、よかったら百合香ちゃんが遊んであげて」
「うん」
「おっとそうだ、忘れてた。はい、左手出して」
「あ、私も忘れてた」
昨日と同じように左手に絆創膏を貼ってもらいながら、さっきの不思議な女の子のことを思い返す。
誰の影響であんな喋り方になったんだろう。
もし私があんな喋り方したら、ほしゆきさんびっくりするかな。
想像してみると、自然とにやにやしてしまう。
明日も来たら、また撫でてあげよう。
そう考えると少しだけ、明日が楽しみになった。
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