第1話 岸辺百合香

 最初の家出に失敗した時、次はもっと工夫しようと思った。

 でも、頭の中で描いていた計画なんて現実の前ではすごくちっぽけで……

 どこまでも思い通りにはならなかった。


 あの日、重いまぶたを開けた朝。

 ゴミ箱の底からアルミとプラスチックの包装を拾い上げた私は、この家にいたら殺されると思った。

 死にたくなければ逃げるしかない。


 前回の反省を生かして、二度目の家出には学校の制服を着ていくことにした。

 久しぶりに袖を通すそれは、ひんやりと冷たかった。

 通学用のSuicaが入ったポーチや、昔パパに買ってもらった猫のお財布、それにペンケースなんかを急いでランドセルに詰め込む。

 もっと他にも持っていくべきものはあったはずなのに、その時の私は冷静に考える事ができなくなっていた。


 時計を見るとまだ早朝だった。

 ママとあの男が起きていないことを確認してから静かに家を出て、マンションの玄関を出たところで、引っ張られたゴムを弾くみたいに一気に駅まで走った。


 電車に乗り、学校がある駅に着いても降りずにいると、やがてドアが閉まった。

 ここから先は一人では行ったことのない場所だ。

 見慣れない風景を窓から眺めているうちに、なんだか手の親指や足がそわそわして落ち着かない気持ちになってきた。

 だんだんと電車が混み始めてぎゅうぎゅうになり、大きな駅で一気に人がいなくなり、またたくさんの人が乗ってくる。

 そんなことを繰り返しているうちに、電車は東京に入っていた。


 頭の中で描いていた計画では、私は東京にあるパパの家に行くつもりだった。

 でも、パパの家に連れて行ってもらえたのは一度きりで、駅の名前もぼんやりとしか覚えていない。

 そのぼんやりを手がかりにするしか、今の私には方法がなかった。


 よくわからないまま適当に乗り換えていたら埼玉県に入ってしまって、慌てて引き返したり。お腹が空いて途中の駅で下りてパンを買ったりしていたら、いつの間にか空が暗くなり始めていた。


 前回の反省のその二。

 暗い時間に子供が一人でいると、声をかけられる。


 隠れられる場所を探そう、と思った。

 適当な駅で下りて、良さそうな場所を探す。

 色々と歩き回った結果、駅から少し離れたところにある、子供用の小さな公園のトイレに引きこもることにした。

 男の子用と女の子用が一つずつだけある、小さなトイレ。

 中から鍵をかけると少し安心する。

 外はかなり暗くなっていたから、私はトイレの中でじっと座ったまま、朝が来るのを待つことにした。

 コンビニで買ったパンをかじったりしているうちに、うとうとし始めて、頭がぐらぐらと揺れる。

 眠いのに横になれないのはとてもつらい。


 夢の中で二人分の足音が聞こえてきたと思ったら、ドンドン、と扉がノックされて私は飛び上がるくらい驚いた。

 それから続けて、男の人の声。


「どなたか入ってます? 警察ですけどー」


 ドキドキと大きな音を鳴らす心臓をおさえながら、私は少し迷った後に小さな声で「はい」と返事をした。

 返事をしないでいたら扉を壊して入ってきそうだと思ったからだ。


「あー大丈夫ですか? 長いこと入ってるみたいだけど。どこか具合悪いですか?」

「……大丈夫です」

「そうですかー。具合悪かったら救急車呼んで下さいねー」


 遠くなっていく二人分の足音に混じって、「なんか子供みたいな声じゃなかったですか?」という小さな会話が聞こえてくる。

 このままトイレに入り続けているのは危ないと思った。

 私は小さく扉を開けて外の様子をうかがって、誰もいないのを確認する。

 それから外に出ると、体を低くしながら小走りで、大きな木と柵の間に隠れた。

 たぶん警察の人はもう一度来ると思う。そうしたら誰もいないトイレを確認するだろうから、その後に私はまたトイレの中に戻ればいい。


 そんな風に思って待っていたのに、気がついたら空が明るくなっていた。

 うっかり眠ってしまっていたらしい。

 体が寒くて痛くて、朝日を浴びながらしばらくじっとしていた。

 今夜もこんなことをしないといけないのかと思うと、心がくじけそうになる。

 ……パパの家を探さないと。

 私は駅に向かった。


 見覚えのある駅名だと思った。

 下りてみて、道を歩いてみると、覚えているような、違うような、どっちにも取れるような気持ちになる。記憶というのはとても難しい。

 ふらふら歩いていると、人気ひとけのない道に入り込んだ。

 そこだけ世界が切り取られているみたいに静かで、思わず石垣に座り込む。

 そうしてボーッとしていると、頭の奥からじんわりと何かが溶け出してきて、目や耳から流れ出ていってしまうような気がした。

 朝の通学時間なのに、本当に誰も通らない。いい場所だ。

 と思っていたら一人だけ、大人の男の人が歩いていった。

 でもそれだけだ。


 しばらくぼんやりしてから、ご飯を買うためにコンビニを探して歩いた。

 Suicaの残高は残り千円くらい。お財布には二千円と小銭が少し。

 もう、あまり電車にも乗れないかもしれない。

 静かな路地裏に戻って、甘いパンをかじる。昨日から歯を磨いていないから口の中が気持ち悪い。

 今夜はどうしよう。コンビニの近くにあった公園のトイレでまた過ごそうか。警察が来るだろうな。面倒くさいな。

 そんな風にぼんやり考えていると、嘘みたいに時間が早く過ぎていった。

 パパの家を探さなきゃいけないのに、寝不足のせいか、動こうという気持ちが湧いてこなかった。

 ここはちょうど日陰になっていて、日が高くなっても不思議と暑さを感じない。

 まるで時間が止まっているみたいだった。


 そうしているうちに、気がつけば夕方になっていた。

 夕焼けの色を見ると、心が重くなる。


「どうしたの? 今朝もここにいたよね?」


 突然、男の人の声がした。

 全然気づかなかった。

 その人はいつの間にか近くにいて、私を見下ろしている。

 うっかりしていた。

 もうダメかもしれない、と思った。

 またあの家に連れ戻されて、私は殺される。

 それは嫌だ。逃げないと。

 でも、体が動かない。


「もしかして、家出とか?」


 バレた。

 きっと大人が見たらすぐに分かってしまうんだろう。

 その後も色々話しかけられたけど、私は何も答えなかった。

 じっと私が黙っていると、男の人は興味をなくしたみたいに立ち上がって、向こうへ歩いていく。

 助かった……?

 そう思った途端、男の人がポケットからスマホを取り出すのが見えた。

 あれほど動かなかった体が、自分で意識するよりも早く動いていた。


「警察はだめ」


 私は何か考えるより先に、そう言っていた。

 なんだか久しぶりに声を出したような気がする。


「……じゃあ、家に来る?」


 その言葉を聞いた瞬間の衝撃は、想像していないところから殴られたみたいな感じだった。

 それはたぶん、誘拐っていうやつで。

 知らない人について行ってはいけませんって、小さい頃から教えられることだ。

 ……でも。

 この人は、私が止めなければ警察に電話しようとしていた。

 もしかしたらいい人、なのかも。

 それに、誘拐されても、別に問題はないような気もしてきた。

 私はもうあの家には帰りたくないし、どこか知らないところに連れて行かれて、そこで暮らせるなら。

 公園のトイレや屋根のない遊具の近くで眠るよりは、ましなんじゃないかな。


 ぐるぐると頭の中で自分の声が回って、答えが何も出てこない。

 それにしびれを切らしたみたいに、口が勝手に「うん」と言うのを、私はぼんやりと見つめながら、まあいいかと思った。

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