第2話 広野星行
「あら、おかえりなさい。その子は?」
間が悪いことに、家の前で大家のおばあさんと鉢合わせてしまった。
おばあさんは両手で大きな猫を抱いている。
この猫は放し飼いのような形でおばあさんが飼っているのだけど、とても賢くて、トイレなどは全部おばあさんが用意したものを使うらしい。
「どうも、ただいま。えっと、兄の子をちょっと泊めてあげることになりまして。大丈夫ですかね?」
「えぇえぇ、構いませんよ」
おばあさんが女の子に挨拶しようと近付いたところで、猫がニャッと声を上げて液体のように逃げ出した。
おばあさんは「あらあら、ご飯がまだよ」と言いながら猫を追いかけていった。
気を取り直して、鍵を差し込み家の扉を開ける。
僕の借りている家は少し特殊だ。
具体的には二階がない。つまり平屋建てで、しかも部屋は二つしかない。
僕が借りているのは南と西に窓がある部屋だ。
玄関の扉を開けるとすぐに台所があり、その奥の木の引き戸を開けると十二畳のリビングになっている。
そしてリビングの左手奥の
全て畳敷きの和室だったものを何度かリフォームしたらしく、リビングはフローリングになっているのだけれど、気のせいかイグサの匂いがほんのり染み付いているような気がする。
聞いた話によると、元々は大家のおばあさんの親戚が一時的に住むために建てられたもので、間取りも色々いじってあるらしい。
女の子を招き入れると、当たり前だけど、住み慣れた僕の部屋の台所に女子小学生がいるという変な状況になった。
かなりシュールな光景だ。
犯罪的ですらある。
的で済むかどうかはとりあえず、今は考えないことにしておいた。
照明のスイッチを入れてから、蛍光灯の光に照らされた少女を見つめ、僕は改めて考える。
家に着くまでになんとなく察していたことだけど……明るい場所で見る彼女の姿は、率直に言って、かなりくたびれていた。
制服はシワだらけで、汚れが結構目につく。
ランドセルで隠れていたため目立たなかったけど、腰まである長い髪は明らかに手入れがされていない。
そして屋内に入ったことで一層強く感じるのは、汗のにおい。
大人の汗特有の不快な感じがしないのは不思議だけど、しかし汗くさいものは汗くさいと感じてしまうのだから仕方がない。
総合的に見て、彼女は恐らく数日間お風呂に入っていないのだろうと思われた。
僕は別に潔癖症ではないけど、珍しい客人を自分の家に招き入れるからには、それなりに相手にはくつろいでもらいたいと思っている。
「とりあえず、先にシャワー浴びてきてもらおうかな」
靴を脱いで台所に上がった状態で、二人の時間が止まった。ような気がする。
……全く他意はないのに、口に出すとなぜこうも犯罪的な響きになってしまうのかと不思議に思うけど、しかし他に言いようもない。
今年二十九歳になる成人男性と、年齢不詳の女子小学生が見つめ合うことしばし。
彼女はおずおずと左手を僕に差し出してきた。
なんだろう? と思いながら小さな手のひらを見る。
彼女の手の付け根と指先の皮はべろりとむけていた。
転んで手を突いたのだろうか。かなり大きな傷だ。
出血はしていないものの、赤くむき出しになった患部はかなり痛々しい。
「……なるほど」
とりあえず理解したふりをする。
「この手じゃうまく洗えないか」
こくりと彼女が頷く。どうやら正解したらしい。
「それならシャワーは止めとく?」
ううむ、と悩むように彼女はうつむいた。
別にシャワーが嫌だという訳ではないらしい。
というかまあ、これだけ汗くさいなら自分でも分かるだろうし。
日中は真夏並みに気温が上がってきているから、さすがに頭も痒くなってきている頃だろう。
しかし見知らぬ男の家に上がっていきなり服を脱ぐのも抵抗がある……といった所だろうか。
「じゃあ、僕が頭だけ洗うっていうのは?」
彼女は少しの間、まるで一時停止したみたいに動かなくなった。
それから機械仕掛けの人形のように、静かに頷いた。
「ここの洗面所、扉閉められるから。服脱いでお風呂場入ったら教えて。あ、これタオルね、色々と隠す用に。あと、ついでに脱いだ服全部洗っちゃうからこのカゴに入れておいて。乾燥まで一時間くらいかかるけど、後でTシャツとスウェットでも持ってくるから」
僕は指示を出すだけ出して、買ってきた食材を冷蔵庫に入れてから、居間を抜けて寝室に引っ込んだ。
ジャージの上下に着替えてから、袖と
ついでに彼女が着替えるためのTシャツと、冬用のスウェットを引っ張り出す。
下着はさすがに勘弁してもらおう。
「準備できた?」
ゆっくり目に着替えたから大丈夫だと思うけど、一応洗面所の外から声をかける。
「はい」
思いの外、はっきりとした返事が返ってきた。
洗面所の扉が閉まってるのを外から見るのは新鮮だなと思いつつ、扉を開けてカゴを回収し、中の服を洗濯機に放り込む。
……帽子だけは型崩れしそうだから取り出しておこう。
そもそもこういう制服を洗濯機で洗っていいのかどうかも分からないけど、まあ、小学生の着るものにデリケートな仕様もないだろうと勝手に決めつけて洗剤を投入し、ボタンを押した。
「入るよ。向こう向いててね」
風呂場に入ると、そこに知らない子供がいることに、分かっていたのにびっくりしてしまった。
見慣れた場所に裸の女子小学生がいるというのはかなりインパクトが強い。
まあ、裸と言っても椅子に座った背中のほとんどは、長い髪で隠れていて見えないんだけど。
「熱さはこれくらいでいい?」
「いいです」
シャワーからお湯を出し、彼女の足先に当てつつ温度調整をする。
その際に、彼女の膝がやけに傷だらけなのが目に入ってしまった。
よく転ぶ子供なのかもしれないけど、それにしても傷が多い。
嫌な予感がした。
まあ、今更だけど。
「かゆいところはある?」
「……あたま」
ざっとシャワーを彼女の全身に浴びせてから、男用のリンスインシャンプーを手に取り、目の前の小さな頭に擦りつける。
思えば他人の頭を洗うなんて初めてだ。
美容師とか介護とかの人でなければ、なかなか経験できないことなのでは、となんとなく思う。
思ってから、別にそんなことはなかったかと思い直す。
子供がいる家庭なら普通にやることだ。僕には縁のない話だった。
益体のないことを考えながら少女の頭をわしわししていたけれど、さっきから全然泡立たない。一度お湯で流し、改めてシャンプーを多めにつける。
しかし泡立たない。
一体どれだけ汚れていたんだろう。
というか、単純に毛量が多すぎてシャンプーの量が追いついていないだけなのか。
そして僕はそこで、小さな失敗に気づいた。
長い髪の毛が絡まってしまっている。
……そうか、先に櫛やブラシで髪を
こんな機会でもなければ一生知らなかったことかもしれない。
悪戦苦闘しながらも、しばらくして、僕は妙なことに気がついた。
やけに固い。
彼女の首……というか全身が、硬直しているように固い。
不慣れな僕が頭を洗っているのに、全然ぐらぐらしない。
ふと手を止めてみると、細かい震えが指先に伝わってきた。
彼女は、震えていた。
緊張か、恐怖か、あるいは両方か。
寒さによるものではないことは、六月後半の気温が保証している。
どちらにせよ、僕は致命的な間違いを犯したのかもしれないと思った。
恐らく、彼女は決死の覚悟で服を脱いだのだ。
さっきのやり取りの中ではそうするしかなかったから。
見ず知らずの男に裸を晒すのは、絶望的な気持ちだったに違いない。
僕は余計なことを言わず、黙って彼女一人を風呂場に放り込むべきだった。
子供だから大丈夫だろうだなんて、安易に考えるんじゃなかった。
「じゃ、後はそこのスポンジとボディソープを使ってね。洗顔料はこっち。左手の傷のところも、水でいいからできれば軽く洗っておいて」
僕は早口で言うと、逃げるように風呂場の外に出た。
彼女がどうして家出をしたのか。
もしもその理由の中に、家庭での性的な暴力などがあったとしたら。
僕は取り返しのつかない傷を彼女に与えてしまったかもしれない。
想定外にビシャビシャになってしまったジャージを着替えてから、僕は夕食の用意をすることにした。
彼女から色々と事情を聞くのは食事の後にしよう。
それは、自分がやってしまったかもしれない失敗から目をそらすための現実逃避のようなもので、知らなければならない事実を先送りにするようなものだった。
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