第2話 岸辺百合香
「あら、おかえりなさい。その子は?」
裏通りから少し歩くと、古い家が集まっているような場所で、子供を抱いたおばあさんに話しかけられた。
「どうも、ただいま。えっと、兄の子をちょっと泊めてあげることになりまして。大丈夫ですかね?」
「えぇえぇ、構いませんよ」
すごい、どう答えるのかドキドキしたけど、さらっと嘘をついた。
やっぱりこの人は悪い人なのかもしれない。
まあ、本当のことを話されても困るんだけど。
家の中に入ると、薬のような洗剤のような、知らないにおいがした。
それと一緒に、自分の汗のにおいも強く感じる。
家出する前からだから、もう三日くらいお風呂に入っていない。少し恥ずかしい。
「とりあえず、先にシャワー浴びてきてもらおうかな」
そんな私の考えを読んだみたいに、男の人はじっと私の体を上から下まで眺めてからそう言った。
やっぱり臭かったんだなと思うと、恥ずかしいような、申し訳ないような、なんとも言えない気持ちになる。
お風呂に入れるなら入りたい。でも、今の私は左手に怪我をしていた。
……この怪我のことを考えると、心の中に重たいガスのようなものが溜まっていくのを感じる。
違う、今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
左手がうまく使えないから、あまりきれいにできないかもしれない。
特に髪の毛とか。
そんな意思表示を込めて、私は男の人に手の傷を見せる。
「……なるほど。この手じゃうまく洗えないか」
私はこくりと頷いた。
さすが大人だ。言葉にしなくても、言いたいことを分かってくれる。
「それならシャワーは止めとく?」
……やっぱり、あまり分かってくれた訳ではなかったみたいだ。
でもまあ、それも当然かもしれない。だって私は今のところ、この人とまともに会話をしていないんだから。
それでもなぜか、警戒している自分の中に、この人のことを信頼している気持ちがあって、二つの心が混ざり合っているみたいだった。
「頭、洗いにくいから……手伝って欲しい」
その時、私は無意識に、自分でも驚くようなことを言っていた。
当然、それを聞いた男の人も驚いたような顔をしていたけど、すぐに「仕方ないなあ」っていうみたいに笑ってくれる。
「わかった。それじゃあ……」
男の人はそうしてテキパキと指示を出してから、奥に引っ込んでしまった。
私も当たり前みたいに、言われた通り洗面所の方へ向かう。
どうせ私は誘拐されたみたいなものなんだから、少しくらい面倒を見てもらってもいいんじゃないかな、なんて思いながら。
そんな変な状況で入ったお風呂……というかシャワーだったけど、男の人は特に変なことをするでもなく、普通に私の頭を洗っていた。
他人の頭を洗うのに慣れていないみたいで、髪の毛が引っ張られたり、ぐらぐらと頭を揺らされて目が回ったけど、乱暴な感じは全然しなかった。
それどころか私のことを気遣っていることが伝わってきて、少しだけ心も揺れた。
誰かに優しくされるなんていつぶりだろう。と、自動的に嬉しくなってしまう自分を冷静に見ているもう一人の自分が、チョロいなあと呆れていた。
少しスッとするシャンプーのおかげか、久しぶりに頭がスッキリした。
男の人が出ていった後に体を洗いながら、今日のことをできるだけ客観的に振り返ってみる。
あの人は私を心配して声をかけて、警察に電話しようとして、でもそれを私が止めたから自分の家に連れてきて、汚れていた私の髪を洗ってくれた。
ジャージをびしょびしょにして出ていった彼は、もしかしたら単純に、ただのいい人なのかもしれない。
そんなに簡単に他人を信じてはいけない、と思う自分がいる。
彼はいい人だから、そんなに心配する必要はないよ、と囁く自分もいる。
どちらが本当なのか、決められない。
だけど今夜は壁と屋根のある場所で眠れることだけは確からしい。
そう思うと途端に、心の中に溜まっていた灰色の砂粒のようなものが、ワッと崩れるみたいに外に出ていくような気がした。
ああ、疲れた。
心の底からそう思う。
私は長いため息を吐いて、ボディソープの泡を流した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます