その日までの物語

出会い

第1話 広野星行

 僕がその女の子に声をかけたのは、明らかに異常だと思ったからだ。


 六月も後半に入り、ずっと空を覆っていた雲が開けたような朝。

 僕はアルバイトに行くため、人通りのない裏道を歩いていた。

 この道は駅までは遠回りになるけど、車道から離れているのでとても静かだ。

 くねくねと曲がりくねりながら建物の隙間を縫うような形になっていて、めったに他人と出くわさないところが気に入っていた。


 しかしその日はいつもと違った。

 低い石垣のようになっている部分に、小学校の制服を着た女の子が座っていた。

 紺の帽子に紺のブレザー、スカートと靴下も同じ色。

 ローファーとランドセルは茶色だった。


 このあたりでは見かけない制服だ。友達と待ち合わせでもしているのだろうか。

 まあ、そうでなくても、小学生というのは無駄に寄り道をするものだけど。

 ……そんな風に考えて、僕はそのまま彼女の横を通り過ぎ、駅へと向かった。


 アルバイトから帰ってきたのは午後六時過ぎだった。

 買い物袋をシャリシャリ鳴らしながら行きと同じ裏道を通っていると、今朝と全く同じ場所に、まるで時間を飛び越えたみたいに、その子は同じ姿勢で座っていた。


「どうしたの?」


 思わず、声をかけていた。

 女の子はちらりと僕の顔を見上げた。

 帽子の下、長い前髪の間から大きな瞳が僕を値踏みするようにじっと見つめる。


「今朝もここで座ってたよね?」


 朝は登校の途中で、今は下校の途中かもしれない。

 たまたま、同じ場所で休んでいただけかも。

 今思えばそういう解釈もできたはずなのに、その時の僕はそう考えられなかった。

 彼女は一日中ここにいたのだと、なぜか確信してしまっていた。


「もしかして、家出とか?」


 彼女の顔が上がり、その両目がしっかりと僕を捉えた。

 二つの瞳の中には明確な警戒の色が灯っている。

 しかし僕はそんなことよりも、夕日に照らされた彼女の顔の美しさに惹きつけられてしまっていた。


 強い意思と知性を感じさせる澄んだ目と、幼いながらに整った鼻と唇が完璧なバランスを描いている。

 恐ろしく価値のある美術品が倉庫の奥でほこりを被っているのを発見したかのような、複雑な感情が一度にいくつも僕の心の中を通過した。


 気づくと僕は、膝を曲げて彼女と視線を合わせながら、色々と質問していた。


 どこから来たの?

 今日はご飯食べた?

 これから行くあてはあるの?


 彼女は何も答えなかった。

 しかし目をそらしたり、うつむいたりする訳ではなく、じっと僕を見つめている。

 しばらく無駄なチャレンジを試みていた僕は、やがて諦めて立ち上がった。

 まあ、仕方がない。


 浮ついていた意識が、徐々に現実へと戻っていく。

 こういう場面に出くわすのは初めてだけど、するべきことをしよう。

 彼女に背を向けて少し離れ、ポケットからスマホを取り出す。

 画面に指を滑らせてロックを外し、通話アプリを立ち上げてから押し慣れない三桁の電話番号を入力しようとしたその瞬間、僕は右腕に思いがけない重みを感じた。


「えっ」


 思わず振り向くと、スマホを持つ僕の右腕に少女がぶら下がっていた。


「警察はだめ」


 少しかすれた声。心に忍び込んでくるように可愛らしく、それでいて場違いなくらいに切迫した声だった。

 まるでこれから僕がしようとしていることを予知したみたいに、確信を持って、その小さい体を全部使って止めようとしている。


「えっと……」

「警察はだめ」


 彼女は同じセリフを繰り返しながら、首を振った。

 やけに長い髪が別の生き物のように動く。

 ふと見るとその髪は、からまり、飛び跳ねていて、べったりと重い。

 そして密着されたことで彼女のにおいを鼻に感じた僕は、


(ああ、そういうことか)


 と、心のどこかで何かを理解してしまった。


 その時僕がするべきだったことは。

 例えば、近くのコンビニでお茶とおにぎりでも買ってきて彼女に与え、その隙に警察に連絡する、とか。

 恐らくそういった行動が、世間一般で言う「正しいこと」だったのだろう。

 この場面における最適解というやつだ。

 そして僕はやってきた警察に任せて家に帰り、二度と彼女の顔を見ることはない。

 少し珍しいことがあったなと思いながら、僕は明日の休日を満喫する。

 これが正解だ。常識ある大人の取るべき行動として、これ以外はあり得ない。

 

 そのはずなのに、僕の口から出た言葉は、見当違いのものだった。


「……じゃあ、家に来る?」


 何が「じゃあ」なのかよく分からないけど。

 とにかく僕は、きっとこの瞬間に大きな分かれ道を選んだのだろう。


 僕の提案を聞いた彼女の両腕から力が抜ける。

 そして彼女は僕の顔をまじまじと見つめた後、小さく「うん」と頷いた。


 こうして、僕に待ち受ける運命へのカウントダウンが始まった。

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