第8話:また今度

 彼と暮らし始めて、僕は初めて家の台所に立った。実家で暮らしていた頃は包丁すら握らせてもらえなかった。男だからという理由で、ほとんどの家事はやらなくて良かった。だから僕は洗濯機の回し方さえ知らなかったが、彼は呆れることなく一つ一つ丁寧に教えてくれた。


「食材を切るときは、猫の手で押さえるんやで」


「猫の手……こうですか?」


「ん。そうそう。ゆっくりでええよ。慌てなくても逃げたりせぇへんから」


 そう言って彼は僕の後ろに周り込み、僕の手に手を重ねる。食材の切り方を教えてくれているだけなのだが、距離が近くて意識してしまい、頭に入ってこない。


「にしても、幸人はんの手、ほんまに小さいなぁ。女の子みたいやわ。可愛い」


「揶揄わないでください……」


「ははっ。ごめんごめん」


 実家から連絡が来たのは、それから一週間後のこと。母が倒れたとのことだった。

「お前のせいだ」と電話越しに僕を責めたのは兄だった。その後すぐに同じ電話が姉からきた。「今なら許してもらえるから男と別れて戻ってきなさい」と、優しい声で刺してきた。


「例え別れても、僕はきっとまた男性に恋をします。女性に恋をすることはきっと一生ないです。僕はゲイなので」


 そう説明すると姉は「そんなのわからないじゃない」と返してきた。


「じゃあ姉さんも、いつか女性に恋をする日が来るかもしれないですね」


 冷静を装ってそう嫌味を返すと姉は「なに訳の分からないことを言ってるの」と声を荒げた。これ以上は話をしても無駄だと判断し、電話を切り、着信拒否にした。すると今度は、母から電話がかかってくる。家族の電話番号を全て着信拒否にすると、身体から力が抜けた。膝を抱えて闇に閉じこもる僕に「お疲れさん。チョコ、食べるか?」と優しい声が降ってくる。顔を上げると、しゃがんで目線を合わせて、僕にチョコレートを一粒差し出して、優しく笑う彼が居た。その笑顔がやけに眩しくて、見ているのが辛くて、膝に頭を戻す。


「……一人にした方がええか」


 彼が立ち上がる気配がした。思わず袖を引いて引き止めると、彼は引き返して僕を抱き寄せた。温かい。生まれ育ったあの家よりもよっぽど。温めてほしい。


「……


「ん? わっ……」


「陽希くん。好きです」


 彼を床に押し倒して、顔を近づける。今はただ何も考えたくなくなかった。ただ、現実逃避のために彼を求めた。しかし彼は唇が触れ合う前に手で制した。そして「そういう現実逃避の仕方はあかんよ。癖になるから」と、厳しい声ではっきりと諭した。叱られたことに気づき、急に押し倒したことを謝罪する。


「……うん。ええよ。今はハグで我慢しとき。な」


 優しい声で言って、彼はまた僕を腕の中にしまう。彼の優しい温もりが、衝動を一瞬で鎮めた。


「……すみません」


「ええよ。大丈夫。落ち着いた?」


「……はい。すみません」


「ええってば。……なぁ、あのさ……前に俺、初めてカミングアウトした相手が親や言うたやろ?」


「はい」


「俺、すっげぇ緊張して、何言われるんかビクビクしながら打ち明けたんよ。けど……案外、あっさりしとって……あぁ、世の中敵ばっかりやないんやって安心した。俺が堂々と出来るんは親に恵まれとったからなんや。あぁ、あとな、幼馴染がレズビアンでな……その子の存在も大きかったと思う。やから……幸人はんと同じような家庭やったら、こんな堂々としてられへんと思う。俺にあんたの辛さは計り知れん。やけど……そんな恵まれてる俺でも、一時期は自暴自棄になって、どうでもいい人と——あー……ごめん。恋人にする話やないなこれ……ごめんな」


 その先は語らなかったけれど、どうでもいい人と何をしていたかは察した。


「今は、そういうことしてないんですよね」


「当たり前や。あんたを悲しませるようなことはせぇへん」


「……うん。大丈夫。信じてますよ」


「ありがと。……さ、飯作ろうか。手伝って」


「はい」


 未だ慣れない手つきで彼の調理を手伝っていると、彼が急に笑い出す。


「なんですか?」


「いや……なんか、ええな思って。一緒に台所に並んで料理するって、みたいで」


 両親が台所に並んで料理をしていたところを見たことはないが、陽希の家ではそれが普通だったらしい。


「……羨ましいです。君の家族が」


「……ほんならさ——」


 彼は何かを言いかけて「やっぱええわ」と止める。


「なんですか?」


「……なんでもあらへん。気にせんといて」


 もう一度聞き返すと、彼は「また今度話す」と答えた。僕はその言葉を信じて待つことにした。しかし、そのまた今度は、二度とこなかった。この時彼が何を言いたかったのか、今となってはもうその答えを確かめる術はない。だけど、今の僕ならなんとなく分かる。何を言いかけたのか、何故言いかけてやめたのか。


 後に僕は、彼の家族になる。彼の両親の養子になることで、間接的に。きっとこの時彼は、そのことを提案してくれようとしたのだと思う。だけど、それはきっと、彼が望んだ家族の形ではない。彼は義兄弟ではなく、恋人として社会に認められたかったのだろう。僕もそうだ。出来ることなら、彼の夫になりたかった。だけどそれはもう叶わない。例え今、同性同士の婚姻が法律で認められたとしても、僕が結婚したかった相手はもう、この世には居ないのだから。

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