第4話
油をつめた
その双方を、陣では
その機を逃さず、荒れ狂う巨体によじ登り、どこかに守り隠されている主人を引きずり出して、頭を叩き割る。
主人が死ねば、
ここでの戦いは、ひどく単純で。そして恐ろしい。
油煙と炎にまかれ、押し
新兵の多くは初陣の、最初の突撃で死んでゆく。
恐れて立ちすくめば、それきり命運が尽きる。そういう戦場だ。
十四の歳にジンが初陣に臨んで以来、四年の年月が過ぎ去った。
初めは真っ向から参戦に反対していたスタンフォードも、最初の突撃から生きて戻ったジンを迎えてからは、くどくどと引き留めるのをやめていた。
あちこち焼け焦げ、肋を二三本折って戻った陣中で、手当され安全な寝床に匿われても、体の震えはまる一日消えずに続いた。
恐ろしかった。
寝ても覚めても、その恐怖が脳を浸し、どこを見ても、
その眼を部族領から駆逐しなければ、安穏な日など二度と来ないような気がした。
戦わずにいられない。
逃げ場のない恐怖には、自分から立ち向かっていくほかはない。
この辺境へ、幼い自分を追いやった父のことを、怨みに思う事もある。
権力を争う都の闇の中で、寵愛の妾妃であったジンの生母が、何ものかの謀略によって毒死したことで、父は貴族たちの怨念を知った。
その謀略は、実は父自身に向けられたもので、母は身代わりに毒杯を受けたのだという者もいる。あるいは、大貴族の娘であった正妃を父が蔑ろにしたことが、醜い嫉妬を煽ったのだと。
背後に渦巻くものが何であれ、族長は大貴族たちの懐柔をはかるため、妾妃の生んだ息子たちを都から追放した。
百花に華やぐ海都から、この血泥にまみれた戦場へ。ここは、ジンにとっての流刑地だった。
しかし、戦場に立ち、突撃を待って震える兵の群れの中にいると、ジンには彼らが血の繋がり以上のもので繋がれた、家族に思えた。
この戦場に繋がれている。ここが故郷だ。
銀の眼にみつめられる悪夢は、おそらく、何ものかがこの頭蓋を踏みつぶすまで、醒めはしない。殺すか、殺されるかという、果てのない狂乱に、きっと心のどこかで、自分は酔いしれているのだ。
族長も、さすがは血を分けた父。おのが息子を知り、いかにも相応しい牢獄を選び出したものだ。
「わずかですが、圧されてます」
戦列後方で戦況を見ていたスタンフォードが、冷静な声で状況を告げている。
それを片耳で聞きながら、ジンは樽の手桶から水をあおっていた。
前線から戻ったばかりで、喉が灼けそうだった。
「右翼にでかいのが一つ、暴れ回ってやがる。そいつが他の
「森で見たやつか」
「いいえ。別のやつのようです」
煤がしみて、紅く染まった目に、残った手桶の水を浴びせかけてから、ジンは髪を振り、スタンフォードがのぞき込んでいる、指揮卓の上の布陣図に片腕をついた。
小さな寝台ほどもある紙の上に、茶色がかったインクで地形が描かれ、戦線の背後には黒く塗りつぶされた森。戦場のそこかしこに、
駒の大きさは
伝令が前線から戻るのには、いくぶん時を要する。配置はすでに変わり始めているだろう。
布陣図の上には、予想進路を示す青い輪が幾つか置かれていた。
進路は司令塔の行き先とおぼしき方向を示している。
その予測に従って、兵と、
経験と、それによる勘が、指揮官には要求された。
スタンフォードは少年兵のころから、この戦場で戦っていた男だ。忌み嫌う
それゆえ、族長は全軍の指揮権をスタンフォードに与えていた。
ジンはこの戦場の、どんな指揮系統にも属していない。ただここに幽閉されているだけで、一兵にすら命じる権利は持っていなかった。それが父である族長の仕打ちだ。
しかしスタンフォードは、大群の指揮をとって
「右翼へ行く」
布陣図を頭に叩き込み、ジンは気を奮い起こした。抜き身のまま指揮卓に放り出していた両刃の長剣は、すでに血脂で曇りきっている。
「殿下、さっきから顔がイッてますぜ。血に酔って深追いせんでくださいよ」
「わかってる」
鞍に飛び乗ると、
「汝、死を恐れるなかれ《アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ》!」
前線の兵に突撃を命じる古語が、あたりに響き渡った。
敵陣へとなだれ込む兵たちの
突撃を生き延びて戻り、青ざめて後方に転がっていた年端もいかない新兵たちが、こちらを見て火が入ったように、立ち上がってジンの名を叫びはじめる。
右翼は目に見えて意気消沈している。
「殿下だ」
剣の柄を握ったまま、疲労で座り込んでいた兵たちも、族長の息子の顔を見ようと立ち上がった。
「兵に水を
馬上から飛び降り、丸太を組みあげた望楼の上にいる者たちを見上げて、ジンは告げた。
隊列に水を浴びせるのは突撃の準備だった。
ジンの到着を待ちかまえていたかのように、前線近くに配置されていた
馬を降り、悲鳴とも雄叫びともつかない声をあげる人垣を押しのけて、ジンは最前線の見える隊列の先頭へと割り込んだ。
「どうした兄弟、怖いのか?」
背中をまるめていた兵の肩を、ジンが抜き身の剣を握った腕で小突くと、周りから緊張した笑い声があがった。
「司令塔の
「あいつです」
「畜生」
「殿下、あの化け物野郎が、仲間をまるごと食いやがった」
大の男が泣き笑いする顔も、ここでは特別珍しいものではなかった。
兵たちの指差す方向に、目を疑う、巨大な山猫がいた。
三匹。いや、一匹。
山猫の頭を備えた三つの上半身と、
山猫の三つの顔には、それぞれ一つだけの銀色の目が開いている。
その瞳が炎に照り映えるのを見て、ジンの脳裏に焼けつく酸のような恐怖が湧いた。柄を握る指に、思わず力がこもる。
凍るような恐怖が、戦意にとろけて脳を浸してゆく、その感覚は、身のうちに拡がるにつれ、急激な喜悦に変わった。
「あいつを殺せ、仲間の仇だ」
血に曇る剣をあげて、ジンは山猫の目を指し示した。
「あの悪霊を操ってるやつの、頭を叩き割ってやれ!」
縋り付くような同胞の青い目のひとつひとつを、ジンは見つめ返した。
煙に充血した目のどれもが、酔ったような高揚をうつしとり、水を浴びた兵たちの呼吸があがっていく。
「突撃するぞ」
見つめた戦線へと歩兵たちが向き直る。
「……汝、死を恐れるなかれ《アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ》」
囁くような独語が、あたりから口々に漏れ聞こえる。それは祈りの声だった。
突撃準備を命じる銅鑼の音が、聞き慣れた間隔で最前線の空気を震わせた。
この場の殺気に酔い始め、我を忘れかけている自分を、ジンは感じた。戦意のみなぎる頭の芯が、痺れたようにぼうっといている。敵の頭を叩き割って、血まみれの脳髄を引きずり出すことしか考えられない。
恐怖する兵たちに紛れ、憎しみに身をまかせると、このまま一歩兵として戦場に斃れることに悔いはなかった。海都が遠のき、父の顔が遠のいた。
音高く銅鑼が打ち鳴らされる。
「アフラ・トゥルハ・ネイン・ヴィーダ!!」
隊列は戦場へと突撃を開始していた。
目指す先には火炎と黒煙がうずまき、その空気を切り裂いて現れた
走っているような実感がしなかった。
しかしジンは顔を流れ落ちる水滴が、なびく髪をつたって、はるか後方へと舞い落ちていくのを感じた。戦場の興奮が恐怖を凌ぎ、熱気と愉悦が、すっかり意識を乗っ取っている。
ただ暴れ回るばかりの巨体は、それだけでも脅威だ。
よじ登ろうと剣をくわえた兵が何人も、殻を持った
足場として突き立てられた鉄の
巨大な銀の爪に首をとばされた兵の体が、よろめくように天を仰いだ。
今だ、と呼吸をとめる自分自身の合図が、脳裏の奥深くから聞こえた気がした。
その瞬間にはもう、ジンは跳躍していた。
踵をはじきかえす、仲間の死体の感触が、ジンを空中へ跳ね上げた。
山猫の
その先には堅い毛に覆われた
思い悩み考える必要もなく、次々にとるべき一歩がジンの脳裏に湧いた。
波打つ背に這い登ると、山猫の体が分かれる付け根のあたりに、薄く半透明な半円の殻があり、炎を透かせて、その中にぼんやりと人影が浮かびあがった。
急所に這い寄る何者かの気配を感じて、
ジンは半透明の殻に手をのばした。そこにこの
ねばつく薄い隔壁は、剣の切っ先を使ってこじ開けると、殻というより膜のように、やわらかな感触でふたつに裂け始めた。
獲物はもう目の前にいる。
その血を見たいばかりに、そのほかの何もかもが恐ろしくなくなった。
円の中に座っていた、長い金の髪に覆われた白い顔は、ぼうっと意識を喪失しているように、うつむき、揺れる
武装もなく、華やかな衣裳と装身具をまとった、華奢とも思える敵の肩を、ジンは血と油にまみれた手でつかみ、金色の頭を割るため、その座から引きずり出そうとした。
手が触れ、粘液の中から引き出された瞬間、生まれたばかりの赤子がそうするように、森からの侵略者の細い喉は、大きく息を吸い込む、悲鳴のような引きつる音をたてた。
金色の睫毛にふちどられた、侵略者の大きな緑色の目が、悲鳴とともに人並みの表情を取り戻す。
それは恐怖の顔だった。
殺意に溺れ、剣を振り上げた、血まみれの敵を見ている顔だった。
次の瞬間に起きる出来事を覚悟し、青ざめた白い顔がきつく目を瞑った。
女だった。
ジンは息を呑んだが、渾身の力をこめた剣は止まらなかった。
長剣は唸りをあげ、娘盛りの美しさに輝く白い額に、深々とめりこんだ。
うす青い瞼を伏せたまま、女は血と脳漿を辺り一面に飛び散らせ、なにかを叫びたそうに唇を開く。
しかしそれは声にはならなかった。
命を失った森の娘の肉体は、ごろごろと
そのまま時の流れも止まっているかのように思えた。
落ちてきた敵の死体を、踏みつけ嬲る兵たちの憎悪の声が聞こえる。
足下が蠢き、森を振り返ったのに姿勢を崩して、ジンは
ついさっきまで生きていた、あの娘の白い顔は。
シェレネに、似ていた。
見下ろすと、その場に残された血飛沫の中に、敵の娘が髪に挿していた、一輪の花が遺されている。
それは白く、透きとおるような、はかない、花だった。
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