第5話

 夕刻、初夏の気長な太陽が沈む頃には、敵は現れた時と同じく唐突に退きはじめ、勝敗も定かでないまま戦は終った。

 陣中の天幕に戻ると、泣いたような顔でシェレネが待っていた。

 気をもんで歩き回っていたらしく、黄色い長衣の裾は泥に汚れて皺だらけで、癖の強い髪からは、麦藁のような遅れ毛が、何本もとび出している。

 典雅な貴婦人とはいかなかった。

「お帰りなさいませ」

 ぎこちない口調でジンを迎え、シェレネは誰かに教えられでもしたのか、姿勢を低くして、剣を受けとるために両手を差し出してくる。

 血まみれの剣を渡す気がせず、代わりにジンは、シェレネの腕を引きよせて、居慣れぬふうな、華奢な体を抱きしめた。

 火炎と血飛沫の世界から戻ると、女の体の柔らかさは途方もない安らぎに感じられる。

 ただすがりついてくるだけの、シェレネの不器用な抱擁に、ジンは一時目を伏せ、女の呼吸を聞いていた。

 何も見えないはずの瞼の裏に、白い花で髪を飾っていた、敵の娘の顔が思い出されてくる。

「女を殺した。いやな戦だった」

「でも、もう終わりました。無事で、本当に、よかった……」

 かすれた小声で、ひとり言のように呟くシェレネは、戦いの中をくぐり抜けてきた兵士たちに劣らず、疲れきっているようだ。

 あの娘も、自分に頭を割られなければ、今ごろこうして、誰かの胸にすがりついていたろうか。

 森に棲む者たちにも、こんなふうな営みがあろうとは、今までは、想像してみることもなかった。敵にも心があるだろうなどと、考えていてはやりきれなかったからだ。

 守護生物トゥラシェが女を乗せているのは、別に珍しいことではない。気持ちのいいものではないが、それを手にかけたのも初めてではない。

 ただ今までは、敵の女は亡霊のごとき、正体のない影と思い込もうとしてきた。部族の女たちとは違うのだと。

 しかしシェレネは、紛れもなく生身の女だった。愛し合えば熱く受け入れ、潤む内奥の震えも、他の女と何も違わない。

 あの白い娘もそうだったろう。

 同じ血肉を持つ身で、惨たらしく殺し合ってきたのだ。

「……臭うか?」

 問いかけると、シェレネは抱かれたまま首を振って答えた。

「いいえ」

 嘘だろうと思ってジンは苦笑した。血と汗と、油と黒煙の臭いが、体中にしみついているのが、自分でも分かる。それに混じって、甘く冷たい花のような匂いもした。アルマ期に入ったので、その体臭だろう。

 戦場の血に酔って気分が高揚すると、兵たちは同じ匂いを漂わせた。鼻腔を満たすその香気が、よりいっそう高揚を煽り、この時期の戦場には、ただならぬ陶酔感がつきまとう。

 アルマの巡りは四年ごと、この前のはちょうど、ジンの初陣の年だった。

 あの時も、なにか抑えきれない欲を感じて、戦いと、血を求めた。

 それまでの日々、他人事として横目に見つめ続けた、呪われた戦場のことが、アルマの香りを嗅ぐとともに、たとえようもない魅力に思え、誰が止めるのも、耳に入らなかった。

 そういうものなのだという。海辺の部族の男として生まれつくというのは。

 血に狂うよう創られている。けだものと同じ。

 心を満たす流血と、寝床に囲える女がいれば、それ以上のことは思い悩まない。

 シェレネを抱いたのは、愛しかったからではない。単に自分が助けた娘で、剣一本で正々堂々と勝ち取ったのだから、彼女はジンの戦利品だった。手もつけずに放り出されれば、女にとっても恥になる。

 一晩なりと情けをかけて、あとは彼女の身の立つように、望むところへ送り出してやればいいと軽く考えていた。

 初めてだとは思わなかった。

 他にはどこにも居場所がないというような、心細げな目をしていて。

 スタンフォードの言う通りかもしれない。

 昨夜はちょっと、変わった娘だと思っただけにすぎなかったが、シェレネは確かに、昼間仕留めた守護生物トゥラシェの乗り手と、よく似た面差しをしていた。

 あの白い顔に降りかかった血飛沫を見て、ジンは初めて自分の剣を呪った。

 シェレネを斬ったような錯覚を覚えた。

 戦地のあらゆる陶酔が萎え、敵が退いていくまでの長い間、ジンはこの天幕に、生きて戻ることだけを考えていた。

 シェレネは死んではいない。こうして腕の中で息をしている。

 もしも誰かが、あの白い花の娘のように、シェレネの命を奪ったとしたら、自分はおそらく、その者の頭を千度でも叩き割るだろう。

 この戦いはそういうもので、たった今も、森のどこかで、あの娘の死を嘆く誰かが、怒りと復讐心に身悶え、呪いの言葉を口にしている。

 ジンの頭を千度でも叩き割ってやると、心に誓っているに違いない。

 戦いなど終わればいいのに、と、ジンは心底から、嫌気がさした。

 シェレネに海を見せてやりたい。こんな殺伐とした戦場で、森に怯える日々を送らせるのではなく、もっと別の心安らぐものが、この娘には必要なのではないか。

 そう思う自分が不思議に思えて、ジンはふと目を開いた。

 抱き寄せていたシェレネの肩を、少し引き離して、ジンは彼女の、おどおどと自信のないふうな、子供のように大きな青い目と、海辺の部族の女にしては淡すぎる褐色の顔を眺めた。

「……あのぅ…………、どうかなさったんですか?」

「シェレネ、俺がお前を助けたのは、勘違いをしたからだ」

 シェレネは言われた意味がわからないせいか、一瞬、ぼんやりとした表情を見せる。

昨夜ゆうべは、どうでもいい事だと思ったから話さなかったが、やっぱり話すことにする。お前、本当の話を聞いたら、怒ってここを出ていくか?」

 問い終わらないうちに、シェレネは悲しげに眉を寄せ、涙をこらえる目つきをした。

 ジンは慌てて、彼女をもう一度胸に抱きしめた。

「私、……やっぱり追い出されるんですね」

「違う違う、違う」

 ジンは早口に、囁く小声で返事をした。

 泣くのを我慢しているシェレネの体温は高く、抱き合っていると汗が蒸れて暑かった。

「ここに居ていい。いや、……まず話を聞いて、それからお前が決めればいい」

 シェレネを抱いたまま、どうしようかと迷ってジンは天幕の中を見回した。

 こうして立ったままで話すのも妙なような気がする。

 帰り着いた時の、そのままで、汚れきった武装さえ解いてはいなかった。

 こんな、むさ苦しいなりで、いきなり話すこともなかっただろうに。なにを、そう焦っているのか、情けない。

 小さく舌打ちしてから、ジンは深いため息をついた。

 そしてシェレネをさらに強く抱き、もう一度、ため息をついた。

 汗と油が不愉快で、つねなら水も浴びずに女を抱く気がしないものだったが、なぜか今日ばかりはシェレネと、離れがたかった。

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