第3話

 昨夜には、明日になればもう、自分の命はないのだとシェレネは覚悟していた。

 母さんが死んで、シェレネをかばってくれる人が誰もいなくなってしまった。

 陣に暮らす誰よりも淡い色の、白っぽい肌と、金色かがった薄茶の巻き毛は、なにより目立ったし、そんなシェレネの容姿は、森からやってくる侵略者たちの姿を連想させた。

 侵略者たちは、やつらが守護生物トゥラシェと呼んでいる、見上げるような身の丈の怪物を連れて、突然森から襲ってきて、領境を侵す。

 国土を守るために、陣の兵士たちはシェレネが生まれるずっと前から、死闘を繰り広げてきた。

 森の者たちは、白い膚と、金の髪をしていて、人を食い殺す怪物を思いのままに操り、剣に誇りをかけた部族の男達を、とるにたらない森の下草のように、容赦なく踏みにじる。

 守護生物トゥラシェを操る無表情な敵は、人ではなく、森の悪霊なのだという者も大勢いた。

 母さんも、それには言葉を返さなかった。

 父親がわからずに生まれてくる子なんて、ここでは、いくらでもいる。

 それでも、金色の巻き毛を持った赤ん坊を産んだ女にとっては、陣中での暮らしは過酷だったろう。

 シェレネと二人きりになると、母さんは時々、シェレネを授かった夜の話をしてくれた。

 ある年、森から、月明かりにぼんやりと光る種をのせた綿毛がとんできて、そこから見る間にほっそりとした蔓草が育った。

 草は丈に不釣り合いなほど大きな青白い蕾をつけた。

 母さんには、その花の蕾が、ひっそりと歌を歌っているような気がしたのだそうだ。美しく澄んだ、男の人の声で。

 花の歌は、月が満ちるごとに、少しずつ強くなっていった。

 満月の晩、蕾はいっせいに花開き、母さんに歌いかけた。

 おいで、おいで、と。

 誘われるまま森へ彷徨っていって、母さんは、父さんに出会ったのだ。

 月明かりに輝く、銀色の樹の根本に、この世のものとは思えないような、美しい男の人がいて、長い金の髪を夜風にそよがせ、母さんに、あなたを待っていたと告げた。

 母さんはそのまま、その金色の人のウエラになったのだ。

 花が枯れたら、その人は森へ帰らなければならないと言った。最後の晩に、また同じ花の咲く夜、きっと母さんを迎えに来ると約束して。

 だけど、その次の年も、またその次の年も、花は咲かなかった。

 森から吹く風をみつめて暮らし、やっとまた同じ、光る綿毛が飛んできたというのに、母さんは死んでしまった。

 今さらになって、寝物語に聞いた青白い大きな蕾を結ぶ蔓草が、シェレネは恨めしかった。

 ずっと、母さんのことを頭のおかしい女呼ばわりしてきた連中が、蔓草ののびるのを見て、悪霊を呼んでいると虐げるのも、どうしようもなく悔しかった。

 陣の連中は、このまま月が満ちるのを怖がって、母さんやシェレネをいじめた。

 母さんは森の悪霊と契ったのだという。だからシェレネも、月が満ちれば悪霊を呼び寄せるかもしれないと、皆がいうのだ。

 シェレネは、母さんを恨んだことはなかった。

 自分の父親が、森の悪霊だか、化け物を連れた侵略者だか、本当のところはわからない。それで皆に疎まれるなら、仕方ない。

 だけど母さんは花の咲く満月の夜に、恋をしたのだ。愛した人のウエラになった。

 だったらそれで、いいじゃないか。

 酔った兵士たちに殺されそうになった時、シェレネは心の中でだけ、必死で助けを呼んだ。誰が助けてくれるとも思えなかったけれど、心で呼びかければ、森から父さんが助けに来てくれるかもしれないと、うっすらと甘い夢を見たのだ。

 助けて、と森に呼びかけると、シェレネも花の歌う声を聞いたような気がした。

 おいで、おいで、と。

 でも、その時助けに現れたのは、父さんではなく、あの人だった。

 ジン・クラビス・マルドゥーク。

 私刑にかけようとシェレネを襲っていた連中を、あっという間に倒してしまった彼を見て、シェレネはもう、自分は死んでいるんだと思った。とっくに殺されて命は終わり、生きることの苦しみから解放されて、綺麗な夢をみせてもらっているだけなんだと。

 もしそうなのだとしたら、この夢からは、いつ目覚めるのだろう。

 夜の森で、出会ったばかりの人のウエラになった母さんの気持ちが、シェレネにはわかった。

 もしこれっきり、綺麗な夢から目覚めて、自分のところに残るのが、この人の子どもだけでも、自分は後悔しないような気がする。

 母さんはたぶん、幸せな女だったんだ。

「間違いねぇ、守護生物トゥラシェの痕跡です」

 馬から下りて、地面に残されたえぐれた跡を確かめ、スタンフォード将軍がこちらを振り返った。

「このところ雨は降ってません。渇いて固まった地面に、ここまで沈むようなでか物は、守護生物トゥラシェのほかにゃありません」

「ずいぶんと、森から出張ってきたものだな」

 シェレネを馬上に残して、ジンは兵たちの集まるほうへと歩み寄っていく。

 見やると、ここはもう森のほとりだった。背の低い灌木や低木が、拓けた土地にむかって、ゆっくりとした静かな侵略を続けている。

 遠目に見える森の奥は、鬱蒼と暗い。

 途方もなく重いものを引きずったような痕跡は、まっすぐに、森の奥へと消えていた。

 シェレネには、それが、何者かの足跡というより、おそろしく巨大な何かが、地面を泳いだ跡のように見えた。

「偵察にやってきた斥候せっこうでしょうか」

「そんなところか。近々、襲ってくるつもりだろうな」

 腰に帯びた長剣の柄に片腕をあずけて、ジンは遠く、森の中へと目をこらしている。

 ここにも、唐突に大きな蕾をつけた、例の蔓草が、そこかしこに生えていた。陣中では気味悪がった者たちが、あらかた刈り取ってしまったが、人も稀なこのあたりの緩衝地帯では、誰の手にも摘まれずに、ゆっくりと蕾を膨らませているようだ。

「相当でかいな」

「笑いごとじゃありませんぜ」

 面白そうに言うジンに、スタンフォードが説教じみた言葉を紡いだ。

「連中は、力のあるやつほど、どでかい守護生物トゥラシェを操れるんでさ。連れのでかさが、ひるがえって、そいつの地位も決めるってわけで。こんだけの大物をひっさげてる奴なら、名のある将に違いありません。油断なりませんや」

「そうは言っても、森の中のことは、さっぱりわからない。兵を増やして、念入りに哨戒するほかないな」

「よその陣から兵を呼び寄せますか」

 指を組み合わせて、革手袋の具合を直しながら、スタンフォードが、森に向かって立つジンの背中に呼びかける。

「それは待て。陽動かもしれない。手薄になった戦線を見つけたら、そこへ突っ込んでくるぞ」

「ごもっともで……」

「森へ入ってみるか?」

 さらりと言い出したジンの言葉に、偵察に来ていた兵たちが、ぎくりと大仰にたじろいだ。

「本気で言ってるんですかい、殿下。森ん中に押し入って、こっちに有利なことは一つもないですぜ。もし遭遇戦にでもなったら、あちらさんの独壇場だ。俺たちゃぁ、守護生物トゥラシェに今夜のオカズを運んでやっただけになっちまう」

「敵が見えないってのは、いやなもんだ……」

 かすかに唸るように、ジンがつぶやいた。

「向こうには、こっちが、見えてるのか?」

 焦れたふうな、ジンの言葉を聞いて、シェレネも暗い森に目を向けた。

 でも、そこには何も見えない。ただ樹木が無数に立ち並び、暗く視界をさえぎっているだけだ。

 陣中で暮らす者たちにとっては、森はただ不吉なだけの場所だった。こうしてじっと見つめることも、滅多にありはしない。

 母さんが生きていた頃、父さんを想って愛おしげに森を見つめるのにも、シェレネは何とはなしに空恐ろしさを感じたものだった。

 あの緑色の暗がりの向こうに、愛おしむべき何者かがいるとは、とても思えない。父さんがもし本当に、あの向こうで生きているのだとしても、きっともう、ここへは戻って来ないのだ。今までに起きた何度かの戦で、とっくに死んでしまったのかもしれない。

 陣に戻ってくる兵士たちは、たまに、見せしめのために殺す捕虜や、敵の死骸を連れていることがある。その惨い有様を見るに付け、シェレネは思った。この中のどれかが、自分の父さんなのかもしれないと。

 もしまだ命があるなら、こんな戦には近づかず、無事に生きていてほしい。出会うことがなくても、この世のどこかに父さんが生きているのだと思うだけでも、シェレネは満足だった。憎い敵の娘として、見つめ合うのは悲しいから。

 父さん……。

 複雑な想いで、シェレネは森の木々に目を走らせた。

 不意に、ゆったりと、遠くの梢がそよいだ。

 ──風もないのに。

 ひやりとした針のようなものを、心に感じて、シェレネはジンの背中に目を戻した。

 そこに立って辺りをうかがう偵察隊の男達は、シェレネの見たものには気づいていない様子だった。

 ちらほらと、綿毛が森から漂ってくる。

 声より先に、シェレネはそちらを指差していた。

「ジン、様……、種、が……!」

 シェレネが絞り出した声を聞き、男達がふりかえる。

 指さした方向に彼らの視線が追いつくのを待たず、シェレネは悲鳴をあげていた。

 森の天蓋、おそろしく高いそこに、何かがぬうっと、頭を突きだした。

 いいや、頭ではない。銀色に陽光を反射する、それは巨大なだった。

 木々の梢をおしのけて、そこに実った果実のように、銀色の眼球だけがそこに浮かび、じっと見つめる瞳を、シェレネに向けている。

 ざわざわと、梢が騒いだ。風もなく揺らめく、それは樹木ではなかった。

「……守護生物トゥラシェだ」

 押し殺した声で、ジンが警告のようにつぶやくのが聞こえた。

「でけぇ……、なんてやつだ」

 スタンフォードが息をのみ、梢の瞳を見上げたまま、腰の剣をゆっくりと抜きはなった。

 ずぅん、と空耳のような地鳴りが聞こえる。

 シェレネが見回すと男達は皆、抜き身の剣を中段に構えていた。

 そんなもので何とかできるような、なまやさしい敵には思えない。

 ずん、とさっきより近くで、ものすごい地響きが湧き起こる。森の梢から、銀色の眼が瞬いて消えた。どこかへ移動したのだ。

 シェレネの心臓は、今にも弾けそうに早鐘を打った。恐怖で引きつった呼吸の速さに、肺が破れてしまいそうだ。

「こっちへ来るつもりらしいな」

 肝の据わった声で、ジンが短く言い、くるりと踵を返して、シェレネのほうへ走り寄ってくる。

 震え上がっているシェレネの後ろに飛び乗って、ジンは手綱をとった。

「おい、お前ら、なに突っ立ってんだ? あれとやり合ったって勝てないぞ。戻って火炎砲台カタパルトに油をぶちこめ!」

 めりめりと地面を割り進む轟音とともに、森がかしいだ。

 男達は魔法から解き放たれたように我にかえり、剣を鞘におさめながら、馬のもとへ駆け戻ってくる。軍踵ぐんかあぶみを踏む硬質な音が次々に聞こえた。

「走れ、エスランガ、あいつにケツを食われたくなかったらな」

 地鳴りに引きつった頸を叩いて、ジンが愛馬を正気に返らせる。拍車をかけると、馬はいっとき後足で立ち上がった。

 兵を乗せた騎馬は、弓弦から放たれた矢のように疾走していった。エスランガは殿しんがりから速力をあげ、あっというまに先頭に立ち、こうべを垂れて風のように走った。

 ジンの胸に抱き留められながら、シェレネは森の中を何かがものすごい力で追ってくるのを感じた。

 木々を押しひしぐ轟音とともに、どおん、と地盤がゆらぎ、猛烈な土埃とともに、陣への道を疾駆する馬の前へ、巨大な倒木のような何かが飛び出してくる。

 現れた倒木は、樹皮をく音をたてて長虫のごとく曲がり、目の前の地面に根を突き立てる。めり、と乾いた音と共に、木肌の真ん中に、ぽっかりと唐突に瞳が開いた。

 梢に見たのと同じ巨大な銀色の瞳が、こちらを見つめた。

 シェレネは、喉をかぎりの絶叫をあげた。

 エスランガが手綱に命じられるまま跳躍する。

 樹皮を撒き散らして形をかえる倒木の上を越え、蹄がふたたび地面をとらえると、ジンが背後をふりかえった。

 森の奥から追い縋ってくる幹の、褐色の地肌が繰り出されてくる。

 馬の後足をつかもうとするかのように、間近に押し迫った巨木の枝は、見る間に人の手のように形を変えた。逃げるものの速力に追いつかず、爪が地面をかくと、指は地面にめりこんで根を張り、そこから樹皮を割って銀色の蛇が生まれ出る。

 悪夢の中を追ってくる怪物のようだった。

 シェレネは悲鳴を枯らして、恐怖に眼をみひらき、自分たちを捕らえようと追ってくる悪霊の手を見つめた。

 岩を砕くような轟音が森の中から響き渡っている。それは得物を逃がしたものの怨みの声だった。

 樹木ほどもある巨大な蛇が、かまくびをもたげ、銀色の眼でこちらを恨めしげに睨みつけてくる。

 息を吐く鋭い音とともに、地面に食い込んだ根を引き抜き、ゆらりと大きな弧を描いて、それは再び森の奥へと潜むため、鬱蒼とした木立へと、身を引き戻していった。

 襲撃は、それきりだった。

 がたがたと震えているシェレネの体を強く抱きしてめて、ジンが馬に鞭をふるう。

 気が付くと単騎になっていた。

 森から離れきった高台まで走りきり、ジンは全力疾走に泡を吐いているエスランガの脚を休ませた。大きな息をつく馬の肌は、びっしょりと汗をかき、茶斑の毛並みがよりいっそう暗い色に輝いている。

 森をふりかえるシェレネは、逃げ切ったとわかってもまだ、歯の根が合わなかった。

 初めて見た。

 あれが。男達が戦っている怪物。

 守護生物トゥラシェ

 森から来る、悪霊なのだ。

「……どこも怪我はしてないな?」

 肩口から、シェレネの蒼白の顔をのぞきこんで、ジンが尋ねてくる。シェレネは彼の腕にきつく指を食い込ませたまま、何度か小さく頷いて答えた。

「連中も無事だったようだ」

 ジンの振り向いたほうへ顔を向けると、シェレネにも、遅れて戻ってきた騎影と、土煙が見えた。

 息をはずませた馬が十数騎、こちらを見つけて駆けつける。

 再び寄り集まった兵士たちの顔は、一様に青ざめている。

「殿下、ご無事で」

 固い表情のままだが、心底ほっとしたような声で、スタンフォード将軍が呼びかけてきた。

 シェレネを見つめる、片方だけの青い瞳は、これまで以上に冷たかった。

「戦ったか?」

「いいえ。あいつぁ、殿下の馬だけを追ってました。こっちには食指が動かなかったらしいですぜ」

 ジンの問いかけに答える間も、スタンフォードはじっとシェレネを睨んでいる。

 いっそう不安になって見上げると、ジンはシェレネの瞳から眼をそらした。彼が見つめた先には、今はもう静まりかえった森が、遠くひっそりと悪霊を匿っている。

「あの敵は単独行動だな」

 どこか上の空で、ジンがつぶやいた。

「森に化けてるとは……あんな守護生物トゥラシェは見たことねえ。この娘を奪い取ろうと、がむしゃらに追ってきやがった」

 スタンフォードが荒々しく断じるのにも、ジンは醒めたふうな目を向ける。

「そりゃあ、まずいな。ウエラをぶん盗ろうとは、俺への挑戦ヴィーララーか?」

 冗談めかせて、ジンがスタンフォードをからかっている。

 挑戦ヴィーララーとは、部族の男達が意中の女を争うための、決闘のことだった。恋の季節がやってくると、男たちは見初めた娘を自分のウエラにするために、血を流して争うことを、むしろ好んだ。

「殿下、下手すりゃたった今くたばってたんですぜ! この女は、さっきのやつに憑かれてるんだ。さっさと始末したほうがいい」

「シェレネ、さっきのはお前の守護生物トゥラシェなのか?」

 目を見つめて尋ねられ、シェレネは心底から衝撃を受けた。

「……いいえ! 知りません、あんなの……!」

 首を振って、シェレネは必死で否定した。

 ジンは何も答えなかった。

「本当に知りません……」

 他の皆がいうように、シェレネには悪霊が憑いているのだと、ジンも思うのだったら、つらい。

 シェレネは兵士たちの視線に耐えられず、両手で顔を覆った。

 もし本当にそうだったとしても、あの怪物がシェレネの使役に応えるのだとしたら、この人を襲ったりするはずない。

「それじゃあ、お前を追わせたのは、さっきの守護生物トゥラシェあるじだろう。俺もよりによって、とんでもない相手と、女を争う羽目になったもんだな」

 ジンが苦笑とともに言い終えるのを待っていたように、見下ろした先にある戦線から、どん、と激しい音をたてて火炎が上がるのが見えた。

 ジンの顔から笑いがかき消え、戦線を見やる目つきが鋭さを増す。

火炎砲台カタパルトだな。何を撃ってる?」

「ここからじゃ見えません」

 男たちは眉間に皺を寄せ、険しい表情で火炎のあがるほうを見つめている。

「さっきのやつには、お友達がいたらしい。戻ろう」

 手綱を握り直すジンの手からシェレネが目をあげると、見下ろした森と平野との緩衝地帯を突き破って、巨大な何物かが陣に襲いかかろうとしていた。

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