第2話
洗濯物を集めに来た小間使いの女が、夜具から敷布を引き抜こうとするのに気づいて、シェレネは寝台へと跳んで戻った。
「私が洗うわ!」
「何を言い出すんだい、あんた。忙しいんだから邪魔しないでおくれ!」
敷布を奪い合い、女は噛みつくように文句を言う。シェレネは真っ赤に頬を染めながら、それでも必死で抵抗した。
つい昨日までは、シェレネも陣中の幕屋をまわって、兵士たちの汚れ物を集めていた。
洗濯して返すと駄賃がもらえる。それが、ささやかな日々の糧となっていたのだ。
内陸の領境を守備する軍団が駐屯するこの地には、各地から送られてきた兵士たちの仮住まいが数多くある。端仕事はいくらでもあったし、いざとなれば残飯をあさってでも飢えはしのげる。
生まれた時から、シェレネはこの陣の中で、そうやって生きてきた。
だから敷布の一枚くらいは自分で洗える。意地悪な女たちの手を借りなくたって。
「いいご身分に出世なすったんだ。その上、あたしから敷布の洗い賃までとりあげようってのかい? おお、怖い! さすがは悪霊の子だよ」
憎しみをこめた言葉に打ちすえられて、シェレネは思わず敷き布から指をすべらせていた。
いつもなら、これぐらいで引き下がったりしない。何にたじろいだのか、自分でも分からない。
いいや、たぶん、怖くなったのだ。
自分の境遇が変わってしまったことを、他人の口から教えられて。
夜具の下からすべり出てきた上等の敷布に、赤黒く血の染みがあるのを見つけて、女はシェレネに、なんともいえない底意地の悪そうな笑いを向けてきた。
「あんた、初めてだったの。あぁら、そう」
キッと怒った顔のままで、シェレネはさらに耳まで赤くなった。
握りしめた寝間着の裳裾は、生まれて初めて身につけた絹だった。
「どうせすぐに捨てられるさ。えらいお方が、あんたみたいなのを、いつまでも相手にするもんか」
「ほっといてよ、早く出てって!」
金切り声で女を追い出し、シェレネは悔しくて、丸く作られた幕屋の中を、うろうろと忙しく歩き回った。
涙目で見つけた先には、どうやって着るかもあやふやな、綺麗な女物の長衣が用意されている。
まるで朝の光を織ったような軽やかな布地は、暖かみのある黄色をしていた。
シェレネには、そういう色が似合うだろうと、昨夜、あの人が言ったのだ。一夜明けたら、それが本当にここにある。
着飾るようにと渡された衣装を抱き上げて、シェレネは新しい布地の匂いをかいだ。
さわやかな果物を思わせる、いい香りが焚きしめてあるほかは、誰かが袖を通したような、使い古しの臭いはしない。
あの人は、飽きて追い出した女の持ち物を、次の女にくれてやるような、けちな真似はしないのだろう。
族長様の息子なのだから。
そう考えると、シェレネの胸は引き絞られるように切なくなった。
さっきの女の言うとおり、自分は明日にも飽きられるにちがいない。
「まだ夜着のままなのか?」
背後から声をかけられ、シェレネは服を抱いたまま跳び上がった。ふり返ると、あの人が戻ってきていた。
シェレネよりずっと浅黒い肌と、深い青の瞳。額には、支配者の身分を示す、
その下にある顔は、鋭く整っていて魅力的だ。
誰の目にも。たぶん。
間近にふれあった夜の、身のうちに残る熱を差し引いても。
「悪いが、一緒に朝飯を食っている暇はなくった。誰かに運ばせるから、先に一人で食ってろ」
服を胸に押し当てたままのシェレネを抱き寄せて、耳元に口付けてから、男は少し体を退いて、布地の顔うつりを確かめた。
「うん、似合うな」
見立てに間違いがなかったことに満足したふうに頷き、男はシェレネの顎を持ち上げて、今度は唇に口付けた。
剣を握る
彼の身につけた武具からの、革と鉄の匂いにまぎれて、どことなく甘い香りがした。
アルマの匂いだと昨夜聞いた。
海辺の部族の男は、ー人前になって、恋の季節が巡ってくると、こんな香りを漂わせて、意中の女を酔わせるのだと。
自分がその、意中の女なのかどうか、シェレネは尋ねなかった。
言葉にして知りたくないような気がしたし、何もきかなくても、シェレネはもう彼のものだった。恋をするかどうか決めるのは、いつだって男のやることで、女には手出しができない。
「夜には戻る」
唇を離して、男は囁いた。巻き毛を梳いて、彼の指が出ていく。
それに取りすがって引き留めたい気持ちで、シェレネは身をひるがえす男の背に呼びかけようとした。
「あのう……! あの……旦那さま。私、ここにいていも、いいんですか」
驚いた顔で振り返られ、シェレネは自分の哀れっぽい声が心底恥ずかしかった。
「俺の名を知らないのか?」
「いいえ! ……ただ、なんとお呼びすればいいか」
しだいに小声になってゆくシェレネの言葉を聞きながら、男は苦笑していた。
彼が身につけた簡素な甲冑には、剣と月の紋章が
この陣中で、彼の名前を知らない女なんか、いるわけがない。
ジン・クラビス・マルドゥーク。
えらいお人には、なぜか名前が三つある。
終わりのは姓。血筋を示すものなのだそうだ。
最初の名前は、ほんとうの名前で、シェレネのように身分の低い者が呼んではならない。
真ん中のは、神殿が後からつけた仮の名前なので、呼んでもいい。
だけど恋人どうしになったら、最初の名前を呼んでもいいのだと、女達が噂しているのを聞いたことがある。
陣幕のもたらす糧を頼りに生きている貧しい女たちは皆、ここで地位のある男の恋人になることを夢見ている。その中でも、シェレネの目の前にいる男はとびきりだった。
彼の最初の名前を呼ぶことが許されれば、都の宮殿のお妃様になれる。それは、戦場を
「好きなように呼べ。でも旦那さまは止せ。俺の名前はジンだ」
彼が名乗るのと同時に、幕屋の外で呼び声がして、上背のある剣士が入り口の幕を払い、一歩踏み込んできた。
「お急ぎを。敵さんも居眠りしちゃあいないんで」
立派な剣を
片目のスタンフォードだ。出陣する軍団を指揮して馬上にいるのを、シェレネも遠目に見たことがあった。
この陣の将軍で、ここにいる者たちを生かすも殺すも、自由に決めることができる。
恐ろしくなってシェレネは息をつまらせた。まるで、夜に母さんから聞く物語の中に、入りこんでしまったみたいだ。
片方だけの青い目で、スタンフォード将軍は、そんなシェレネをじろりと
「殿下、なんでこの娘がここにいるんですかい」
あけすけな非難の口調で、スタンフォードが尋ねると、ジンは小さく肩をすくめた。
「俺の
「まさか! あの
声高に説教を垂れるスタンフォードは、荒々しい仕草で幕屋の外を指差す。その仕草は、この陣中では敵を罵るためのものだった。
将軍の指が示したのは、幕の外ではない。陣のむこう、戦線のひろがる、さらに向こう側の、鬱蒼とした森のことだ。
青い目と、褐色の肌をした海辺の部族の兵士たちが、シェレネの生まれるずっと前から戦い続けている、森からの侵略者たちのことだ。
「こいつは血が混ざってやがるんだ。ここらへんには、そういうのが居るんです。寝首でもかかれたら、俺ァ、海都になんて報告すりゃあいいんだ」
憎々しげに声を裏返らせるスタンフォードの言葉に、シェレネは幕屋のすみで身を固くして耐えた。
「もし俺がくたばったら、厄介払いが済んで、族長はせいせいするさ」
快活に笑い声をたて、ジンはこともなげに将軍の言をはねのける。
「自分の親のことを、そんなふうに言うもんじゃねえ。
急に、頼み込むような気弱な声色になり、スタンフォードが長身をすくめる。
倍ほども年のいった、ひとかどの戦士が、ジンのような若者にかしずくのは、シェレネには見慣れない光景だった。
それだけ身分のある、遠い人なのだ。きっと。
「苦労かけて済まないな、スタンフォード。
「ここらの女どもは、寝床にもぐりこむためなら、どんな嘘だってつきますぜ。行く宛なんざ、いくらでもあらぁ。そこらへんに放り出しゃいいんですよ。まったく、拾い癖も程々にしねえと……」
「シェレネ!」
再びがなり始めたスタンフォードを遮るように、ジンが声高くこちらを呼んだ。
すっかり萎縮していたシェレネは、おびえた瞳で二人のほうへ顔を向けた。
「来い」
小さく手招きして、ジンはあっさりと言い、シェレネを待たずに、幕屋から歩み去ろうとしている。
スタンフォードがまた、じろりと射るような強い視線で、シェレネを睨み付けてきた。
脇を通り過ぎれば、そのまま斬り捨てられるのではないかと怖い。
しかしシェレネは、目を瞑り、差し招かれるまま、将軍の脇を駆け抜けた。
幕につっこんで、そのまま外に飛び出すと、明るい陽光のもとに、十数騎の軍馬が、武装した男達を乗せて待ち受けていた。
黄色い長衣を抱え、白い夜着一枚を身につけただけの自分に、彼らの訝しむ視線が集まるのを感じ、シェレネは立ちすくんだ。
「シェレネ」
天幕の脇につながれた、頭の良さそうな茶斑の馬の横で、ジンが来いというように顎をしゃくった。シェレネは必死で、その傍まで駆け寄った。
「偵察にいく。お前も来い。なにも食ってなくて平気か?」
小声で問いかけられ、シェレネはただ無言で何度か頷いた。緊張のせいか、空腹は感じなかった。
シェレネの手を握り、しわくちゃになった長衣をとりあげると、ジンは戸惑いのない手つきで、それを纏いかけさせてくれた。シェレネが襟首から頭を出し、肩までの短い巻き毛をふると、ジンの口元が、かすかに笑う。
シェレネが鞍の上に座るのを助けてから、ジンは身軽に、その後ろに跨った。
腰にまわされたジンの腕に、シェレネは思わずしがみついていた。馬に乗るのは、初めてだった。
馬上から見下ろすと、地面はひどく遠くに見える。
天幕から出てきたスタンフォードが、苦々しい表情で、シェレネを見上げてきた。顔をそむけて、シェレネはうつむいた。
追い出されずに済んで、良かったのかどうか。
ジンに迷惑をかけているのだと思うと、つらかった。
武装させた馬に、二人乗りするなんて、聞いたこともない。
天幕に置いていけば、誰かがシェレネを追い出すだろうから、こうして連れて行ってくれるのだろう。
「……ごめんなさい」
いたたまれず、握り合わせた彼の手に詫びると、握り返してくるジンの指の力がかすかに強くなった。
「気にするな。スタンフォードは頭にきやすい。あれでも本当は優しいやつなんだよ」
そう言われて、盗み見た先にいるスタンフォード将軍の姿は、とても優しそうには見えない。
短く声をあげて、ジンが馬の腹を蹴った。
茶斑の馬が、軽やかに走りだした。
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