第16話 「『わたし』の心」




 漫画をパラパラと捲りながら、鼻をフンと鳴らした友禅は、手に持った漫画をソファへ乱雑に投げ、その近くに積まれた次の巻を手に取った。



「何が面白いんだ? 下っ手くそな絵で……しょうもない話を延々と」


「いや……そんなもん、漫画によるだろ」



 俺の反論に、友禅はこちらを向いて眉をあげた。


 俺が何か返すと思っていなかったのか、数秒見つめ合った後に小さく首を傾げた。



「じゃあ何読みゃいいんだよ」


「スマホで調べればいいだろ……」


「調べたとこでわかんねーだろ。ネットの評価なんてあてにならんのは、よくわかっているもんでな」



 友禅の反論を受け、俺は返す言葉を考えるが……たしかに、俺もどの漫画を読めばいいのか、正確なところは未だに良くはわかっていない。



「……それにしても、これは明らかに小学校低学年向けじゃないか」


「漫画なんて全部そうだろ」



 友禅は当然のように偏見を語る。

 その言葉には少しイラっとした俺だが、しかし『じゃあこれを読め』とえばって言えるほどの漫画に対する造詣は俺にない。その時点で友禅へ苛立ちをぶつける資格はない。



「……そのうち、面白いの持ってくるよ」


「なんだ? お前が描いてるの持ってくんのか?」


「そんなわけ――――」



 言いかけて、俺はハッとした。


 俺は、どんなつもりで描いていたのか。

 漫画を描いて、編集に見せに行って……その作品は、自分自身で『これが面白い作品だ』と信じていなかったのか?


 ……そんな状態の俺が作画をして、どうしていい物が作れるだろうか。



「…………」



 黙り込んだ俺の顔を、友禅は座ったままゆっくり見上げる。その顔の口角はあがっていた。



 俺はまだ何も言えないまま、肩を竦めて冷蔵庫へ向かって歩いた。











* * * * *











 わたし橘 真帆と林原くんが出張編集に見せに行ってから、一週間が経過した。


 見せに行った翌日からわたしの体調が少し悪くなって、学校にも行けないまま……あれ以来、林原くんにも会えずにいる。



 正直言って、あの日わたしはかなり精神的なダメージを負った。


 昔から体が弱く、空想しかしてこなかったわたしにとって、物語を紡ぐことは唯一と言って良い程数少ない『できること』だった。

 漫画の研究はしてきたつもりだし、それに費やした時間はわたしのアイデンティティ。それをプロの目線から一刀両断されるという経験は、中々ハードで……体調の悪化も、そのメンタルから来るものだと思う。


 あの日、ビルから車に戻る前に行ったトイレでは、グチャグチャに乱れた気持ちを落ち着かせるのにそれなりの時間を擁してしまった。そのせいで、林原くんはなんとママにあの原稿を見せてしまった。

 ママも漫画が好きだから、あれこれ言われることを覚悟していたが……むしろその逆で、ママはあれ以来『漫画を描くのなんてやめろ』と一切言わなくなった。

 なんとも複雑な心境だけれども、口出しをされないというのはラッキーだ。


 しかし、そんなことより不安な要素がある。林原くんは、今後も作画をやってくれるのかということだ。

 林原くんは『褒められることに違和感がある』と言っていた。とはいっても、しっかりとしたダメ出しを食らっても大丈夫というわけではない。

 あそこまでしっかり、逃げ場なく理路整然とした批評を聞かされて……彼は立ち直ることができるだろうか。


 そして今日は月曜日。放課後になって、わたしは林原くんにメッセージを送った。


 今後の進退に対する展望のすり合わせをしなければならない。一応これからも一緒にとは、栗田さんに聞かれた時は答えていたけれど。あの時にどう思ったかより、それなりに時間を置いた今、彼がどう思っているか。それが肝要だ。


 もやもやしながら自分の教室、机に突っ伏しながら漫画アプリをスワイプしていると、返信が来た。



『第六彩画室にいるから来てくれないか』



 短く、そう書かれた一文に、わたしは返事が来た安堵感と、珍しい要求に疑問を同時に抱いた。


 第六彩画室といえば、美術科の中でも埃が被っていると知られる場所だ。少子化で入学者が減少し、使用頻度が減った結果、あそこの照明が付いているのを見たことがあるのは教師だけ、という教室だけれど……そんな場所に呼び出して、彼は一体、どういうつもりだろう?


 ……なんて言っても、彼にはそんな気など無いのはわかりきっている。

 基本的に他人を嫌い、騒ぎを嫌う傾向のある彼にとって、わたしという存在は非常に厄介なものだったはずだ。


 それに、出張編集部に間に合わせるために、彼は寝る間も惜しんで筆を進める作業に没頭していた。本来の目的であったはずの、来月に迫った新人賞に到達する以前に、燃え尽きてしまったのではないか?

 一週間も会っていなければ、良くない予想というのは膨れ上がっていく。わたしは俯きながら第六彩画室にむけて歩き始める。


 ……ダメだ。顔を上げなければ。


 彼の前でわたしは、ポジティブでしたたかで、林原くんを巻き込んで目的に邁進する『橘真帆』なのだ。


 そうでなければ、彼はまた無茶をする。そんな彼を見たいわけではないのだ。







「ふぅー……」


 なんだか、少しばかり緊張する。

 指示された第六彩画室前に到着したわたしは、深呼吸をして扉の前でもたもたしていた。


 初めて声かけた時、朝礼の受賞後の契約の時、家に誘った時、病室にフラワーアレンジメントを持ってきてくれた時。わたしはいつも、こうして呼吸を落ち着けるのには苦労している。


 目を瞑って、肺を絞り、目を見開き、肺を膨らませ……扉に手をかける。



「おまたせー! ……あっ」



 意を決し彩画室に入室すると、中心で椅子に座っている林原くんを発見した。彼は右手に鉛筆を持って、イーゼルに向かって手を動かしていた。



「……ああ、橘。ちょっといいところだから、待ってくれ」



 わたしはひやりとした感情を抱く。

 あんなに、絵を描くという行為に懐疑的な雰囲気を醸していた林原くんが、わたしを待たせようが絵を描くという事態。

 これまでの彼とは、なにかが変わっていると……直感的にそう感じた。



「…………なにを、描いてるの?」


「いや、まあ……漫然と……手を動かしたい気分になったもんで」



 絵を見てみると、わたしたちの漫画の主人公が写実風に、正面を無表情に見据える絵だった。

 Gペンに比べるとよっぽど手馴れている手つきで描かれている主人公は、無表情にもかかわらず、原稿上に描かれているそれに比べ、どこか生命を感じる気がした。


 その絵に見惚れていると、林原くんの足元に平積みされた本の存在に気が付く。



「その、林原くん……それ」



 表紙を一目見ればわかる。それは漫画だ。



「ああ。読んでみたんだけど、読み疲れたから発散しようっていうので、ちょっとこっち始めたら、なんか筆が進んでさ。おかしいよな」



 その漫画は、絵は上手いがそんなに面白くないことで有名な漫画だ。表紙買いをしたのだろうか。

 面白くない話を漫画としてしっかり読もうとするのはストレスだ。そりゃあ別のことをしたくもなるだろう。


 そんなことを考えていると、林原くんは視線だけを動かして、わたしの視線とぶつかった。



「……一々聞かれたくないかもしれないけど、身体は大丈夫なのか?」


「あ、うん。ごめんね。一週間も……」


「いや、いいんだ。むしろ、君がいないと進まないのが悪いと思ってる」



 鉛筆を止め、こちらを見る林原くんは、わたしの方を見て苦笑いのような笑みを浮かべてふっと息を抜いた。



「これは手休めに描いてるだけだって。それに、最初に目標にした新人賞だってまだじゃないか」



 あれ、わたしの表情、そんなにわかりやすかったのかな。林原くんは、わたしの杞憂を顔から察したようだ。


 それを少し恥ずかしく思っていると、林原くんは右手で頭を掻きながら、こちらをチラチラと見てきた。

 なんだろう、と小首を傾げてみると、彼は少し息を吸って、それを言葉にして吐いた。



「なあ、橘。面白い漫画……というか、初心者の俺でもわかるものを教えてくれないか?」



 ――――。


 これまでも、こういう感情になったことは何度かあった。


 彼がプロットノートの中で、一番自信があったものを選んでくれた時。


 フラワーアレンジメントを持って、見舞いに来てくれた時。


 フラフラになるまで、頑張ってくれていたのを知った時。


 胸が熱くなって、足元がふわふわしたような感覚になって……笑みが溢れてしまう。



「えへ、へへへ」



 彼は一瞬、気恥しいような表情を浮かべるが、すぐにそれを片方の頬だけを吊り上げてニヒルっぽい表情を作ってみせる。



「君、そういう笑い方だったのか」



 ちょっと皮肉じみた言い方だけど、わかっている。これは照れ隠しだ。

 ああ、これまでの不安がなんだかばかばかしくなってきた。


 あんなことを悩んでいるより、よっぽど相談したいこと、教えたいこと、やってもらいたことがあるんだ。


 まずは、家にあるどの漫画を読んでもらおうか……それから考えてみようかな。



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