第15話 「心、知らず」



「あら、お疲れ様」


「はは、どうも……」



 運転席と対角線上にある後部座席に乗り込んだ俺は、ものすごく乾いた愛想笑いを橘の母に返す。

 忙しなくスマートフォンを操作しながら帰ってきた俺に言葉を発した橘母は、こちらに視線を送ることもない。



「真帆はどうしたんですか?」



 乗り込むもう1人の不在に、橘母が疑問を呈す。



「あー、先に戻っててくれと言われたので……」


「そうですか」



 短いやり取りに、痛い沈黙が張り詰める。

 真帆の指摘通り、俺は会話が下手だ。それに加えて橘母は必要以上の会話を望んでいないような印象を受ける。そんな相手にズバズバ切り込めるほど、心が強くできていない。



「どうでしたか」



 そんなことを考えていると、なんと橘母の方から質問が飛んできた。

 俺は手に持ったファイルをふと眺め、忸怩たる感情が再び沸き上がった。



「けっこう、酷評でしたね……特に、俺の絵が」



 喋りながら、自虐的な笑みを浮かべてみる。

 それは決して受け入れたからじゃない。自虐しているという体を取らなければ、自分を保てないような気がしたからだ。



「あら、貴方の絵はコンクールで入賞するレベルなのでは?」


「……漫画の絵と、俺が描いてきた絵は違うみたいですね」


「そうなんですか」



 栗田に色々告げられた内容を簡単に要約して話すが、橘母は短い返事を返すだけだ。


 ……いや、別にそりゃそうだという思いはある。

 しかし、娘が作った漫画に……まったく興味の無さそうな橘母の様子に、なぜか友禅の姿が思い浮かんだ。


 そう思うと、ムカムカしてきた。



「…………あの、読んでみますか?」



 するっと、掴み損ねた魚のように零れた言葉に俺自身も少し驚きながら……俺は橘母にファイルを掲げてみせた。


 橘母はこちらを見て意外そうな顔をする。そりゃそうだ。俺だって、今朝は絶対に見られたくないと正直思っていたのだから。

 俺はファイルを橘母に手渡した。

 彼女はすんなりそれを受け取り、原稿を眺めはじめた。



「上手な絵」


「……ありがとうございます」



 褒められた。だが、今となってはその誉め言葉すら栗田の指摘を思い出すものになる。もう前からそう良い気分になっていたわけではないが、もはや無だ。



 それからしばらくは車内に、原稿の摩擦音ばかりが響く。


 また思いの外、橘母が読む速度は速かった。

 もしかしたら真帆が漫画を読み始めたのは、この母親の影響があったりするのだろうか……と考えていると、橘母の様子が変わった。



「――――っ」



 唐突に肩を震わせたかと思うと、その頬には涙が伝っていた。



「!?」



 俺は驚いた。

 短編だし、そんな感動するような内容では……と思うし、栗田にはまあまあこき下ろされた。一体、何が彼女の琴線に触れたのか……。



「ごめん、なさい。こんなつもりでは、なかったのですが」



 手で涙を拭う橘母に、俺は何も言えずに黙っていると、さすがに空気感に耐えきれなくなったのか、彼女はぽつぽつ、ゆっくりと言葉を発し始めた。



「……あの子を、私は……健康な体に産んであげられなかった」



 その言葉に、さっきとは違う意味で言葉を詰まらせた。

 橘母が泣いた理由が、今の発言でようやくわかった。


 俺は今、聞いてはいけないものを聞いてしまったような、しかしここで聞かないことは許されないような……難しい心情がぶわっと湧き出て、スンと鼻を鳴らす橘母の二の句を待った。



「やりたいこと、やらせてあげられないと……同年代の子がすれ違う度に、今でも頭を掻きむしりたくなってしまう」



 どんな思いなのか、俺には想像しかできない。


 真帆に無理をさせ、一度倒れる場面に立ち会った俺の罪悪感は、未だに腹の底にじっとりとこびり付いている。


 一体、橘母はどれだけその現場を目にしてきたのだろう。


 そして、自分の子として産み、育ててきた真帆に……その度、どんな感情を抱いていたのだろう。


 そこまでの想像が全く至っていなかった。ただ、厳しい人だと……そう思ってしまっていた。

 その気付きで、内心申し訳ないような気持ちが湧きだした俺は内頬に歯が掛かる。



 漫画を読み終えた橘母は、深呼吸をし、ファイルを閉じる。

 くる、とこちらを振り返った彼女は、涙に濡れたつり目を、幾分か和らげて微笑んだ。



「この漫画を、読んで……少しだけ、救われた気持ちです。ありがとう」


「――――」



 礼を言われ、俺はきっと間抜けな表情で、口をポカンと開けた。

 ……礼を言われる筋合いなんか、俺には無い。



「たちば……真帆さんは、きっと俺が居なくても……完成させていましたよ」



 全て、彼女の力だ。

 何度も考えてきた、別の作画担当くらい、彼女は簡単に見つけられるだろう。

 彼女の以前言っていた『開き直っている』という言葉は、俺の脳に焼き付いていた。


 真帆はきっと、あの体に産まれたからこそこうしてパワフルに行動を起こしているのだろう。俺という存在の有無は、多分あまり関係ない。



「……そうでもないわ。きっと」


「え?」


「あの子、まだ部屋にあなたから送られたフラワーアレンジメント、飾っているんですよ」



 唐突なリークに、俺は言葉を失った。

 今朝、部屋に行った時には見当たらなかったが……隠していた、ということだろうか。


 ……今まで俺が考えていた彼女像と、いくらかズレがあるその情報に、少し顎を下げる。



「そういうことよ。2人共、少し素直になった方が良いわ」



 橘母がそう言ってほほ笑むと、俺はその奥の窓に建物から小走りで駆け寄ってくる真帆の姿を見た。



「ゴメン! おまたせー……あっ、ママ……読んだんだ?」


「ええ」



 俺の隣に乗り込んできた真帆は、俺を少しムッとした表情で見てきた。

 俺は知らない振りをして、橘母からファイルを受け取った。


 車のエンジンがかかる。シートに体重を落とし、シートベルトをかける。

 色んな情報が頭を駆け巡る。



 今はとりあえず……今は、まずペンを握りたいと思うばかりだった。









「……ただいま」



 俺は帰宅し、小さく呟く。

 階段に足を掛けようとした瞬間、グゥ、と腹の虫が鳴り、俺は現在の身体の状態をようやっと自覚する。


 仕方がないと、キッチンへ適当な食べ物を探しに向かいリビングの方へ足を踏み入れた。


 すると、そこには驚きの光景が広がっていた。



「えっ」



 ――――友禅が、漫画本を片手に缶ビールを呷っていたのだ。



「あ? ああ……おかえり」



 素っ気ない言葉を吐く友禅に、俺は言葉を失ってその光景をしばらく茫然と眺めることしかできない。


 一体、彼の中で何が起きたのだろう。これまで散々馬鹿にしてきた漫画を手に取って――――しかも、持っているのは明らかに現行より二世代ほど前の絵柄の、古い少年漫画だ。


 ……本当に、この男はどうなってしまったのだ?

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