第10話 「聞くべきこと、言うべきこと」




「……んむ……」



 意識が戻り、スイッチが入ったブラウン管テレビのように徐々に視界がクリアになってくる。

 その中で、ぼーっとしながら部屋を眺めると、普段この部屋では見ることのない背中があることに気が付く。



「……たちばな」


「あ、起きた?」



 ああ、そういえば……彼女に無理矢理寝させられたのか。彼女は俺の机に備え付けられた椅子に座りながら描きかけの日本画を眺めていたようだ。

 まともに頭は働かないが……彼女はいったいどれだけの時間起きっぱなしだったのだろう。



「今……何時だ」


「寝始めて3時間くらいかなぁ。もうちょっと寝た方が良いんじゃない?」


「…………ああ、そうみたいだ」



 体を起こしてみるが、頭がズキズキする。中途半端に寝たせいだろう。

 今日はもう、まともな活動はできそうもない。



「すまない。橘……せっかく、来たのに」



 事実だけを見ると……彼女は今日、俺を寝かしつけるためだけにやってきたということになる。

 退院したばかりで、決して無理をしていい体ではないはずなのに、俺の体調の悪さで……そう考えていると橘は首を緩慢に横に振った。



「ううん、いいんだよ。むしろ、来てよかった。じゃ、原稿とか全部持ち帰らせてもらうね」


「…………え?」



 寝起きで働かない頭では、彼女の言っている意味がよくわからずに聞き返すが、彼女はニコニコとしたまま立ち上がった。



「返してほしかったら……明日の昼、うちに来てね!」


「……どういうことだ? 時間が無いんだぞ?」


「いいから、ね? 明日はハードになるから、ちゃんと寝ておいでね~」



 そう言って部屋を出ようとしている真帆を追うように、俺もベッドから立ち上がる。



「……送るよ、一応」



 そして部屋を出て一緒に階段を降り、痛む頭を抑えながら歩く。

 こういう時は身体を動かした方が痛みはまぎれる。


 そして玄関に到着し、扉に手をかけた……その瞬間。



「よぉ、結糸。今度は女連れか」



 ……友禅が話しかけてきてしまった。


 ああ、なんて面倒な。



「…………ごめん、橘。やっぱり、1人で帰ってもらえるか」



 そう言った俺の表情を窺った真帆は、少しだけ口の両端をくい、と上げて頷いた。



「うん、またねー林原くん。お邪魔しましたー!」



 快活にそう言った彼女は扉から外へ足取り軽く帰っていった。

 それを見送った俺は、友禅へと視線を戻す。


 奴は片側だけ頬を歪ませ、嫌な笑いを浮かべている。



「ああいう女が好みなのか? 漫画を描くなんて突然言い出した意味が分かんなかったが……下心だったってわけだ」


 ……。


「下世話な話をするつもりはない」



 きっぱりとそう言い切り、俺は痛む頭を振る。

 余計に痛みが増すが、こいつを前にするストレスに比べれば大したことはない。


 この向かい合う男に、俺は何を言うべきか……少し考え、ぽろ、と口から言葉が溢れてきた。



「……なあ、アンタは、なんで絵を描いているんだ?」


「あ?」



 それは俺が絵を描くために筆を持ってから、ずっと……疑問に思いながらも聞くことができずにいたことだった。


 俺に足りない、明確なもの。

 それは……夢だ。

 他に言い換えれば、目標だったり、野望だったり、使命だったり……俺には、それがない。


 ただ整えられた環境に、型にはめられて、そのままの形でいることを是とされ……実際に今までそうしてきた。

 だからこそ、俺には何もない。



「わからないんだ。絵を描く理由」



 なぜ友禅は絵を描いているのだろう。

 俺と同じように、絵を描くことに疑問を抱くことなど、俺の何倍、何十倍と日本画と大家という看板の責任に向き合ってきた、この男は沢山あったのではないか?


 だから、こいつに聞けばわかると思っていた。

 だが、そもそも嫌いだったから……聞くことはできなかった。


 そして今、この向き合う瞬間。

 日本画から逃げて漫画に打ち込み、そこでも壁にぶつかった俺は、こいつに聞かなければならない。そう思った。


 俺を見る友禅は訝し気な表情をしながら口を開く。



「そんなもん、高え金払う奴がいるから描いてんだよ」



 友禅の答えは、俺の想像を超えるものでは……決してなかった。


 俺は落胆した。

 俺の抱く疑問を、恐らく友禅は理解していない。


 この答えを聞いて分かった。友禅は、俺が抱いている疑問を疑問とすら感じていない。

 そういう人間なのだ。この男と俺は……違う人間なのだ。だから、落胆した。


 俺の求めている答えを持っているからこの男は絵を描き続けられるのではなく……答えなんかなくても描き続けられるから、描き続けているのだ。

 その俺を無視し、友禅は言葉を続けている。



「お前は最強に幸運なことを理解してねぇ。オレの息子って時点で、情報に価値を感じる人間がどれだけいるか! いい加減気づけよ。お前がどれだけ恵まれてんのか!」



 友禅の言っていることは理解できる。

 だが、そういうことではないのだ。


 友禅は、持っている側の人間だ。

 絵を描く力を持ち、金を持ち、名声を持ち……俺の無いものを、嫌というほど持っている。


 ……持っていない人間のことなんか、目にも入らないから、理解もできないのだろう。



「そうだな。俺は恵まれている……だからきっと、ダメなんだ」



 何の不自由もない生活を送ってきた。

 両親がいて、父は嫌いでも金を稼いでいて。母のつくるご飯はおいしい。運動が得意でなくても体も健康だ。


 俺は、完璧に甘えている。

 真帆があれだけ頑張れているのは……彼女の母の制止も無視して漫画を頑張ろうとしているのは、彼女にそんな甘えが許されないからだ。



「どうすればいいのか、俺自身もわかってないんだ。だから……しばらく待ってくれないか。父さん」



 そこまで喋って、俺と友禅との間に沈黙が流れる。

 友禅は俺に何と言っていいかわからない様子だ。

 そういえば、生まれてからの16年……父に対して本心を明かしたのは初めてかもしれない。

 俺のどの言葉が友禅の言葉を止めたのかはわからないが……俺はもう聞きたいことを聞いたし、言いたいことも言った。


 もう頭痛は限界だ。自室に戻ろうと階段の方へ向かい……すれ違う瞬間、友禅の顔が目に入った。



「……育ててくれてありがとうとは、思っているよ」



 それだけ言い残し、俺は階段に足を掛けた。

 友禅は嫌いだが、それでも……彼の稼いだ金で衣食住が担保されているのは間違いない。

 嫌いだからって理由で、ずっと見てみぬふりをしてきたが……今は、言わなければいけない気がした。


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