第9話 「無能」



「おお……芸術家とミニマリストを足して割った感じだね」



 部屋へとやってきた真帆は、部屋を見ながらなにか感心したように頷いている。



「絵を描くか、スマホ見るかくらいしかやることがないから」



 無趣味な俺としては、むしろあんなに漫画に関するグッズが置かれている真帆の部屋の方が特異だ。



「机だけ、凄い汚れているねぇ」


「君の影響でな」


「えへ」



 原稿にペンに、ミスって少し垂れてしまったインクで机は他の部分に比べて散らかって見える。

 その机へ近付いた真帆は、その上に並べられた原稿用紙を眺めながら、首を傾げた。



「……これは、なにしてるの?」



 真帆が指差したのは、原稿用紙にひたすらに描かれた、丸や三角といった図形だった。

 色んな大きさで、色んな形のものを書き続け、それは原稿用紙の前面を埋め尽くしてある。



「ペンの勉強。思い通りのものを描く上では、難しいのを描き始めるよりも、まず簡単な図形を完璧に描けるようになってからの方が、結局近道なんだ」



 練習は功を奏し、最初に比べると線の迷いは無くなりつつある。

 ……まあ、元々絵以外なにもしてこなかった以上、これくらいできなければ話にならないが。



「あー、そんな記事、前見たことある。そもそも画力がないわたしはそういうレベルじゃないって諦めたけど……ふむ」



 次に、真帆はその原稿の下に隠れていた線画の入った原稿を手に取って、眺めた。

 じっと、黙って眺める彼女は……これまで俺がネームを提出した時と同じ表情をしている。



「上手なんだよね。間違いなく、わたしの予想以上に綺麗な出来にはなっている」



 言外に『何かが足りていない』という真帆の口調に、俺は内臓を殴られるような錯覚を起こす。


 真帆は見る目がある。絵は描けなくても、俺の日本画に対するスタンスも、この原稿に行き詰っていることも……きっと、すべて見透かしている。


 それは、凄く辛いことだった。


 彼女がこの漫画制作にかけている熱は、俺とは比べ物にならない。

 せめて、俺は俺の出来ることをと……こうしてやってきたというのに、作画においてすら足を引っ張る俺は、一体何をしているんだ。



「……ごめん」


「え?」



 つい口を出た謝罪に、真帆は豆鉄砲を食らったような表情をする。



「…………自分でも、わかっているんだ」



 いい絵が描けていない。

 量も全然少ない。



「筆が……進まないんだ。いざペンを持って見ると、一筆目を入れることがどうしても難しくて。勢いで描いてみても、なんか……これまでの俺と変わらない出来栄えになってしまっている」



 一度口にすると、自罰的な言葉は源泉のように溢れ出る。


 こんなこと、聞かされる真帆はどんな気持ちなのだろう。

 ……そんなことよりも、昨日からずっと頭の中に靄として湧く不甲斐なさが、堰を切ったように言葉となって顕現する。


 そして、言ってしまってから、後悔する。

 だって、彼女が俺に任せようとしていたことを、俺が『できませんでした』と告白しているようなものだ。

 彼女に伝えた苦悩は……俺はただの役立たずであると泣き言を言っただけで、彼女にはどうすることもできないことでしかない。


 もしかしたら、こんな泣き言を言わない、新たな漫画仲間を探し始めるかもしれない。

 むしろ、彼女としては……そちらの方が有益だろう。


 頭の中をグルグルと思考が駆け巡る。

 ああ、いつから俺はこんなにも情けなくなってしまったのだろう。

 前までは、こんなに悩むことなんてなかったというのに


 俺は真帆の顔をうかがう。

 彼女は原稿を机に置き、その手を口元でなぞりながら、なにか思考しているようだ。じっと、俺の方を見つめてきている。

 その視線に負けた俺は目を逸らすが、彼女は「んー」と声をあげた後、「よし!」と手を叩いた。



「よし、わたしも手伝う!」


「……え?」



 そう言うと彼女は、再度原稿を手に取って首を傾げた。



「ベタ塗りのところとかある? 絵が描けなくても、決められた部分に墨を落とすくらいはできるよ!」



 彼女の言葉に、色々言いたいことが浮かぶ。

 しかしその俺の顔の前に人差し指を突き出した真帆は俺がなにかを言うより先に続け様に口を開く。



「そして、林原くんは寝なさい!」



 その何とも気楽な命令に当惑していると、真帆は笑顔を見せる。



「わたし、林原くんがそんなに真剣にやってくれてると思ってなかった。軽はずみに頑張れって言って、ごめん」


「いや、俺は……」



 なぜ、真帆が謝るのか。

 そんなことを言わせた俺は……なんて考えていると、彼女は俺にぐいと距離を近付いてきた。



「えい」


「うおっ」



 真帆は俺の肩を押し、俺は背後にあるベッドへ倒れ込んだ。



「林原くんはわたしの命令に従う義務があるのです」


「……その強権……まだ有効だったのか……」



 ……命令された以上は従うほかない。

 横になっていると、急激に睡魔が襲い来る。

 そういえば、昨日からまともに寝床へついていなかった。

 意識が白い靄に包まれるのを感じながら、俺は机に腰かけた真帆に視線を送る。



「…………なあ、橘」



 その背中を眺めていると、ずっと抱いてきた疑問が自然に浮かんできた。



「……どうして、おまえは……そんなに力強く……行動できるんだ」



 彼女はいつもパワフルに、他人を巻き込むことも厭わずに行動を起こす。

 自分から何かをしようと思わない俺からすれば、なぜそんなことができるのか。それがずっと疑問だった。



「林原くん、陰キャだもんねぇ。あは」



 ……少し、イラっとする。

 しかし睡魔には敵わず、俺は黙って目を閉じた。



「わたしはさ、ほら。生まれついてのこの身体だから。やっぱどうしても、人よりダメなところがいっぱいあるんだ。運動ダメだし、テストも順位低いし」


「……お前が、点数取れないのか?」



 彼女のなんとも意外な一面に、俺は瞼を下ろしながら眉を顰める。

 真帆のようなタイプで成績が良くないというのは想像もしていなかった。


 だが、また言ってから後悔する。

 彼女の身体を考えれば、授業を毎日受けられるわけではないということは明らかだ。なんて浅慮な……。

 しかし、その後悔すらも押し流す眠気に溺れると口が開けない。



「えへ。そんなわたしがさ、誰かに遠慮してもたもたしてたら……絶対に追いつけないなって思っちゃって」



 真帆は軽くそう語る。

 しかしその内容は決して簡単なものではない。


 どれだけ悩んだのだろう。

 どれだけ苦しんだ先に、その結論に至ったのだろう。



「だから……そうだね。開き直っているっていうのが正確かな」



 自嘲気味に笑いながらそう言う彼女の手から、カリカリとペンを動かす音が聞こえる。



「わたしの方が、多分ダメな人なんだよ。林原くんの方が、良い人だよ」



 違う。




 そう言いたいのに、もう口は動かない。



 意識はまだギリギリの境界線だが、身体は完全に寝てしまっていた。







「――――おやすみ、林原くん」






 その声を最後に、俺は完全に眠りに落ちた。





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